賢治 日めくり ~5月27日~

- 1912年5月27日(月)(賢治15歳)、盛岡中学校四年生として、宮城方面修学旅行に出発した。引率の町田、後藤、森田教諭と四年生生徒は84名は、午前3時30分東北本線上り臨時列車に乗り、7時3分に一ノ関に着いた。
一ノ関駅から北上川畔の狐禅寺まで4km歩き、ここから川蒸気外輪船「岩手丸」(70トン)に乗って、北上川を下った。一行は河口の石巻で下船し、市内の日和山に登ったが、賢治はここで生まれて初めて海を見た。「まぼろしとうつつとわかずなみがしら/きほひ寄せ来るわだつみを見き。」(歌稿 〔B〕10)
現在、日和山に立つ賢治詩碑はこちら。
- 1913年5月27日(火)(賢治16歳)、盛岡中学校五年生として、21日から北海道修学旅行に出ていたが、帰途のこの日は、午前3時23分大沼発の函館本線上り列車に乗って、4時25分に函館に着き、函館港から6時発の青函連絡船「会下山丸」に乗船し、青森港に10時15分に到着した。
青森からは、14時50分発の東北本線上り列車に乗り、21時22分に盛岡に着いた。
1916年5月27日(土)(賢治19歳)、この日の午後、盛岡高等農林学校寄宿舎自啓寮の南寮第九室の仲間で、校内の植物園において記念撮影をした(右写真)。手前で腹這いになっているのが保阪嘉内、後ろが右から、岩田元兄、伊藤彰造、賢治、原戸(工藤)藤一、萩原弥六。
- 1918年5月27日(月)(賢治21歳)、稗貫郡土性調査のあいまに20日から花巻の自宅に帰っていたが、この日久しぶりに盛岡に行って学校に顔を出し、10日付けで発令された「実験助手嘱託」という身分について詳細を聞いた。
賢治の給費は学校から支出され、年額150円ほどということであるが、来年以降に研究生になる人に対しては支給される保証はなく、出張旅費だけしか出なくなるかもしれないのだという。
これを聞いた賢治は、父あてに手紙を書き、今後の金銭的援助を頼んだ(書簡65)。
その中で賢治は、「辞令に相当する様の仕事は致し兼ね候為」、また来年以降の研究生の希望者がなくなっても郡が気の毒なので、150円のうち半分か100円ほどは受け取らずに、来年の研究生のためにまわしてもらうようにしたいと言う。また、現在行っている土性調査の費用もかなりかかり、郡の予算通過は難しいと思うので、自分が郡から受け取る金額は、120円を限度とすることを認めてほしいと言う。
要するに、自分に対して学校や郡から支給されることになっている研究費を、自発的に減額したいと父に申し出ている。そして、そのために不足する金額は、今学年中に百数十円ほどになると思われるが、これは家から援助してほしい、と父に頼んでいる。
賢治の身分は、関豊太郎教授が特に便宜を図ってくれたものであるが、自分だけが優遇されているような状況が許せなかったのか、土性調査に縛られているようで窮屈に感じたのか、賢治が上記のように申し出た真意は今ひとつはっきりしない。しかし、周囲に過剰に気をつかう一方で、父親に対しては気楽に金銭援助を頼んでいるところも、いかにも賢治らしい。
- 1926年5月27日(木)(賢治29歳)、伊藤忠一のノートによれば、この夜、羅須地人協会に会員が集まって、「太湖船」という曲を合奏したという。
- 1931年5月27日(水)(賢治34歳)、東北砕石工場長鈴木東蔵あてに手紙を書き、本日盛岡の吉田万太郎商店へ出荷8トン分の荷為替が送られてきたが、23日発送の分か、再注文があったのか、問い合わせた(書簡351)。
またこの日、以前にも販売区域分担をめぐってトラブルになった胆沢郡佐倉河村の高橋清吾から、賢治の販売活動に対して再び抗議の手紙が届き、この手紙を同封して、鈴木に善処を依頼した。三四日中には、要務をとりまとめて工場に行き、いろいろ相談したいと言う。
- 1932年5月27日(金)(賢治35歳)、25日に続いて民俗学者の佐々木喜善の来訪があり、二人で話をした。「佐々木喜善日記」には、「風が吹き宮沢さんに行き六時間ばかり居る、夕方かへる」と記されている。