No.272
美術工芸展示室
平成17年12月13日(火)〜平成18年4月2日(日)
 

鎮西博物館歴史参考之備品
 福岡市博物館はおかげさまで、開館15周年を迎えることができました。当館は郷土の歴史・文化をとらえ、その発展の足跡を学ぶことができる博物館として歩んできました。これより以前は、郷土の歴史・文化を学ぶ場として、福岡市通俗博物館(1917年開館)や福岡市立歴史資料館(1972年開館)の他、幾度となく開かれた博覧会等がありました。それらは多くの人々の興味を誘うものでした。ところで、2005年は奇しくも、愛・地球博開催と九州国立博物館開館という、大きな出来事があった年でした。そこで今回は東京の 湯島聖堂( ゆしませいどう ) で行われた、日本最初の博覧会や幻の鎮西博物館、福岡市博物館がテーマ館であったアジア太平洋博覧会の資料を紹介し、福岡における博覧会及び博物館の歴史について振り返ってみたいと思います。

日本の近代化と博覧会
  明治新政府により行われた博覧会は 殖産興業( しょくさんこうぎょう)の一環で、各地の物産を集めて、陳列する目的がありました。一方で、 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)などにより流出する貴重な文化財の保護の役 割を持っていました。明治5年(1872)、東京の湯島聖堂で行われた最初の博覧会では、一日平均約3000人の観覧者が訪れ、特に名古屋城の金鯱( きんしゃち ) が大変な注目を集めました。また、この博覧会では旧福岡藩主黒田家から金印や 印子金( いんすきん ) が出品されています。
  九州では太宰府で明治6〜8年(1873〜75年)、太宰府神社の神官らが中心となり、3度にわたって博覧会が開催され、周辺寺社の宝物などの古器旧物が展示されました。東京や京都に続き、地方では比較的早い段階に開催された博覧会で、古都太宰府の地域復興を意図したものでした。
  福岡市では明治20年(1887)に 崇福寺(そうふくじ ) で福岡博物展覧会が行われています。ここでは周辺の寺社の宝物など、現在、博物館で展示されている鍍金鐘( ときんしょう ) や大身鎗名物( おおみやりめいぶつ ) 日本号も展示されました。また、展示品には後に触れる鎮西博物館提唱者の 江藤正澄 ( えとうまさずみ ) の蒐集品もあり、その博物館での展示候補のものも多く含まれていました。

幻の鎮西博物館
  明治32年(1899)、九州を訪れた 岡倉天心 ( おかくらてんしん ) は九州博物館の必要性を提唱し、このことが九州国立博物館設立に繋がるのですが、岡倉の提唱の数年前から博物館建設の構想がありました。それが鎮西博物館です。
  鎮西博物館建設は、江藤正澄、 西高辻信厳 ( にしたかつじしんげん ) 、 吉嗣拝山 ( よしつぐはいざん ) によって計画が進められていました。明治26年(1893)には太宰府神社に建設を計画した鎮西博物館陳列平面図が内務省に提出されています。また、明治29年に印刷された鎮西博物館歴史参考之備品には、博物館で展示しようとしていた考古、歴史資 料が精密な描写で紹介されています。それらは縄文時代の石棒や弥生時代の磨製石剣、古墳から見つかった装飾器台、東大寺の 舞楽 ( ぶがく ) の面などがあり、福岡県を中心に、滋賀県や奈良県、朝鮮半島やアメリカ大陸など国内外でみつかったものでした。これらを蒐集、所蔵していたのが、建設計画の中心にいた江藤正澄でした。
  江藤は天保7年(1836)に福岡県秋月で生まれました。明治3年(1870)に神官になった後は、太宰府神社、 丹生川上( にうかわかみ ) 神社などを経て、明治8年(1875)には奈良で行われた博覧会にも尽力しました。明治10年(1877)に神官を辞した後は、古書・骨董屋を営む傍ら、考古学にも関心を持ち、東京人類学会の地方委員も勤めました。江藤の蒐集は書画や考古資料 と多岐に及び、その関心の広さや文化財の保存のための情熱を垣間見ることができます。しかし、鎮西博物館は実際に建設されることはありませんでした。その後、展示品候補だった江藤の蒐集品の大部分は伊勢の神宮徴古館( じんぐうちょうこかん ) に寄贈されました。