伝言 医務室周辺
写真27 松島・神殿島をのぞむ

第一回ガイド養成講座(2000.4.11)にて

寒さの厳しいころは、ここはすばらしいところです。海に太陽がね、ばーと来るんですよ。景色いうたらこれほどのものはありません。そこの右手に見える小さい島、そこの三角の小島、これは愛媛県ですわ。これが松島いうんですね。向こうは神殿島いうて。今見えんですけど、恥ずかしゅうて隠れているのが、小久野島。この真向かいは愛媛県大三島。しまなみ街道は、この向こう側にあります。このまっすぐの水道を抜けたら、燧灘、伊予灘そして今治です。このあたりの真ん中あたりが水深六五メートルです。それからずーっと松島と神殿島の間、向こうにちょびっと見えますよね。あれを基準に、船はざーっと水道に出ていきます。

 このことはほんとかどうかわかりませんが 、日本は八月一五日に無条件降伏で敗戦しましたが、一六、一七おそらく一八日までかかったのでしょう。戦後駐留軍が来るまでの三日ないし四日の間に、毒ガスの処分を早くしたほうがいいと夜この海峡に捨てたという証言があります。神殿島から、松島あたりの海域に、致死性のイペリット、ルイサイトを捨てたというんですけどね。 

  忠海漁協組合長(広島県竹原市忠海町)、幸崎漁協組合長(広島県三原市幸崎町)三原漁協組  合長(広島県三原市古浜町)御島漁協組合長(愛媛県越智郡大三島町)から、一九七一年   (昭和四六年)二月二四日、広島県知事宛に出された「大久野島周辺海域に投棄された毒瓦斯  等の処置について(請願)」に記載されている。

 一九六九年一一月、防衛庁がこの海域を始めて調査したのですが、毒ガス等はないと報告しています。しかし、そのときは、一般航路になっているところ、水深六五メートルの海域を調査してないらしいんです。一九七〇年一二月二三日に、「大久野島南の沖でボンベ一本が漁網にかかり悪臭ガスで漁民五人がノドを痛め、年が明けた四六年二月にもガスボンベ一本が引き揚げられた」(「毒ガス島(十三)中国新聞 一九七五年一二月)という事故が起こります。それで、漁業組合が、請願書を出したのですが、先ほど説明した神殿島から松島あたりでボンベがかかったらしいんです。ところが、潮流が流れているとき、かかってるんで防衛庁が調査した海域まで引っ張られるんです。行政が信用せにゃそれまでだけど、ここであげたんじゃないんかと疑われたんです。それに、深いところは一般航路なので、禁漁区になっとる。ひかかった漁師は、禁漁区を知っとるから「ここであげたんじゃないんだ。向こうの浅い方で漁をしよるんじゃが、そこでひっかかって流れるんじゃ」というようなことをいうとるんです。そんなこともあって、一度も掃海されていないんです。

 野賀の石碑

 あのむこうに見える島が広島県の大崎島です。右側は広島県、左側は愛媛県。大崎島では、戦後に何か捨てていたものが流れてきたらしいですよ。地の子どもが拾ろうて大事になって、流れ着いたようなものを拾うなということになった。今、五〇代ぐらいの人が覚えています。ちょうど鮴崎のこちらの造船所が見えるところの集落ですがね。まだ、この海底にはもぐっとるかもしれませんね。

 木江から双眼鏡で見える、わりと通して見えるんです。木江の野賀というところがあります。野賀というところのみかん畑に石碑が建っていて、ここから大久野島方面の撮影を禁ずと書いてある。野賀は、ちょうど大三島の隣の島があるところがきれて、ちょっといったところです。よーく見たら、低い峰の上に清風館という旅館がたってるんですが、ちょっと四角になっているからわかるんですけれど、あの辺が野賀です。(角田拓説明)