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ふるさとの山 11

八風峠

 

山の写真


 八風峠は釈迦ヶ岳から北に延びる尾根筋にあります。下から見るとよく分かりませんが、標高は940メートルもあり、峠に立ってはじめてその高さを実感できます。この峠も昔は山岳信仰の対象で、麓の遥拝(ようはい)所(遠く離れて拝む所=八風スポーツ公園の辺り)から仰ぎ崇(あが)めた山でした。
 この峠の名の起こりは「伊勢風土記」に謳(うた)う次のような記述に見ることができます。
 「天日別命(あまのひわけのみこと)、天皇の命を受けて大和国より伊勢国へ攻め入り、国津神(くにつかみ)の伊勢津彦に「この国を天孫に献上せよ」と命じしが「吾はこの国を治めて年久しく、命をば聞かじ」と答えば、天日別命は「戦を起こして汝を殺す」と申し、伊勢津彦は、怖れて「吾が国は、ことごとく天孫に献上して、吾は今夜八風を起し海の水を吹き波に乗り東に去りぬ」
 この国讓りの噺(はなし)を、「八風」の名のよりどころとして、峠に祠(ほこら)を立て、伊勢津彦命を祀(まつ)り伝承してきました。峠を通る道も八風街道とよび、伊勢の桑名から近江の八日市、八幡に至る、中世の重要な交易路でした。伊勢からは塩、干魚などの海産物を送り、近江からは木地師(きじし)の盆、椀、曲(まげ)物、木炭、麻などの山のものが運ばれて、頻繁な通行がありました。
 では三重県側から山を登ってみましょう。桑名、梅戸から田光へ来た八風街道は、田光の辻で巡見街道と交わり峠へ向かいました。辻には多比鹿神社のご神木、エノキの大木があって、夏はこの木の下で旅人が汗を拭ったものでしょう。また、しばらく上がると里の西はずれに名物「侍松(さむらいまつ)」があり、街道に枝を差し伸べて梢(こずえ)に吹く松風の音(ね)は旅人を癒(いや)したことでしょう。その奥の山村切畑は、二十戸ばかりの静かな村、延喜式内社の伎留太(きるた)神社を祀り、旅人に乞(こ)われれば、一夜の宿を提供していました。
 切畑には「上の茶屋」「花市場」の名も残り、鄙(ひな)(田舎のこと)には稀(まれ)な風雅な山里でした。しばらく上ると右手のカシラコの木の下に「伊左衛門の碑」、そのまた上に「嘉助の碑」があります。この二人の若者は近江へ奉公に行き、在所の田光の元服式に参加するため帰路の途中、大雪でここで行き倒れてしまい、それを悼んだ若者連中が立てたものといわれています。その上の石鳥居は「中の鳥居」といい、御旅所跡の碑も残っています。そこから田光川を渡り大平谷、よく踏みならされた石畳の道、そこかしこに背負いの荷を一寸あずける、一服のための「腰高石」が残されています。
 野鳥の囀(さえず)りを聞きながら、なおも登ると一筋の滝が見えてきます。田光川の源流です。この滝をまっすぐ登ると中峠へ、滝の右側の急坂を登ると「坂中の地蔵」の前へ出ます。大石の陰に三体の石地蔵があり、伊勢湾台風までには、ここにブナの巨木が二本ありました。ここから道は緩やかになり、樹林の様子も変わります。
 さらに行くと、花崗(かこう)岩が風化して真白な、「天狗の踊場」というところに出ます。ここが頂上で、鳥居と八風大明神の碑が立ち、清浄な雰囲気を持っています。峠の一帯はシロヤシオなど高山帯のツツジの群落で、近江側への降り口は、シロヤシオの花のトンネルの下をくぐり、杠葉尾(ゆずりお)へと向います。峠の南に中峠がありますが、田口、切畑などの人たちが木挽(こびき)、炭焼仕事に越えた峠です。
 次第に八風街道を通る人も少なくなり、この街道を昔の賑わいに戻す開発論が起きて、明治四十四年(1911)三重郡、員弁郡の有志が田光の乗得寺に集まり、そこへ三重県知事の久保田政周氏を招いて、現地視察と陳情の大運動を行いましたが、実現できずに今に至りました。それがこの往来を現実のものにする、石榑峠の下をトンネルでくぐり、滋賀と三重をつなぐ産業道路が今年着工されています。

尾高山
八風峠
田光と杉谷の辺りから見た景色。左から釈迦ヶ岳の裾が伸び、
右手の山は副王山。八風峠はその間の低く見えるところです。