[特集]毎日映画コンクールの星/1
田中絹代 仕事一筋に生きた女優
(96.02.24)

 ◇不世出の演技派

 毎日映画コンクールの賞の中でも、「田中絹代賞」は、最も充実した女優たちを対 象にしているだけに、独特の華やかさがある。日本映画を彩った大女優の田中絹代の 業績を継ぐと期待される女優に与えられる賞。田中絹代は、一九七七年三月二十一日、 脳しゅようのため六十七歳で死去した。

 毎日映画コンクールと田中絹代の結び付きは深い。戦後間もなく四六年に始まった コンクールの第二回目(四七年度)で、早くも「結婚」「女優須磨子の恋」「不死鳥」 で女優演技賞。翌四八年度には「夜の女たち」「風の中の牝鶏」でも女優演技賞を受 賞した。

 五七年度には「異母兄弟」「女体は哀しく」「地上」で女優助演賞、六〇年度には 「おとうと」で女優助演賞、そして七四年度「サンダカン八番娼館・望郷」「三婆」 で女優助演賞を受賞している。

 これらの受賞対象作品は、田中絹代にとっては、ほんの一部。最も評価の高かった 溝口健二監督の「西鶴一代女」「雨月物語」などは対象になっていない。それだけ女 優演技賞の争いは熾烈(しれつ)だったということだろう。

 ここで絹代の足跡を振り返る。

 一九〇九年下関生まれ。実家は裕福だったが、絹代が六歳のころ没落、二四年に松 竹下加茂撮影所に入所、清水宏監督「村の牧場」で初主演した。蒲田撮影所に移り、 うぶな娘役が大当たり。二七年「恥しい夢」で準幹部になった。私生活では清水宏監 督と結婚したが、わがままを通して離婚。しかし出演作が次々にヒットして、栗島す み子に次ぐスターとなった。

 二九年「大学は出たけれど」で小津安二郎監督にも起用され、五所平之助監督「絹 代物語」「マダムと女房」で人気を不動にした。「金色夜叉」「花嫁の寝言」「伊豆 の踊子」は連続大ヒット。

 戦後は溝口健二監督「女性の勝利」「歌麿をめぐる五人の女」「女優須磨子の恋」 に連続出演。四九年溝口監督「わが恋は燃えぬ」、木下恵介監督「四谷怪談」などで 衰えぬ人気を誇った。五〇年に渡米したが、帰国した際サングラスに毛皮のハーフコ ートで投げキッスをして大ひんしゅくを買った。

 木下監督「婚約指輪(エンゲージ・リング)」、小津監督「宗方姉妹」が不評だっ たが、五二年の「西鶴一代女」で捨て身の演技が評判になり、「おかあさん」「煙突 の見える場所」、「雨月物語」「山椒太夫」などで完全に演技派に転向。五四年「月 は上りぬ」を初監督。

 五七年の「異母兄弟」、五八年の「楢山節考」では差し歯を抜いて熱演し絶賛され た。六五年「赤ひげ」を終えて一時仕事から身を引いたが、七二年「男はつらいよ・ 寅次郎夢枕」で七年ぶりに映画出演。七四年の熊井啓監督「サンダカン八番娼館・望 郷」では元からゆきさんのおさきを演じて大きな感動を呼んだ。

 ◇新藤監督語る

 新藤兼人監督に田中絹代について話していただいた。九五年毎日映画コンクールで は「午後の遺言状」で、日本映画大賞、監督賞を受賞した新藤監督は、田中さんと親 交があり、「小説・田中絹代」という本も書いている。

 「田中さんは溝口健二監督と仕事の関係が深く、私も溝口監督の弟子だったのでよ く知っていました。私が監督した映画『悲しみは女だけに』に出てもらったし、『あ る映画監督の生涯』ではインタビュアーの締めくくりもやってもらいました。田中絹 代の企画は週刊読売に連載しましたが、改めて下関に行ったりして調べ直しました」

 「田中さんは松竹のドル箱スターでしたが、かわいらしくて庶民的で親しみがあり ました。原節子や高峰三枝子のような作られた美人ではありませんでした。溝口さん との出会いは、田中さんが三十歳で『愛染かつら』に出た後でした。そのころ高峰三 枝子や水戸光子が出てきて、田中さんは娘役で売れなくなっていました。溝口さんの 『浪花女』に出演して、やっと創作活動に出会えたんです。賢い人ですから映画作り の本質を見抜いたんですね。それ以来、演技派女優として目覚ましい活躍をしました。 小津安二郎監督ら才能のある監督と仕事をしましたが、溝口さんは別で、溝口的リア リズムに引かれて考えが変わっていきました」

 「田中さんがアメリカへ行って帰ったら袋だたきにあったんです。木下(恵介)さ んの『婚約指輪』では“老醜”とたたかれました。溝口監督の『武蔵野夫人』でもミ スキャストとたたかれました。そこで、捨て身で撮った『西鶴一代女』が田中さんの 最高の作品といわれるぐらいに成功しました。『雨月物語』は精神分裂病だった溝口 さんの奥さんが亡くなった後、贖罪(しょくざい)の意味を込めて女性に感謝した作 品でした。溝口さんは“絹代がいたからできた”と言われていました」

 「溝口さんはその後、独身でしたが絹代には執着を持たれていました。結婚のうわ さもあったが、しなかった。田中さんは溝口さんを尊敬しているが窮屈だと言ってい ました。でも『ある映画監督の生涯』では、“申し込まれれば考えた”と言っていま した。溝口さんは女道楽があったが、田中さんにはプラトニックな愛情を持っていた んですね」

 「溝口さんの仕事は、それは厳しくて情け容赦もありませんでしたが、田中さんに とっては生涯の恩人でした。田中さんは演技者としては、熱演型でした。舞台の訓練 は受けておらず、映画女優で入って体で覚えた演技ですから、役の人柄が合えば力を 発揮しました。社会の底辺にいる女を演じると効果的でした。溝口さんも社会の底辺 を描くのが得意の監督でしたから、そこが合ったのでしょう」

 「田中さんは監督もやりましたが、監督としては平凡でした。溝口さんが『あなた の頭では監督はできません』と言って、田中さんが怒ってしまい、仲違いをしました。 あれは溝口さんの愛情なんです。女優が監督をやって成功したためしがない」

 「田中さんは、最後には入院費も払えないぐらいお金に困っていました。普通だと 蓄えがあるはずなんですが、あの人は仕事だけに生きていたんです。ああいう女優は、 もう現れることがないでしょう」