現代のお仕事 様々な大人たち
身を削って芝居で闘う
劇作家・つかこうへい
劇作家・つかこうへい
 順風満帆に見えて、実は壁に直面しているのだという。ここ数年、抗不安剤の錠剤が離せない。つかこうへい(50)は社会と向き合って芝居をつくってきた。それが今、オウム事件、和歌山の毒物カレー事件を見ると「人間というのはどこまで過酷になるのか。勝てないですよ」という思いが強い。
 演技に見入ると、あごに力が入る。プロ野球の強打者のように、奥歯がぼろぼろになる。底冷えのする十二月のソウル。住宅街の地下室で昼前に始まったオーディションは、ほとんど休みなしで夜に入った。韓国人俳優の腕をつかみ、怒鳴る。「役をつくるな。ばっとせりふを言え!」
分かりにくい祖国
 四月にソウルで自作の「熱海殺人事件」の改作「熱い波・女刑事物語」を日韓両国語で上演する。一九八五年にも韓国で公演したが、その際は韓国語版「熱海…」だった。金大中政権の文化開放策の一環で、日本語劇が正式上演されるのは戦後初めてだ。つかが在日韓国人ということもあって注目されているが、本人は「大上段に振りかぶりたくない。
そっと地道にやりたい。プロとしていい舞台をつくるだけ」と、多くを語ろうとしない。
 四八年福岡・筑豊生まれ。生活はすべて日本式で、韓国語も十分には話せない。父は既に亡く、母も老いた。最近、つかは祖国とのつながりが分かりにくくなってきたという。口にはしないが韓国公演の背景には、静かに、祖国について考えたいという思いもあるのかもしれない。
芝居はF1レース
 慶応大在学中からアングラ演劇第二世代の劇作家、演出家として活動を始めた。七○年代から八○年代初めの「つかブーム」。故松本清張を超え、最も多くの作品が映画化された作家でもある。
 演出法は「口立て」という独特の手法。けいこ場でせりふを与え、役者に復唱させる。反応を見て、何度もせりふが変わる。「せりふの六割は役者が書かせる」と言う。
 「間だの、芸だのいらない。芝居はF1レースなんですよ。○・○一秒間違えると死ぬから、客は見に来る」
 八五年の公演に出た韓国の中堅俳優姜☆起(48)は「欠点を含めて、役者にすべてをさらけ出させ、芝居づくりに反映させる方法が新鮮だ。韓国の演劇界にも影響が残っている。一生気づかなかったかもしれない私の個性を、引き出してくれた」と振り返る。
やつらの人生を預かって
 九四年に東京都北区、九六年には大分市でそれぞれ行政の協力で劇団を旗揚げした。立派なホールがあっても、演じる側が育たない風潮を何とかしたいとの思いからだ。劇団には一流企業を辞めた若者らが「人生に後悔したくない」と次々に押し掛ける。
 「つらいもんなんですよ、劇団持つっていうのは。若いやつらの人生預かって。いとおしくて、重いですよ」
 四月から北海道北広島市で「演劇人育成セミナー」を開設する。自身の事務所での公演も続く。時間が惜しい。冠婚葬祭にはいっさい出ない。
 つかは、国籍ゆえに「いじめられつづけ、ひねくれ続けるしかない、さみしい少年でした」と、エッセー「娘に語る祖国」(九○年)の中で書いた。一方で「日本人の悪ガキと一緒になって、気の弱い朝鮮人をいじめたりもしていました」とも。声高には言わないが、差別とそれを生み出す社会の複雑なあり様が芝居づくりの原点にある。
ぼくは闘わなくちゃいけないんだ
 「熱海…」は七三年の初演以降、今日まで、キャストや設定を変え、改作を重ねている。同性愛、売春、親殺し。再演のたびにきわどいテーマが加わり、先鋭になってきた。
 二十年以上の付き合いになる俳優風間杜夫(49)が話す。「差別とかいろいろなことをあえて、抱え込んでいく。それがつかさんの持ち味なんだけど、もうちょっと解き放たれて、違う作品をつくってほしいとも思う」
 それでも、つかの思いは変わらない。「長い闘いですよ。心正直に生きて傷つくひとのために、僕は闘わなくちゃいけない」(文・浜村寿紀、写真・宋慶碩)=敬称略
 1999.01.30
☆台の右におおざと
【つか・こうへい氏略歴】
 一九四八年、福岡県嘉穂町生まれ。慶応大文学部中退。在学中から作品を発表、岸田戯曲賞(七四年)、直木賞(八二年)など受賞多数。九七年の新国立劇場のこけら落としで「銀ちゃんが、逝く」を上演、満員の客を集めた。
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