【高橋惠子 芸能生活42年回顧録「女優物語」(4)】
昭和45(1970)年4月、私は専属女優として大映に入社しました。高校には進学せずに、中学卒業直後の入社でしたから、まだ15歳です。当時はすでに「高校に進学するのは当たり前」。当然のことながら両親には反対されました。
その上、映画業界全体が斜陽化していて、正式入社前には私をスカウトしてくれた大映のスチールカメラマンの方が「これからはテレビの時代だから」と、同じ大映でもテレビ部を紹介してくれたほどです。私自身は女優になれるのならどんな場所でもよかったし、テレビ部に入社してもいいと考えていました。映画へのこだわりは特にはなかったのです。
ところが、テレビ部の方との面接では「君はテレビ向きじゃないな」とひと言いわれて終了…。具体的な理由は一切言われなかったので、自分なりに考えてみたのですが「15歳にしては大人びているから」くらいしか思いつきません。こうして「結果的に」映画でデビューすることになるのですが、このことが後に運命を変えることになるなんて想像できませんでした。
演技については全くの素人ですから、入社後に一から勉強でした。私は大映最後のニューフェース(将来の主演女優候補)でしたので、それなりに期待されていたらしく、4月からの3か月間、スタッフが総力を挙げて手取り足取り演技レッスンをしてくれました。そのとき教えていただいたことは、今でも私の体に染み付いています。
レッスンに励んでから2か月目のことでした。撮影所の所長室に呼び出されました。そこでデビュー作が当時の流行作家・富島健夫さん原作の「おさな妻」と決まったと通告されました。富島さんの原作は「青春小説でも性の問題は避けられない」とのポリシーから、過激な性描写が盛り込まれていることで物議を醸しました。
むろん、私も原作は読んでいましたし、リアルな性描写があることも知っています。原作に忠実な映画化だとしたら、ヌードシーンもあることでしょう。いくら大人びて見えるとはいえ、このときの私はまだ15歳の少女です。恥ずかしくないわけがありません。避けられるものなら、ぜひ避けたい——。これが本音でした。
ですが、一方でプロ意識もありました。所長命令とはいえ、言い渡された時点で「はい、やります」と答えてしまったのは私自身です。他の誰でもありません。「やります」と答えたからには、出演しなければならない責任があります。目の前の責任から逃げるわけにはいかないのです。
もしもテレビ部に入社し、テレビドラマでのデビューだったら、こんな悩みなどなかったでしょう。斜陽化している映画でのデビューだからこそインパクトの強い仕掛けが必要だったのです。私は覚悟を決めました。そして、「おさな妻」撮影に備えているときに…。