メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

あの夏 特別編

2.「もう、取材され尽くしたよ」

 この春、プロ野球巨人の宮崎キャンプに臨時コーチで参加していた松井を訪ねた。「5連続敬遠? もう、取材をされ尽くしたよ」。引退から丸3年。少しふっくらした顔で、苦笑いした。

巨人の春季キャンプを訪れた長嶋茂雄氏と臨時コーチの松井秀喜=2016年2月、KIRISHIMAサンマリンスタジアム宮崎

 巨人、大リーグ・ヤンキースなどでプレーしていた頃の、他を圧倒するような鋭い雰囲気は、もうない。プロとして成功し、現役を終えた41歳には余裕がある。

 「あの夏の試合が、こうやって何年経っても扱われるのは、俺がたまたま、巨人や大リーグに行けたから。プロ野球で一度も1軍で出場できずに現役を終えていたら、微妙な試合になっていたと思うよ」

 ユニホームを着ている間、「自分は5打席連続で敬遠された選手。それを証明しなければ」という思いが、頭の片隅にあったという。それが、プロ20年で日米通算504本塁打を積み上げた、努力の原動力の一つにもなった。

 「24年前か。ほぼ四半世紀。駄目だこりゃって、顔をしてる」。明徳義塾戦で敬遠される自分の写真を見て、今度は大笑いした。

 「あれから色々と経験して、成長して大人になった。今の自分が18歳の気持ちにはなれない。ただ、今も昔も変わっていないのは、負けた悔しさだけなんだよ」

3.5打席、全球でタイミングは合わせた

 星稜の松井にとって、敬遠を徹底される予感は、1打席目からあった。一回2死三塁。明徳義塾の捕手青木は、座ったままボールを大きく外角に外した。

 松井は「いきなり敬遠か、と。普通は試合終盤の勝負どころ。1打席目から勝負を避けられたのは、神宮大会以来だった」。

三回裏、中前安打を放って出塁し、二盗の後、5番加用の右前安打で三塁へ進んだ明徳義塾の河野と星稜の松井

 優勝した1991年秋の神宮大会。帝京(東京)との決勝では4敬遠された。最初から敬遠だったのは六、八回の2打席。残りは、厳しいところを突いてカウントが苦しくなった末に、歩かされた。2打数1安打だった。

 甲子園での明徳戦は違った。2点を追う三回1死二、三塁。「この場面はしょうがない。敬遠だと思った」。ところが、再び2点を追う五回1死一塁。前の2打席では座っていた青木が、立ち上がったのだ。「驚いた。ここで、敬遠なら、今日は勝負をしてくれないと、初めて思った」

 確信に変わったのが、七回無死無走者の場面だった。「初球で分かった。ああ、来ないって」。九回2死三塁でも、松井がバットを振ることはなかった。

 「5打席、全球でタイミングは合わせた。手が届くところに来たら、行くぞと思っていた」。打者としての意地だった。

4.応援する側に回った「主役」

 私が記憶している星稜時代の松井は、試合中、ベンチでいつも山下監督の隣にドカッと腰をおろしていた。相手投手をジッと見つめ、静かに観察していた。

 ただ、明徳義塾戦は違った。ベンチ内ではもちろん、試合中もよく声を出していた。次打者席では、3番を打つ山口に「打て。哲治!」とげきを飛ばした。五回に私が適時打を放って二塁に立ったときは、三塁から「福角」と呼びかけ、「良く打った」とガッツポーズをしてきた。そんなことは、3年間で初めてだった。

九回表2死三塁の最終打席も敬遠四球だった星稜の松井

 松井は振り返る。「あの試合のことは、よく覚えている。色々な光景をね。だって、何もできないんだ。せめて、声で貢献できればと思っていた。野球人生で、あんなに声を出した試合は、ないんじゃないのかな」

 九回、打席が回ってくる直前のベンチでは、立ち上がって声をからした。「初めて感情が出た。お前ら打てよって。あれ、もう、九回だ。高校野球が終わるなって、気がついた。だから、感情的になってしまった」

 松井は、1年から主軸として常に試合に出場し続け、バットで結果を出すことを期待される立場だった。ただ、この試合だけは、懸命に応援する側に回った。

試合後、整列する星稜の選手たち。左端が松井、左から3人目が筆者の福角

5.バットを振らずに有名になった

 本塁打を量産したり、無安打無得点試合を達成したり。甲子園のヒーローは、何かを成し遂げることで生まれてきた。しかし、松井は違った。

 「俺は甲子園で打って有名になった選手ではない。1度も振らずに、全国区になったんだから」

 一塁へ黙々と走る姿にも、注目が集まった。弱冠18歳。不満など少しは態度に出てしまいそうな多感な時期だが、一切、無かった。

9回表2死三塁、五打席連続で敬遠され、一塁へ向かう松井秀喜

 松井のプロ時代の師匠、長嶋茂雄・元巨人監督は2013年の朝日新聞のインタビューで、「松井君は特別なものを持っていました。甲子園で5打席連続敬遠をされましたが、一塁へ走る姿が、5回とも同じ走りなんです。いろいろ思うところはあっただろうけれど、大人を感じました」と語った。

 高校最後の夏。一振りもできなかった松井はなぜ、冷静になれたのか。

 「敬遠は、怒ることではない。勝負されたら、絶対に打てるという確証があるのかと言ったら、それはわからない。勝負できないのは残念だけれど、勝つという目標があれば、敬遠されてもいい。だから、嫌な気分にならなかった」

 そんな怪物・松井秀喜との出会いは強烈だった。

続く

松井秀喜の甲子園全成績

西暦・学年 大会
ポジション
スコア・対戦相手 打数 安打 打点 本塁打 四死球 打率
1990年 1年 選手権大会
4番一塁
2回戦 負け3―7 3 0 0 0 1 .000
日大鶴ケ丘(西東京)
1991年 2年 選手権大会
4番三塁
2回戦 勝ち4―3 4 2 0 0 0 .500
市沼津(静岡)
3回戦 勝ち4―3 5 2 2 1 0 .400
竜ケ崎一(茨城)
準々決勝 勝ち3―2 2 0 0 0 2 .000
松商学園(長野)
準決勝 負け1―7 4 0 0 0 0 .000
大阪桐蔭(大阪)
1992年 3年 選抜大会
4番三塁
1回戦 勝ち9―3 4 4 7 2 1 1.000
宮古(岩手)
2回戦 勝ち4―0 4 1 2 1 0 .250
堀越(東京)
準々決勝 負け1―5 2 1 0 0 2 .500
天理(奈良)
選手権大会
4番三塁
1回戦 勝ち11―0 4 1 2 0 1 .250
長岡向陵(新潟)
2回戦 負け2―3 0 0 0 0 5 .000
明徳義塾(高知)
10試合 32 11 13 4 12 .344

みんなのコメント

今なお高校野球ファンの意見を二分する、松井秀喜への5連続敬遠。1992年の明徳義塾―星稜を、綿密な取材で振り返ります。
ユーザーの皆様から頂いたコメントを紹介します。(絵文字などは表示されないことがあります)