「こたつでミカン」の光景はなぜ生まれたのか

冬の風物詩の盛衰、かつては迷信で避けられていた時代も

2019.02.01(Fri) 佐藤 成美
筆者プロフィール&コラム概要

江戸時代には、嫌われていた時期も

 紀州ミカンが栽培されていた江戸時代、温州ミカンも既に栽培されていた。ただし、温州ミカンとはまだ名付けられてはおらず、「仲島ミカン」とよばれていた。そのころ、ミカンは高級品だったが、温州ミカンに限っては人気がなかった。今では考えにくいことが、その理由としていわれている。

 温州ミカンの特徴は、皮がすぐむけて、種がないということ。種がないのは、受粉しなくても実が育ち、種が入りにくいという性質があるためだ。食べやすくていいと思うが、なんと江戸時代は種がないことが嫌われる要因だったのだ。かつて「嫁して三年、子無きは去る」といわれ、子供の産めない女性が離縁されることがあった。そこで、種なし果実を食べることは、子孫を生めなくなり、家系を絶やすことになると考えられていた。もちろん迷信である。

 江戸時代後期に「温州ミカン」と名付けられると、人びとにようやく認知された。「温州」とは中国の浙江省にあるミカンの産地で、「温州のミカンに勝るとも劣らないミカン」という意味が込められている。中国から伝わったミカンとよく間違えられるが、れっきとした日本のミカンである。

 温州ミカンの栽培が盛んになったのは明治時代以降のこと。政府の勧農政策の後押しもあり、紀州ミカンに代わって普及した。

戦後にブーム到来、水田をミカン畑にする農家

 戦後になり、食糧難が落ち着くと、米に代わる作物として温州ミカン(以下、ミカン)の栽培が広がった。この頃は、普及したとはいえ、ミカンはまだ高級品で、「黄金のダイヤ」とよばれていた。古くからの産地が栽培面積を広げるのみならず、新しい栽培地も広がり、水田を掘り起こしてミカン畑にするほどだったという。

 こうして1960年代から1970年代にかけて、高度経済成長期とともにミカンブームが到来した。1960年代の生産の拡大により値段が安くなり、また消費者も豊かになり、かつて高級品だったミカンは庶民の味になった。改良され、甘くて酸味の少ない品種が出回ったこともミカンブームの要因である。

 1960年代後半にはミカンの消費は急増。1975年の生産量は、なんと366万トンを超え、消費のピークを迎えた。「こたつでミカン」が昭和の冬の光景になった背景には、ミカンブームがあったのである。

 1990年代以降、ミカンの消費や生産や消費は下がり始めた。その要因には、1991年にオレンジの輸入が自由化されたことがある。一方では、1972年の過剰生産による価格の大暴落を機に作付面積が減少しており、近年では高齢で生産をやめた人も多い。

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サイエンスライター、明治学院大学非常勤講師(生物学)、農学博士。食品会社の研究員、大学の研究員、教員などを経て現在に至る。研究所の広報誌やサイトなどにも原稿を執筆している。著書に『「おいしさ」の科学』(講談社ブルーバックス)『お酒の科学』(日刊工業新聞社)など多数。


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