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私の履歴書復刻版

尽きぬ事業欲――日本一の「丸松」と組む 戦局悪化、蚕糸事業は中止 日清食品創業者 安藤百福(3)

2014/3/31

 台北市で始めたメリヤス商売は大成功だった。日本内地からいくら製品を仕入れても、間に合わなかった。そこで、翌年の1933年(昭和8年)に、大阪・船場のすぐ隣り、堺筋沿いの唐物町2丁目(現在の久太郎町1丁目辺り)に「日東商会」を設立して、問屋業務を始めた。

筆者が通った「丸松」の工場

 取引先は和歌山、大阪、東京などのメリヤスメーカーで、私はどこへでも足を運び、作り方を勉強した。綿、毛、絹の素材の特長や、20番手、30番手といった糸の太さなどを覚えた。私の扱うのは特注品ばかりなので、糸の太さはこれ、編み方はこうと、いちいち注文をつけた。そのせいか、商品の評判は良かった。

 こうなると、だんだん欲が出てくる。どうせやるなら、日本一のメーカーと組まなければおもしろくない。そのころ日本一のメリヤス業者といえば「丸松」だった。老舗である。

 旧阪神北海老江駅近くにあった本社工場を訪問した。貿易部長の田附(たづけ)駿吉さんと商談したが、話がなかなか通じない。私は特注品を買いたいので、交渉がどうしても技術的な話になる。技術にうとい田附部長は手に負えなくなって、生産の責任者を呼んでくれた。

 これが私に幸いした。現れたのが五十年配の藤村捨治良(すてじろう)工場長で、20代の私と妙に気が合った。それから後、話が弾むとご自宅までお邪魔して、食事をごちそうになるような親しい関係になった。

 藤村さんにおもしろい体験をさせてもらった。「飛行機で東京まで行ってみないか」と誘われたのである。そのころ飛行機はまだ珍しく、私も乗ったことはなかった。大阪の八尾空港に行くと、チャーター機は翼が布張りの単葉機である。たたくとボンボンと音がする。これで東京まで行けるのかと心細くなった。

 富士山の上空を飛んだ。操縦士が、振り返って「操縦してみますか」と言う。自動車免許も持たない私が操縦かんを握った。突然揺れが激しくなり、急上昇、急降下を始めた。藤村さんが青い顔をしている。

 私は愉快この上ない。東京まで約2時間半で着いた。戦後、富士山周辺で旅客機が墜落し、乱気流の激しい場所であることを知った。若かったとはいえ、恐ろしいことをしたものである。もちろん、丸松との取引は成功した。

 同じころ、私は京都の立命館大学専門学部経済科に通うことにした。夜間である。社員は十数人に増えて出張も多く、けっこう忙しかった。学生のアルバイトとは逆で、社長が学校に通っているという格好である。決して熱心な学生ではなかったのに、後に同大学から「名誉経営学博士号」をいただいた。理由は「戦後のベンチャービジネスの卓越した成果」とのことだが、気恥ずかしい思いである。

 メリヤス以外にも、いろいろな事業に手を染めた。たとえば、近江絹糸(現オーミケンシ)の社長だった夏川嘉久次さんらと相談して蚕糸事業を始めたことがある。ヒントになったのはひまし油だった。本来は下剤だが、当時は飛行機の潤滑油に使われ、おう盛な需要があった。蚕はふつう桑の葉で飼うが、私が実験してみると、ヒマの葉も食べることがわかった。少し繭が黄色みを帯びるけれど、成長が早い。

 そこで、私がヒマを栽培し、その実からひまし油を取る。一方、繭は夏川さんの会社で糸にし、福井県にある酒伊繊維工業が織物にする。それを三井物産が売る。そんな計画だった。資本金は50万円で盛大にスタートした。

 一石二鳥、三鳥を狙うまことに優れたアイデアだと思ったのだが、戦局が悪化したため中止せざるをえなくなった。

<<第2回 商売への興味――祖父の仕事見て学ぶ メリヤス販売創業し独立

>>第4回 戦時経済――事業のヒントは無限

 この連載は、2001年9月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」および「私の履歴書 経済人 第36巻」(日本経済新聞出版社)の「安藤百福」の章を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。

[日経Bizアカデミー2014年3月31日付]

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