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聖書とユダヤ人

聖書の根本的な教え、復活と永遠の命についての解説

イエスはなぜ神のことを父と呼んだのか?


実際に、イエスには人間の父親はありません。
ヨセフは養父であって、血の繋がりはないからです。

神を父と呼ぶのは、キリスト教では当たり前のことになっています。

イエスがそのように呼んでおられたからです。

しかし、旧約聖書においては人は神によって土の塵から作られたのです。したがって、旧約では人はあくまで神の被造物であり、親子関係はどこにも存在しないはずです。

新約においてさえもパウロなどは「人は神の被造物。神が人をどのように造ったとしても人は神に対して文句を言える立場ではない」というようなことを言っています。

 

では、なぜイエスは神のことを父と呼んだのでしょうか。

そもそもイエスの再臨はあるのか?

クリスチャンのほとんどはイエスの再臨があると考えているのですが、聖書をよく読むと再臨があるとするなら矛盾する箇所にいくつか出くわすことになります。

たとえば、次の聖句です。

★マタイによる福音書 28章 20節
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。ってイエスは言ってるじゃないですか。

自分よりも他者を愛するべきなのか?

イエスは、隣人愛についてどのように語っておられたでしょうか。
自分自身よりも他者を愛せよ、と言っているのでしょうか?
福音書からイエスの言葉を確認してみましょう。

★マルコによる福音書12章 31節
第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
これより大事ないましめは、ほかにない」。


もうお分かりだと思います。イエスは、自分よりも他者を愛せとは言っていないです。
むしろ、「自分を愛するように」と言っておられます。

自分を愛するがごとく、ということですから、イエスにおいては、まず自分を愛することが前提となっているのです。
自分をそもそも愛していない人は、同様に他者のことも愛せないわけです。
自分を愛せている人は、そのごとくに、他者も愛することができるでしょう。

パウロの発言について

しかし、わたしの意見では、そのままでいたなら、もっと幸福である。
わたしも神の霊を受けていると思う。:コリント人への第一の手紙 07章 40節

 

僕は新約聖書のこの箇所を若い頃に読んで衝撃を受けたものです。

その頃の僕は聖書に書かれているのは神のことばであって、絶対的に正しいものだと信じて疑っていませんでした。しかし、ここに書かれていたのはパウロの個人的な見解と、「思う」という確信的ではない言葉遣いでした。「思うって、なんやねん!」とツッコミたくなりました。

 

 

聖書の矛盾について考える

働くことについて少し考えてみます。

イエスは次のように言っておられます。
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」:マタイによる福音書 6章 26節

空の鳥は働いてなどいない。しかし鳥は現に生きている。
私達人間は鳥よりももっと価値あるものだ、とイエスは言う。
だからなおさら神に養ってもらえるだろうと言っているのではと思える聖句だ。

しかしパウロは次のように言う。
「実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。  」テサロニケの信徒への手紙二 03章 10-11節

と、働かないものを叱咤しているわけです。

イエスとパウロとは考え方が違う、と思わずにはいられないのです。

イエスは「思い煩うことなく、神に信頼せよ」というメッセージを投げかけてきます。

しかしパウロは「規律正しい生活をせよ」というメッセージが強いです。

イエスは人生の師のようだが、パウロは宗教的であり、教条的だと僕には思えます。

「教える・教わる」という概念と「情報の共有」について

昔は「教える」ということがあった。

そうすると、当然「教わる」ということもあったわけですよね。

 

現在でも、まだそうしたことが「ある」と思ってる人の方が多いですが、あると思っている人は、今でも「教える」や「教わる」を当たり前と思って実践しているわけです。

 

でも随分と前から建築士の資格を取らせる学校等ではビデオ講義というものになっていて、教室内に先生はおらず、講義を録画したビデオが流されているだけでした。

教室内では、生徒さんであり、お客さんでもある人たちがビデオから自主的に学んでいました。

 

今では、Youtube動画などで、これと同様に色々なことを学ぶことが出来ますね。

昔より素晴らしいのは、知識を非常に低コストで身に付けられることです。

 

情報を伝える側と、そこから学ぶ側には、お互いに何の上下関係もなくなりました。

それどころか、リアルで出会ってさえいないのです。

 

現代は、上から目線の概念から発生した「教える側」、「教わる側」という上下関係から、「知っていることを共有する」という横の関係へとシフトしている時代です。

 

このようにして情報が人類に平等に行き渡るようになると、人類全体のレベルアップに計り知れない貢献をすることになるわけです。

 

 

何かを本気でやめたいとき

たとえそれが何であれ、あなたがやめたいと思うものがあるときは、
そのやめたいものに対する「お葬式」をすることをおすすめします。

辞めたい物の実物や、写真、あるいは関連した何かを机の上に置き、出来るならば花をまわりに飾ったりお酒を呑んだりして、その物との楽しかった思い出を思い出しながら、別れのときが来たことを悲しんでください。あなたとの楽しかったことは、これからは思い出として心にしまっておきますと宣言します。その後、本当にそれを手離してしまいます。

この儀式を本気ですることにより、あなたがこれまで本心では手離したいと思っていたが、どうしても手離せなかった「悪い習慣」、「良くない考え方」、「自分にとって好ましくないこと」などを本当に捨てることが出来るはずです。