Music

30

勇気があれば<'79.9.5>

作詞:山川啓介 作曲:筒美京平 編曲:萩田光雄

ジャケット写真は伊豆・稲取での『BIG GAME』コンサートの合宿の時に撮影されたもの。歌衣裳は、白のタキシードにサッシュベルト(紫など)。この年の歌謡賞関係はレコード大賞を除いて全てグランプリを受賞。他に「ベストドレッサー賞」や「ベストハッテドマン」など、歌以外の賞も受賞した。また、フジテレビ系で同タイトルのドラマに出演、共演は森下愛子 他。
29

ホップ・ステップ・ジャンプ<'79.5.21>

作詞:山崎 光 作曲:水谷公生 編曲:水谷公生・佐藤準

ジャケット写真はヨロン島で撮影したもの。前作同様スポーティな歌衣裳で靴はコンバースのテニスシューズ。この頃 美津濃スポーツに大変お世話になり、スポーツウェアはほとんど美津濃のものだった。例えば、水着はSPEED、トレーニングウェアはランバードといった具合である。 『BIG GAME '79』はスペースイーグル登場。ファンクラブも客席に"HIDEKI"の電飾を飾り演出に参加。
28

YOUNG MAN (Y.M.C.A.)<'79.2.21>

作詞・作曲:J.MORALI-V.WILLIS-H.BELOLO 編曲:大谷和夫 訳詞:あまがいりゅうじ

レコードジャケットはロサンジェルス・センチュリーシ ティでのスナップ。緊急発売だったため撮影の時間がなかったので有り物の中から選んだ。歌衣裳は武藤ネコによるおなじみの星条旗のデザイン。同じ衣裳が4ポーズあるのだが、最初は手染で星とストライプを染めた物であった。レコーディングでの手拍子はスタジオにファンクラブの人達を招いて行なわれたが、テレビでのハンドクラップは当初ハンドクラッパーといわれるパーカッション系のクラップマシンを使っていたが、後にローランドTR-808というリズムコンポーザーを使用した。これも日本で初めて使用された。以降、ピンクレディ、海援隊など多くのアーティストが手拍子を録音する時にこのマシンが使用される様になる。
27

遥かなる恋人へ<'78.11.25>

作詞:竜 真知子 作曲・編曲:馬飼野康二

詞を発注する時に「木綿のハンカチーフ」のアンサーソングのような気持ちで…といってお願いした。詞も曲も素敵に仕上がった。HIDEKIの声の甘さを出すためにサビの部分をダブルにした。心地好い仕上りになっている。間奏のギターは芳野藤丸の演奏、ただしオブリは馬飼野さんの"書き譜"だったそうだ。また、毎年11月初旬に行なわれる恒例の武道館リサイタルでは初めて、それまでの円形ステージから北面に舞台を作った。内容も1部は「永遠の愛7章」というタイトルで一人芝居仕立の演出だった。コンサートで歌った事のないニューミュージック系の楽曲を取入れた。
26

ブルースカイ ブルー<'88.4.1>

作詞:阿久 悠 作曲・編曲:馬飼野康二

好青年というイメージが定着。合歓の里で合宿後ツアーへ。アラジンのようなパンツに鉢巻き姿というのは原宿の竹の子族の影響だろうか。'81年初めて香港でコンサートを行なった打ち上げの食事で訪れたレストランでHIDEKIを見つけたピアノマンがこの曲で迎えてくれた。現在でも歌っている西城秀樹のスタンダードナンバーのひとつ。 球場コンサートは東京後楽園でも行なわれる。東京雨。ステージの一部が15mの高さに上がるリフト登場。毎回タイトルが変わっていたが、この年から『BIG GAME』と呼ばれるようになる。"大きな遊び"という直訳の他に"大漁"という意味もある。
25

<'78.5.25>

作詞:阿久 悠 作曲・編曲:馬飼野康二

ジャケットで手にしている氷のハイヒールは3足(?) 用意した。赤坂のアマンドのシェフに削ってもらったもの。溶けない様にすばやく撮影されたが指の感覚が暫くなくなりヒールも二つに折れてしまった。歌衣裳は金色の網と黄色の衣裳でサッシュベルト上に金色の紐をしていた。楽曲的には、当初大野克夫の作曲で「ブーツ~」の延長路線上のメロウでアダルティな曲に仕上がったのだが、TBS『東京音楽祭』に出場するために従来の'動'の部分を強調したかったため馬飼野さんに発注しなおした。詞はすでに登録されていたため同じ詞で2曲誕生したのだが大野さんのそれは世に出る事なくお蔵入りとなってしまった。
24

あなたと愛のために<'78.3.5>

作詞:東海林 良 作曲:大野克夫 編曲:水谷公生

『明星』の海外取材でタヒチへ。トップレスのオーストラリアの女性との水上スキーをしているグラビアはファンにとってショッキングな出来事だった。レコードジャケットはその時の撮影でカメラは長浜さんだった。作品的にはイントロにシンセドラムをいち早く取り入れた曲で初めての女言葉の歌詞だった。コンサートではシモンズ(シンセドラム)を使用していた。
23

ブーツをぬいで朝食を<'78.1.1>

作詞:阿久 悠 作曲:大野克夫 編曲:萩田光雄

レコードジャケットも歌衣裳も当然ブーツを履いている。違うのは、ジャケットでは精悍さを出すために黒に白いマフラーを、歌衣裳は白のサテン地の上下に袖と襟に毛皮(兎の毛)のついた王子さまのような衣裳で、振付けにライターを使った。TBSの『ザ・ベストテン』を見ていた子供たちが真似をしてカーテンに燃え移るというボヤ火事が3件程起こったため振付けを変更。番組で「ライターを使わないように」と異例の呼び掛けを行なった。
22

ボタンを外せ<'77.9.5>

作詞:阿久 悠 作曲・編曲:三木たかし

レコードジャケット撮影は現在の様にCG加工などなかったのでホリゾントに黒いテープを貼り影が出ないように苦心した。白いタキシードのベストだけ作った。歌衣裳は黒のツイードのスーツに星の刺繍が入ったベスト、ハンチング帽子といった具合。 この頃の行きつけの店といえば、洋服では六本木のJUN、原宿のミルクボーイ、食事では飯倉のイタ飯キャンティ、乃木坂のステーキハウスHAMA、赤坂のオリムピック、そして千駄ケ谷の広島風お好み焼 おたふく、四谷の焼肉ギャルソン、河豚の山田屋、ディスコでは赤坂の無限やビブロスから六本木のスクェアビルのギゼやレキシントンクイーンへと移った時代だった。変わった所では六本木の飯倉よりのホットコロッケでラテンミュージックを楽しんだりした。阿久さんの通いつけの赤坂のパピヨンにも打ち合せを兼ねてよく顔を出していた。
21

セクシーロックンローラー<'77.6.5>

作詞:阿久 悠 作曲:三木たかし 編曲:萩田光雄

レコードジャケットは磯子プリンスホテル(現在の横浜プリンスホテル)の中庭で撮影された。まだ肌寒かったが、夏の雰囲気を出す為にホースで水を撒きながらの撮影。衣裳も既成のものではなくこの撮影の為に製作された。また、劇団四季と初めてのミュージカル『我が青春の北壁』にも挑戦した。演出家の浅利慶太が絶賛。 球場コンサートは雨天決行。"ハーレー隊"とクラッシックカーで登場。11tトラックを改造した"光の箱"(移動ステージ)でファンの目の前へ。
20

ブーメラン ストリート<'77.3.15>

作詞:阿久 悠 作曲:三木たかし 編曲:萩田光雄

取材のツアーでスペイン(マドリッド・コルドバ・トレド・セビリア)、パリと『平凡』の取材で廻り、その後『セブンティーン』の取材のためロンドンへと渡り一緒にレコードジャケットの撮影も行なった。集英社の中村 昇の撮影。 この曲から歌衣裳のデザインも武藤ネコになる。黒の人工皮の上下にロングブーツ、ブルゾンの背中には銀の刺繍で曲名が入っている。同じデザインで薄いパープルのものと2着作られた。
19

ラスト・シーン<'76.12.20>

作詞:阿久 悠 作曲・編曲:三木たかし

ワイルドなイメージから白いタキシードがよく似合う歌謡界の貴公子のイメージへと大人という事を意識させるような展開で初めてのディナーショーを赤坂のニューラテンクォーターで行なった。持ち歌は「君よ~」のB面「ふたりだけの夜」だけだった。初めてのディナーショーでゲストに左とん平を招いたのだが二人ともあがってしまった。いやそればかりか客席も緊張していた。
18

若き獅子たち<'76.9.5>

作詞:阿久 悠 作曲・編曲:三木たかし

シングルレコードジャケットは赤坂の檜町公園で撮影された。天候は快晴、しかしHIDEKIは下痢気味で何度も公衆トイレに駆込んだ。無心で撮られた事が、今でもファンの間で好きなジャケットベスト5に入る原因か? また、ハワイオアフ島で同タイトルの写真集が撮影された。こちらの衣裳はすべて三宅一生デザインのプレタポルテだった。子供の頃かじったゴルフを本格的に始めたのもこの頃である。芝のゴルフレッスン場によく通った。
17

ジャガー<'76.6.5>

作詞:阿久 悠 作曲・編曲:三木たかし

ご存じアン・ルイスのアイデアをこの時のスタイリストの高橋洋子がデザインしたもので赤のジャンプスーツに竹ビーズで蜘蛛の巣をあしらった衣裳。竹ビーズの重さでお尻の割れ目が見えそうになり話題になった。ユネスコ村で新曲発表会を開いた際、興奮したHIDEKIがアンコールでギターを叩き割るというハプニングがあった。これは、バックバンドの芳野藤丸を拝み倒して譲ってもらった大事なギブソンのL-6であった。大失敗である。 球場コンサートの目玉は"トラック野郎"のデコトラ。
16

君よ抱かれて熱くなれ<'76.2.25>

作詞:阿久 悠 作曲・編曲:三木たかし

歌衣裳はエンジのベルベットのジャケットで胸に鳥の羽根のコサージュが付けられていた。また、ハワイで初の海外コンサートを行なった。衣裳はMEN's BA-TSUの栗原範子のデザインのものが多く、レース、ナイロン、ビーズがふんだんに使われていた。この頃からクリーニングは白洋舎のお世話になった。深夜に出して朝まで仕上げて下さいなどとかなり無理を言った。
15

白い教会<'75.10.25>

作詞:たかたかし 作曲:鈴木邦彦 編曲:あかのたちお

ポスターは全国縦断コンサートに続いて横尾忠則のデザイン。横尾さんとは『寺貫』でも共演したのだが、愛娘のミミちゃんがHIDEKIの大ファンということもあり心良く引き受けて下さった。またコンサートなどにもよく足を運んで下さった。話題はもっぱらUFOの事が中心だった。 また、紅白にはフード付きの白いケープ姿。
14

至上の愛<'75.8.25>

作詞:安井かずみ 作曲・編曲:馬飼野康二

20歳を意識して煙草をくゆらす男っぽいシングルレコードジャケット。衣裳もシンプルに白のタートルネックのセーター。勿論ジャケットも用意されていたのだが、脱いだ方が良かった。ちなみに、パッチワークジーンズの上下だったと思う。 2回目の球場コンサートは台風の為順延、フォーミュラーカーとフェアレディZ、空中40mのゴンドラが印象的。
13

恋の暴走<'75.5.25>

作詞:安井かずみ 作曲・編曲:馬飼野康二

『寺貫2』で骨折したためレコーディングもジャケット撮影もギプスをしたまま行なわれた。その為、腕から下は撮影しないよう肩から上のショットにした。また、健康的なイメージを保つため濃い目のファンデーション(マックスファクターのダークエジプシャン・スティックタイプ)を使用した。二の腕まで塗ったので1本使ってしまった。テレビでも藤丸バンドをバックに衣裳はジャンプスーツにロングマフラーとロッド・スチュアート&フェイセスみたいだった。ちなみにこの頃衣裳は庄田紫悶デザインのもの。
12

この愛のときめき<'75.2.25>

作詞:安井かずみ 作曲・編曲:あかのたちお

当時はデニーズやマクドナルドなどのいわゆるファーストフードの店がなく食事するのが大変だった。赤坂近辺に住んでいたこともあり早い時間ならサクソン(現在のトップス)のカレー、五番館で和食、竜のステーキ、竹生でお好み焼を、遅くなると青山のココパームスでイタ飯、またはユアーズ(現在のクイーン&キングというディスコの場所にあった唯一深夜営業していたコンビニ)で買物してマンションで…というパターンだった。
11

涙と友情<'74.11.25>

作詞:たかたかし 作曲:鈴木邦彦 編曲:あかのたちお

このジャケットは当時『セブンティーン』の担当カメラマン 中村昇の作品。寝る暇もない程のスケジュールで、ニキビに悩まされ、赤坂皮膚科の竹崎院長に大変お世話になった。また、この頃から飯倉のキャンティの上にアトリエがあったベビードールのたけちゃんのデザインによる衣裳が多くなった。代表作はNHK『紅白歌合戦』初出場「傷だらけのローラ」で着た快傑ゾロ風の衣裳。この年から始まった球場コンサートではじめてペンライト(最初は懐中電燈の人が多かった)が登場する。
10

傷だらけのローラ<'74.8.25>

作詞:さいとう大三 作曲・編曲:馬飼野康二

カナダで2位をマークしたフランス語ヴァージョンの「LOLA」のジャケット写真には、ポスターに使われた黒のサテン地のタートルネックのバストアップが使用されている。また、実はこの曲の方が「激しい恋」より先にレコーディングされていたのだが、曲調を考え秋の勝負曲として温存、リリースを入替えた。双方の曲に初めてシンセサイザーを使用。ちなみにあのグリスアップする重低音はミニムーグによって作られたもの。録音スタジオは新橋のテイチクスタジオ。
09

激しい恋<'74.5.25>

作詞:安井かずみ 作曲・編曲:馬飼野康二

六本木スタジオで撮影された。カメラは武藤 義、衣裳は武藤ネコカリプソスタイルで下はホワイトジーンズをバミューダパンツ風にカットしたものをはいている。撮影では使われなかったが、麦わら帽子まで用意されていた。歌番組では女性ダンサーグループ クルクルをバックに従えて歌った。TBS『火曜歌謡ビッグマッチ』で新御三家が初共演、衣裳、歌う順番など各マネージャー立合いの下で決められた。また、この年は歌だけではなく、TBS『寺内貫太郎一家』、松竹映画『愛と誠』で映画初主演と活躍。日本で初めての球場ワンマンコンサートが大阪球場でおこなわれる。ヨット型のステージ。ナナハンのオートバイ30台を引き連れての登場。
08

薔薇の鎖<'74.2.25>

作詞:斉藤優子(原案)・たかたかし 作曲:鈴木邦彦 編曲:馬飼野康二

雑誌『平凡』で詞を募集。スタッフは1週間徹夜で選考しなければならない程の応募数で大変であった。ジャケット写真はエナメルのパンツをはいていた。胸のネックレスなどのアクセサリーなどでセクシーさを表現。歌謡界初のマイクスタンドアクションは当時 スパイダースのかまやつひろしといっしょにロッド・スチュアートのステージを見に行き研究。アルミニウム製の軽量スタンドを特注。また、NET(現在のテレビ朝日)『ベスト30歌謡曲』でマネージャー対抗歌合戦というコーナーがあり当時現場のマネージャーだった富士原光男が出場し、「~この世の幸せ」という所を「~あの世の幸せ」と歌い爆笑をさそった。
07

愛の十字架<'73.11.25>

作詞:たかたかし 作曲:鈴木邦彦 編曲:馬飼野康二

当時の衣裳の素材は、スパンコール・ラメ・ベルベット・サテンと種々様々であったのでクリーニング屋泣かせであった。汗やドーランで汚れが取れない事もあるので、衣裳は必ずといっていい程2番(2着)用意されていた。また、ハウス バーモントカレーのコマーシャルに初登場したのもこの頃。
06

ちぎれた愛<'73.9.5>

作詞:安井かずみ 作曲・編曲:馬飼野康二

ベルベット素材の歌衣裳は、それまでのアメリカンっぽいものからヨーロピアンぽいものへと変え、曲調に合せ大人っぽいイメージを印象付けた。しかし相変わらず私服はGパンで、LEE、リーバイスなどのストレートやベルボトムが中心で変わった物ではDO FAMILYのサロペット(つなぎ)などもはいていた。Gパンの下の履き物は勿論原宿 ゴローズのサボであった。
05

情熱の嵐<'73.5.25>

作詞:たかたかし 作曲:鈴木邦彦 編曲:馬飼野康二

振付けがエスカレート。フレーズとフレーズの間に「ヒデキ!!」というファンの掛け声が入る。ヘリコプターに乗って登場したユネスコ村でのキャンペーンは話題をさらった。GパンにTシャツが大好きであったが、当時の『明星』『平凡』『セブンティーン』『女学生の友』『少女フレンド』などのグラビアで着ている衣裳は、各雑誌社のヒデキ番と言われた担当記者が用意した。JUN、ニコルなどのメーカーの衣裳を気にいっていた。
04

青春に賭けよう<'73.2.25>

作詞:たかたかし 作曲:鈴木邦彦 編曲:馬飼野康二

ジャケットの写真は初めてのスタジオ撮影。ティーンの間で後に流行するスカーフをいち早く取入れている、"青春スタア"のイメージである。この頃は、コンサートの衣裳をはじめアニカモードサロンのアニカさんのデザインによるものがほとんどでプレスリーっぽい物がほとんどであった。
03

チャンスは一度<'72.11.25>

作詞:たかたかし 作曲:鈴木邦彦 編曲:馬飼野康二

当時は"アイドル"という言葉はなく"スタア"(スターではなくスタアという表記)という名で呼ばれていた。この曲から一の宮はじめの振付けが付き、後に山本リンダと共に"アクションスタア"と呼ばれる。フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』に初出場。
02

恋の約束<'72.7.25>

作詞:たかたかし 作曲:鈴木邦彦 編曲:葵まさひこ

レコードジャケットはオートバイをバックに。免許は持っていなかったが運転はできた。キャッチフレーズ通りワイルド=スポーティなイメージを追及。日劇(現在の有楽町マリオンの場所にあった)の『ウエスタンカーニバル』に同時期デビューの伊丹幸雄・田頭信幸と出演、新人三羽烏と呼ばれる。新御三家の前身であった。
01

恋する季節<'72.3.25>

作詞:麻生たかし 作曲:筒美京平 編曲:高田 弘

キャッチフレーズ(コピー)は「ワイルドな17才」。スタイリストやヘアーメイクなどいない時代でロケ現場でドライヤー用の電源がなく、髪の毛がはねている。その辺がワイルド…? 歌衣裳は当時としては画期的な"等身大の看板"に使われたサテン生地の衣裳が中心であった。日本テレビ系『紅白歌のベストテン』に初出場。