さて、有名人「新聞小政」は、その後どうなったのだろうか。
政次郎は、明治20年(1887)、故郷を後にして10年目に豊橋に帰った。32歳になっていた。彼は翌年結婚し、養豚業を始めている。そして、豊橋歩兵一八連隊の御用商人となる。そのうちにサルやトリ、ウサギを飼い始め、これが動物園の始まりとなった。
明治32年(1899)になって、場所を豊橋駅前に移し、動物も増やして個人経営の本格的な「安藤動物園」を開業した。この頃、個人が経営する動物園は、九州の熊本、東京の浅草、豊橋の三つだったという。建物は、わりと大きなトタン葺きの平屋で、そこにライオン、トラ、クマ、ワニ、ラクダ、オオカミ、ツル、ペリカン、ニシキヘビ、カワウソなどが飼育されていた。駅前という好立地条件の上、当時動物は珍しかったので、結構はやったらしい。
明治45年(1912)には、道路拡張のため、花田町守下の市有地に移転した。広さ約2500平方メートルの敷地に、約50種、250点ほどの動物が展示され、東海地方の名所となった。
動物好きだったとはいえ、政次郎がなぜ動物園を始めたのかはわからない。政次郎は、養豚業や動物園を経営するかたわら、静岡県で「アンチモニー」や「ニッケル」、「銅」、岐阜県で「マンガン鉱」の採掘を行っている。大成功を収めたというわけではないものの、動物園を開園する資金を得ることができたのかも知れない。
写真3は晩年の政次郎である。トレードマークとなったひげをたくわえているが、「豊橋市動物園」と書かれた法被を纏い、若き日の「新聞小政」の面影を残している。政次郎は、昭和5年(1930)7月18日、75歳の生涯を閉じた。
写真3 晩年の安藤政二郎(金子功氏蔵)
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