FILE074:「私は ここに いる」
2009年6月9日放送
福島智(障害学)
目が見えず、耳が聞こえない東大教授・福島智。爆笑問題の二人は、当初一体どうやってコミュニケーションをとればいいのか戸惑っていたが、やがて福島と徹底的に議論を繰り広げるようになる。テーマは「障害とは何か」「生きる意味」や「人間の価値とは何か」。福島は9歳で失明、18歳で聴覚を失った。光も音もない世界で、孤独と絶望にさいなまれてきた。その後、指先を点字タイプライターのキーに見立てて打つ、“指点字”という方法を母とともに考案、他者とのコミュニケーションを取りもどし社会とつながっている。
福島の専門は「障害学」。これまで、医療や福祉、教育の視点で語られてきた“障害”に関する様々な課題を、社会や文化の視点から捉え直していく、新しい学問だ。
そもそも障害とは、近代になって生み出された概念だと、福島は主張する。産業革命のころ、社会は大量生産を可能にする均質な労働力を求めた。それは一定程度の労働に耐えうる身体条件を備えた均質な労働者を必要とする社会でもあった。そこからこぼれ落ちる生産能力の低い人間を “障害者”とひとくくりにしたのだと福島は言う。
常に自分自身や人間の存在を問い続け、思索を重ねてきた福島。爆笑問題との議論の行方は!?
福島智(ふくしまさとし)
今回の対戦内容
福島智(ふくしまさとし)/爆笑問題(太田/田中)
福島:私は、何が幸福か不幸かっていうのは、もちろん人によっていろいろあるだろうけれども、すごいしんどい経験をした時にね、つらさ、苦悩というのも何か意味があるんじゃないかなと思うことにしようと。実は同じようなことを言っている人はたくさんいることが分かって。ナチスドイツの収容所に入れられた経験のある人で、ヴィクトール・フランクルという人がいるんですが。彼の本を読んでいて、すごい公式に出会ったんです。
その公式は、絶望=苦悩−意味って言うんですね。
左辺に絶望があって、絶望=苦悩−意味。これは何を意味するかというと、“−意味”を移行したら、絶望+意味=苦悩ということです。意味がない苦悩が絶望である。
で、苦悩と絶望は違うんだっていうことを、彼はアウシュビッツの経験から言っていて、私は同じことを18歳の時に考えて、全然違う時代と状況で似たようなことを考えている人がいるっていうことに出会って、すごく感動しましたし。何が幸福か不幸かっていうのを考える、そのさっきの三つのフィールドの議論の中で、すごく重要な意味を持つのかなと。苦悩があるから、しんどいから不幸だって簡単に考えるのではなくて、意味をそこに見いださせれば、それは絶望ではない。新しい豊かな人生が見つかるかも分からないっていうふうに思っています。だけどそのことと、具体的にどんな取り組みをするか、社会としてどんな取り組みをするかっていう話と、分けながら議論をして、その関係を考えていくっていうことが大事かなと。
先生の対戦感想
福島智(ふくしまさとし)
収録当日、私は体調があまり良くなく、指点字の読みとり能力も落ちていた。頭も回らず、舌もなめらかでなかった。それで、どうも良い出来とは思えないのだけれど、しかしまあ、その方がむしろ良かったのかもしれない。
もともと落語好きで、しゃべり好きで、“手八丁・口八丁”で生きている私。
“手八十丁・口八百丁”くらいの爆笑問題との対談で、私がエンジン全開にすれば、相乗効果で収拾のつかないことになっていただろう。
それでも、だいぶ収拾のつかない対話になった面もあるか・・・。いったいどういう番組になるのか、楽しみのような恐ろしいような気がしますな。
爆笑問題の対戦感想
田中:初めてああいう目が見えなくて耳も聞こえない人と話したんだけど、全然それを感じさせないっていうか、本当にスムーズに出来たよね。
太田:スムーズにコミュニケーション出来るなあって思ったよね。
田中:だから想像していたのと全然違う、本当にタイムラグがなく話が出来たのと、やたら明るい人でね。内容はね、結構シビアなこともあったんですけど、先生自身がすごく明るいというか、ポジティブな人だった。
太田:本当に明るいなと思ったよね。俺が思ったのは、こっちが思っている以上に、伝わるんだなって。言葉が直じゃないから間接的になんだけど、それでもギャグとかも、わりとはっきり分かるんだなっていう感じはあったよね。
あと、コミュニケーションしている時が一番楽しいっていうのは、印象に残っているっていうか、本当にそうだよなっていう感じだったな。指点字の人が常にいて、こう、どういう生活なのかなって、すごく興味深いというか、面白いなと。こっちは言葉を普通に話して、直で伝わるっていうところで生活しているから贅沢になって、言葉の不自由さみたいなことを感じるけど、逆に先生は、それをもっと渇望しているところがあって、自分にもっとストレートに伝わればって思っている部分があるっていう。おれから見れば、ああいうコミュニケーションは言葉以上に伝わるものがあるだろうって想像するけど、そんな甘いものじゃないんだろうな。
田中:俺たちも少しだけ体験したけど、目が見えなくて、耳も聞こえないっていう世界。あんなに短い時間でも、普段と全然違う世界にいるみたいだったしね。だから最後、おつかれでした、どうも、今日はありがとうございましたって、いつも言うじゃない。普通だったら離れながら徐々に手を振ったり、お辞儀したりして離れていく。でも今日は、こっちはちょっと離れたところで挨拶してるんだけど、先生は聞こえないし見えてないわけだから、もう先生にとって俺たちはそこにいないのと同じなんだよね。そういうことを考えると、これはやっぱり寂しいよなって。何十年あの状況で生きてきて、本当に我々が分かっていないような感覚もあるんだろうね。
ディレクター観戦後記
福島先生の取材のときは、いつもとても不思議な気持ちになります。
取材中、話している間は、私は先生の前にいる。
でも、取材を終えて挨拶をすると、その私の言葉を指点字で伝え終わったら、もう私は、先生の前にいないのと同じことになります。
逆も然り。私はもう帰ってしまっても、そのことが伝わっていなかったら、先生にとって、私はいつまでもそこにいることになります。
ここにいるけど、ここにいない。
これが先生の世界なんだな、、とふと思ったとき、光も音もない世界の一端に触れた気がしました。
自分は、目の前にいる相手のことを、どれほど理解しているのか、どこまで理解できるのだろうか、、、
福島先生にお会いすると、いつもそう突きつけられるように感じ、ドキっとしてしまうのです。
その雰囲気を少しでも感じていただきたいと思いながら制作しましたが、皆さまはどのように感じられたでしょうか・・・。
プロデューサーの編集後記
目が見えず、耳が聞こえないのに、まるでそうではないかのように会話が進む。いや、むしろ福島先生のツッコミやリアクションの間は絶妙といっていいほどでした。しかも先生の感想を読むと、あれでエンジン全開でないとは!もちろん指点字をする方とのコンビネーションがそれを生み出しているのですが、それ以上に福島先生のイメージ力が尋常ではないのだろう、と感じました。
全盲ろうの状態を、たとえば私は疑似体験しかできない。今ある世界のありようを見て聞いている状態から、目や耳をふさぐからです。何十年も前からその状態であることとは全く違う行為です。
先生曰く「宇宙にほっぽりだされているような」世界。そこから相手に向かって言葉を投げかけ、イメージを作り上げながら近づき、会話していく。太田さんが「何か、すごく深く会話をしている気がする」と言っていたのが印象的でした。結果、今回の番組は、お互いのイメージ力が絡み合うような、ものすごく濃密なトーク番組になったような気がします。
先生が投げかけた「何をもって障害とするのか?」という問いは、今も私の心の中に残り続けています。
つぶやき
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