5.想い出

(1)塩化アセトフェノン

C号と呼び馴らされた催涙剤塩化アセトフェノンは、仏式イペリットと共に製造所開設当初から取り扱われた毒ガスであった。日製100キログラム程度の小規模の設備が三軒屋敷地の西北端にあった。前述の通り昭和4年(1929年)8月、仏式イペリットの製造が軌道に乗ってからは、作業の重点がこのC号に置かれるようになった。

   

《三軒屋工場群》

製造方式は単なる断続式で、内容200リットル内面鉛張りの鉄釜2基が階上に据わり、それぞれ攪拌機、蒸気加熱ジャケット、海水冷却管などの設備をもっていた。われわれが最初に着手したのは三塩化アルミニウムの粉砕であった。淡黄色で吸湿性が強いだけに至極厄介であった。粉砕機から取出し手早く容器に納め確実に蓋をしなければ、吸湿の為、後の作業に支障をきたした。吸湿したものは塩酸ガスを生じ白煙が蒙々と立ち込めるので、装面作業としては困難なものの一つであった。工室では排風設備があって汚れた空気を床面から吸引していたが、粉砕機の仕込口から発散するガスは容易に吸引してくれなかった。使用後の粉砕機は充分水洗しておかないと赤錆がわいた。

塩化アセトフェノンの製造工程を簡単に述べると、先ず一段化成といって、固体の一塩化醋酸と液体の三塩化燐とを釜に仕込んで加熱反応させると、一塩化アセチール・クロライドという帯黄色粘稠な液体ができた。この得量が反応の回毎に不同があった。少量であれば技術に欠陥があるというので、われわれは若年の意気に委せて競争し合った。鞆の浦の人気者武藤氏が製造責任者で大いに虐められた。しかし、反面作業に気合いが入ってお互いやり甲斐を感じた。中間品の得量これが一段化成のやまであった。

次に二段化成となり前段で得た一塩化アセチール・クロライドと触媒として粉砕した三塩化アルミニウムとを釜に仕込んで、攪拌加熱しながら徐々にベンゾールを流下反応させると縮合によって塩化アセトフェノンが得られた。毎日一定のリズムに乗って、ガランガランと攪拌機のまわる中に二段化成は進んで行った。朝8時から開始した作業は、14時頃終わるのが順調な経過であった。而し、また、ここに一つの難関が待ち構えていた。加熱縮合される成品は主にベンゾールの流下速度によって俗にいうへどろ状、或は半固形状などの状能となった。もし、それが半固形状であれば、釜の底にある径6?のコック式取出口から鉄製の耳掻きで引き出した。装面で僅かずつ引き出すので残業にならざるを得なかった。全工程を通じこの作業が一番苦痛であった。

二段化成以後の操作は水洗を繰り返して複塩を加水分解すれば、帯黄褐色粒状の塩化アセトフェノンが得られ、更にこれを蒸気乾燥して成品にした。この加水分解による精製の際、容器に使用するかめによく雀が飛び込んだが、分解の際、雀の好む香気を発散したのであろうか、工室から漏れる塩酸ガス臭と共にこの作業の思い出であった。

その頃、技術指導のため東京大久保の陸軍科学研究所からM氏が来島されたことがあった。彼は農学者を父に持ち、つれづれにヴァイオリンをも奏でる多趣味な人で、作業の合い問を借りて、しばしば東京方面の情勢を聞いたものであった。われわれの同僚に水戸市出身のI氏がいたが、絵をかくことが好きで、下宿先でよくモデルなど使って洋画を書いた。このI氏の世話で、M氏は忠海在住の日本画家Y氏の軸を数本求めて帰京されたりした。M氏の指導で作業は余程改良されたが、二段化成の難関は解決しなかった。

催涙性の強いこの剤は、製造工程全般にわたり塩酸ガスによる傷害がつきまとった。作業用にカーキー色の古軍服を着用し、ゴム長靴を穿いた。古軍服で思い出すのはその内ポケットから芸者の名刺が飛び出し、われわれ若い仲間に笑いをもたらしたこともあった。

待機所にいる時は軍服とゴム長靴は脱ぎ、シャツ、モモヒキ、下駄の服装でいたが、微量でも剤が付いておれば眼がチクチクして直ぐ涙が出たのでその存在がよく判った。特に冬季ストーブを用いる時期には室温の上昇に伴いごく少量の存在でも室には居られなかった。塩酸ガスでよく眼をやられたので待機所には洗眼用具が備えてあったが、この作業以外の人の手を借りなくては洗眼などとても出来なかった。咽喉もよくやられたがイペリット作業の様に大きな傷害はなかった。

昭和4年(1929年)の秋から試運転にかかり、関連作業である催涙筒、催涙棒などの作業と並行して運転されていった。

仏式イペリットと共に製造所の表看板となり、見学者などこの両工室は必ず見て帰った。仏式イペリットの工室はこのC号工室から南へおよそ100メートルの所にあって、高さ4?の鉄脚の上に乗った黒色の蒸気管によって連絡していた。両工室の間は広場になっていて、春から夏にかけては雑草が繁茂したが、胃癌の妙薬と言われたハマヂシャ、精神病の特効薬と称されたキチガイナスなどは格別繁殖力が旺盛であった。

毎年、春先きになって、これ等雑草が生い繁る頃になると、唐人笠でハマチが釣れた。漁師達は潮流のやわらいだ時期を見計らって錨を下ろし、イカナゴの撒き餅で釣るのであった。1尋ばかりの深さで、2艘で1日十数匹は確実であった。