INTRODUCTION
国籍も名前も変えて生きなければならなかった娘は、母に何を想うのか――

1968年、学生たちによる革命運動のうねりのなか女性革命家として名を馳せた重信房子とウルリケ・マインホフ。ベトナム戦争で行なわれた虐殺に戦慄した彼女たちは、世界革命による資本主義勢力の打倒を目指し、それぞれ日本赤軍とドイツ赤軍を率いて活動した。本作はふたりの娘である作家兼ジャーナリストの重信メイとベティーナ・ロールが、母親である房子とウルリケの人生をたどり、現代史において、最も悪名高きテロリストと呼ばれた彼女たちの生き様を独自の視点から探ってゆく。母親たちが身を隠すなか、ある時はともに逃走し、誘拐されるなど、メイとベティーナは過酷な幼年期を過ごし、壮絶な人生を生きてきた。再び民主主義の危機が叫ばれるなか、彼女たちは自身の母親たちが目指した革命に向き合う。
彼女たちは何のために戦い、我々は彼女たちから何を学んだのか?
若松孝二監督が公開を熱望した、
最後の遺言とも言えるドキュメンタリーが遂に公開!
これまで非公開であった革命軍のキャンプ風景が初めて明かされる!
東京、ベイルート、ヨルダン、ドイツにて撮影された本作は、1968年当時の貴重なニュース映像や、二人に接した人たちのコメントを交え、テロリストと呼ばれた母親の素顔とその娘たちの生き方を重層的に、そして現代が失った変革を恐れぬ勇気を象徴的に描き出した。監督はアイルランドの気鋭ドキュメンタリスト、シェーン・オサリバンが務め、ヨーロッパ各地でセンセーションを巻き起こした。国籍や名前を変えて生きなければならなかった房子の娘であるメイは、その苦悩と母への想いを涙ながらにカメラに向って語る。革命家であり母親でもある彼女たちの生き方、また革命家の娘として生きた子どもたちの人生は、“幸福な社会”とは何かを、私たちに激しく問いかけてくるであろう。
KEYWORD
【日本赤軍】
日本人による新左翼武装組織。1971年に共産主義者同盟赤軍派中央委員だった重信房子が中心となり創設。アラブに渡り、パレスチナ解放のために活動を開始。70年代に5件のテロ事件を起こしたとされ、西欧諸国やイスラエル、日本側から国際指名手配される。2000年、重信が逮捕され、2001年獄中より「日本赤軍」としての解放宣言をおこなった。
【共産主義者同盟赤軍派(通称:赤軍派)】
安保闘争を前にした1969年、共産主義者同盟の一部が、革命には軍事が不可欠であり、革命は“武装闘争”により勝ちとられるという立場から、塩見孝也を中心に結成された。
【ドイツ赤軍(RAF、バーダー・マインホフ・グループ)】
1970年に結成された極左過激組織。資本主義及び帝国主義の打倒を掲げた。西ドイツ・フランクフルトの米軍兵舎に対する爆弾テロ事件(72年5月、1
死亡)、在ドイツ米国大使館銃撃事件(91年2月)など米国権益を標的としたほか、ドイツ銀行頭取爆殺事件(89年11月)、企業信託管理公社総裁暗殺事件(91年4月)など経済界の要人へのテロも繰り返した。さらに、連邦検事総長ら3人の殺害事件(77年4月)、ルフトハンザ機ハイジャック事件(77年10月、機長1
殺害)など、政府、民間人を問わず攻撃対象とした。98年4月、公式に解散を宣言した。
【大菩薩峠事件】
1969年11月5日、首相官邸襲撃の軍事訓練を行うため、大菩薩峠に結集していた塩見孝也ら53名の赤軍派戦士が逮捕される。
【日航機よど号ハイジャック事件】
1970年3月31日、赤軍派メンバーが日航機よど号ハイジャックを決行し、北朝鮮に着陸させる。学生動員の不足と学生運動に対する警察の徹底した鎮圧は、武装闘争への転換を引き起こすことになる。よど号ハイジャックは、武装勢力によるメディアを意識した直接行動への転向を予兆するものであった。彼らの暴力的手段は、武器の盗難や銀行強盗、交番爆破へとエスカレートしていく。
【テルアビブ空港乱射事件(ロッド空港乱射事件、リッダ闘争)】
1972年5月8日、アラブ・ゲリラが、サベナ航空機をハイジャックし、イスラエルのテルアビブにあるロッド国際空港(現在のベン・グリオン国際空港)に着陸し、逮捕されている多数の同志の釈放を要求した。イスラエル政府は、強行手段によりゲリラを射殺。PFLPは報復作戦を計画し、5月30日、ロッド国際空港の旅客ターミナルを攻撃。これに日本から義勇兵として奥平剛士、安田安之、岡本公三が加わった。結果的に民間人ら100人以上を殺傷(死者24名)することになる。岡本が逮捕され、残りの2人は自決した。岡本氏によると、無差別射撃事件として報道されたが、真相は違うという。彼ら自身は警備兵に発砲したのであり、メンバーの一人である安田氏が投げた手榴弾が壁にあたって遠くにいかず、他の一般客に被害が出ないようそれに体を覆い被せて亡くなったのだと証言している。真相は未だに不明である。日本政府はこの襲撃事件に遺憾の意を表明し、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払った。この事件は欧米全体で非難を集めたが、アラブ圏の多くでは成功として歓迎された。これをきっかけに「日本赤軍」が誕生する。
【あさま山荘事件】
1972年2月19日から10日間に亘って、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所浅間山荘において連合赤軍が起こした事件。浅間山荘に立て籠って管理人を人質に取り銃撃戦をおこなった。2月28日に警察機動隊が山荘に強行突入した。死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名。
【ドバイ日航機ハイジャック事件】
1973年7月20日、丸岡修と4名のPFLPメンバーが、「日本とパレスチナの革命を結合する世界革命戦争」の見地からパリ発アムステルダム経由東亰行きの日本航空ボーイング747型機をアムステルダム離陸後ハイジャックした。その後、アラブ首長国連邦のドバイ空港、 シリアのダマスカス空港等を経由し、リビアのベンガジ空港へ向った。乗員乗客141名の解放後、機体をベンガジ国際空港で爆破し、投降した。女性戦士1名が手榴弾の暴発で死亡した。
【シンガポール事件】
1974年1月31日、バセル・エル・コーバイシ隊と名乗るパレスチナゲリラと日本赤軍の混成部隊4名(日本赤軍2名 和光晴生、山田義昭と推認)が、「ベトナム革命戦争との連帯」作戦としてシンガポールのシェル石油製油所に侵入し、施設の一部を爆破、フェリーボートを乗っ取り乗員を人質にして脱出のための飛行機を要求した。
【在クウェート日本大使館占領事件】
1974年2月6日パレスチナゲリラ5名がクウェートの日本大使館を占拠し、大使館員ら16名を人質にとり、和光晴生らシンガポール事件の戦士と自らの脱出用飛行機を要求した。日本政府は要求をのみ、シンガポールに日航特別機を送り、クウェートの戦士と合流させ、日本赤軍とパレスチナゲリラメンバー9名を南イエメンに飛行させた。部隊はアデンで南イエメン政府に投降した。
【ハーグ事件】
1974年9月13日、西川純、奥平純三、和光晴生の3名が、先に逮捕された赤軍派メンバーの奪還を目指して、オランダ・ハーグにあるフランス、アメリカ等の大使館を占拠し大使館員を人質にとり、同年7月パリで逮捕された山田義昭の釈放と、拘束されたメンバーの釈放を要求した。
【クアラルンプール事件】
1975年8月4日、日本赤軍がクアラルンプールのアメリカ領事館とスウェーデン大使館を占拠する。50名の人質と引き換えに、日本政府は拘置中の活動家5名を解放することに同意する。
【ダッカ日航機ハイジャック事件】
1977年9月28日、日本赤軍が日航機472便をハイジャックし、バングラデシュのダッカに着陸させる。日本政府は600万ドルの身代金と囚人6名の解放に同意する。
※参考文献
『日本赤軍私史 パレスチナと共に』河出書房新社、2009年
『日本赤軍20年の軌跡』話の特集、1993年
『日本赤軍! 世界を疾走した群像』図書新聞、2010年
『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』幻冬舎、2001年
『秘密――パレスチナから桜の国へ 母と私の28年』講談社、2002年
『戦後ドイツ その知的歴史』岩波新書、1991年