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稲富博士のスコッチノート

第64章 「チャールズ・ドイグ」

Dalwhinie(ダルウィニー)蒸溜所

スコットランド・ハイランドのウイスキー街道やアイラ島を旅していると、よく独特の形の尖がり屋根が見られる。尖がり屋根はモルト蒸溜所の麦芽の乾燥塔で、その形が仏塔に似ているのでパゴダ(Pagoda)と言われる。パゴダの固有の形は遠くからでも遠望でき、「ああウイスキー地帯に来たな」という実感が湧いてくる。冒頭写真のダルウィニー蒸溜所は、ハイランド・グランピオン山中の荒野の中に立つが、そのパコダは一際目を引く。現実的には、モルト蒸溜所で大麦から麦芽をつくるフロアー・モルティング(Floor Malting)を現在も行っているのは6蒸溜所にすぎず、残っているパコダのほとんどは乾燥塔としては使われていない。それでもパゴダの景観への寄与は大きく、実際パゴダの無い蒸溜所は如何に名蒸溜所でもいささか趣に欠ける感がある。

このパゴダの多くを設計したのがチャールズ・クリー・ドイグ(Charles Cree Doig)であるが、チャールズ・ドイグと聞いてどんな人物だったか分かる人はスコッチ・ウイスキー通のなかでもそれほど多くないだろう。19世紀終わりから20世紀初めにかけて活躍したこの建築家は、スコッチ・ウイスキー産業に大きな足跡を残したが知る人は少なく、いわゆる’Unsung hero’ (隠れた貢献者)の一人である。彼の足跡を追った。

時代背景

ドイグが蒸溜所設計家として活躍した19世紀終わり頃、スコッチ・ウイスキーはブームに沸いていた。ビクトリア女王の治世の下、大英帝国は全盛期を迎え、世界の7つの海を支配、スコッチ・ウイスキーはこの拡大した大英連邦と植民地に猛烈に販路を広げていった。市場拡大の先兵に立ったのは19世紀後半に陸続として生まれたブレンダー達で、彼らはその名を今もブランドに留める。バランタイン、ウォーカー、デュワ―、ベル、ブキャナン、ヘイグ・・・である。19世紀後半にヨーロッパを襲ったフィロキセラによるぶどうの壊滅的被害でブランデーが出来なくなり、ブランデーの代替としてウイスキーの需要が大いに高まったのも追い風になった。

ブレンダーが売り込んだのはブレンデッド・ウイスキーである。1830年に発明されたカフェー・スティルで量産されたグレーン・ウイスキーは、軽い風味、安定した品質、モルトにくらべて廉価という特徴があり、ブレンダーはこれに強く個性的な香味のモルトウイスキーを巧みに配合して飲みやすくバランスのとれたブレンドを作りだした。ブレンデッド・ウイスキーが売れればモルトも必要になるわけで、19世紀後半の蒸溜所建設・増設ブームになったのである。

生い立ち

ドイグの結婚式写真 : 1880年らしいが正確な日付は不明。ドイグの現存する唯一の写真のようである。夫妻は3人の息子に恵まれ、そのうちの2人は家業を継ぎ、一人は会計士になっている。

ドイグの生い立ちは慎ましい。1855年にアンガス州の片田舎の農家に生まれ、村の中学校で学んだ。中学校での成績は良かったようである。14歳で中学校を出てすぐ近くのミーグル(Meigle)にあった建設設計会社ジョン・カーバー(John Carver)で働いたが、カーバーは優れた設計家として知られていた。ドイグは1880年頃イザベラ・ディックと結婚してミーグルに住んだが、1882年にエルギンにあったマッカイ社(Hugh M S Mackay)に入り、家族はエルギンに居を構えた。ほどなくドイグはマッカイ社の共同オーナー・経営者なり土木と建設設計に活躍、特に19世紀後半にブームとなった蒸溜所建設時代には、蒸溜所設計 (Distillery Architect) のスペシャリストとして名声を博するようになった。

蒸留所設計の業績

ダラス・デュー蒸溜所博物館 : この製麦棟は2階が大麦の貯蔵庫、1階がモルティング・フロアーで、1968年まで使われた。典型的なパゴダが見える。

ドイグが関わったモルトとグレーン蒸溜所は正確には分からないが100ともいわれている。そのいくつかを上げる。Glenburgie, Dailuaine, Lochside, Talisker, Aberlour, Glenalbyn, Balblair, Longmorn, Speyburn, Glen Elgin, Oban, Dalwhinie, Aberfeldy, Coleburn, Craigellachie, Cragganmore, Benromach, Dallas Dhu, Glen More, Imperial, Bushmillsなどなどである。

ドイグの麦芽キルン断面 : 下方のピート炉で発生した熱風は逆アーチ状の空気混合室で外気と混合され適温になってから麦層を通過し麦芽を乾燥する。麦芽から水分を奪った温風は上部よろい板上の換気口から大気に放出される。

ドイグ設計の蒸溜所の一つにDallas Dhu (ダラス・デュー)蒸溜所がある。この蒸溜所は、インバネスとエルギンの中間にあるフォレス(Forres)の町から南に数kmにある小さな蒸溜所で, 最初の名前はダラスモア(Dallasmore)といった。1898年に建設が始まり、翌年1899年に操業開始、オーナーの変更もあってこの年蒸溜所はダラス・デュー (Dallus Dhu)と改名されている。その直後から始まったウイスキー不況時代に、蒸溜所は幾多の浮沈を経験したが1983年まで存続した。閉鎖後蒸溜所は、Historic Scotlandの手で蒸溜所博物館となり一般公開されている。蒸溜所は、その歴史の中で建物、設備にあまり大きな変更がなされていないので、ドイグが設計した当時の様子をよく留めている。

製麦から蒸溜までの各工程はコの字型に配置され、中央はヤードとして空けてあるが、ここは原料、燃料、樽、副産物などの出し入れに必要な空間である。コの字型の下辺は写真に見る製麦棟で、2階には原料大麦の貯蔵庫と左端に大麦を水に浸す浸麦槽があり、1階が発芽フロアーである。コの縦辺の下からキルン、麦芽の粉砕機、仕込槽、仕込槽からヤードに張り出した形で発酵室があり、仕込槽の上隣が蒸溜室である。コの字の上辺は蒸溜されたスピリッツの貯蔵タンクと、ニューメイク・ウイスキーを樽に詰める樽詰室となっている。

逆アーチ上になった空気混合室の外見。左側下方の白い壁はピート炉である。

ドイグは蒸溜所全体設計も行ったが、何といっても彼の名高めたのはパゴダ 或いはドイグの通風塔 (Doig’s Ventilator) と言われる麦芽の乾燥塔である。その構造は図のようになっていて、最下部は乾燥に必要な熱源のピートや石炭を焚く炉、そのすぐ上は逆アーチの空間で、炉で発生した高温のガスを外気の空気と混ぜて乾燥に適当な温度にする空気混合室である。そのすぐ上には金網が張ってあり、その上に発芽の終わった大麦を広げて置く。下から上がってきた温風は、発芽大麦の層を通り抜ける間に大麦から水分を奪い、上方よろい板の上の通気口から大気に抜けて行く仕組みである。

ドイグの乾燥塔が蒸溜業者の人気があった理由は、ドイグ以前の乾燥等に比べて性能が良かったからであるが、どこが優れていたか。ドイグ以前の蒸溜所のキルンの写真や構造図は見当たらなかったが、同時代のビール工場の麦芽乾燥塔の図面をみるとフラットな円錐形の屋根をもち空気の流れがスムースでないようだし、塔の高さも低く炉からの温風を吸引する力(煙突効果)が弱かった。

ピート燻煙中のパコダの内部。この写真はアイラ島のボーモア蒸溜所で撮影した。1900年頃建てられたボーモア蒸溜所のこのキルンは、設計技師は不明だがドイグの設計を踏襲すると思われる。

空気がスムースに流れないと麦芽から水分を蒸発させる効率が低下し、より多くの燃料や時間を必要とするが、ドイグの設計は高さを十分にとり、また空気の流れをスムースにする工夫がされている。それでも乾燥には数日を要したと思われる。現在使われているパコダ・タイプの乾燥塔ではキルン上部に電力で回すファンが取り付けられ、下からも温風をファンで送り込んで風量を増やしているが、ドイグの時代ハイランドに電気は来ておらず、自然通風の良否は極めて重要であった。物流を馬車、後に鉄道に頼った時代ピートや石炭のコストは高く、効率的で経済性の高い乾燥塔はディスティラーにとって大きな魅力であった。

ブレーバール蒸溜所 : 1974年建設のこの蒸溜所は製麦設備をもたないが、建物の一部をキルン風にしてモルト蒸溜所の雰囲気を醸しだしている。

ドイグのパゴダの魅力は高効率だけではなく、その優れた造形性にある。キルン上部の三角形は、エジプトのピラミッドと同じで最も安定感があるとされる黄金比率の空間に上手く収まり、人々を魅了するのである。パコダの無い蒸溜所はモルト蒸溜所のシンボル性を欠くきらいがあるので、近年に建設された蒸溜所で初めから製麦工場の無い場合でもデザインに工夫を凝らしてドイグのパコダに似た換気塔を設けているものもある。

マルチ・タレント

ドイグは蒸溜所の設計者として成功を収めたが、蒸溜所以外の建築も多く手掛けている。農場、ホテル (Speysideの代表的なホテル、Craigellachie Hotelもドイグの設計である)、学校、ビール醸造所、鉄道、港湾、教会、病院・・・と枚挙にいとまがない。エンジニアとしても豊富なアイディアの持ち主であったようで、‘粉塵爆発を防ぐ麦芽粉砕機’や‘蒸溜廃液の処理法’などの特許も取得している。

ドイグが多くの仕事を成し遂げた裏には、彼がスコットランドで広く支持されていたことを物語る。仕事の力量に加えて、公正さや人柄の良さで多くの友人を持っていた。

19世紀終わりからスコッチ・ウイスキーは大不況となる。ドイグが最後に手掛けた蒸溜所は1898年のGlen Elgin蒸溜所であったが、この時彼は、‘今後50年スペイサイドに蒸溜所は建たない’と予言した。その予言は現実のものとなり、Glen Elginの後スペイサイドで建設された蒸溜所は1958年の Tormore蒸溜所であった。

1918年9月、ダラス郊外に狩猟に出かけたドイグは心臓発作に見舞われ、担ぎ込まれた近くのホテルで亡くなった。63歳の死はいささか若かった。

参考資料
1. Charles Doig - Dictionary of Scottish Architects - DSA Architect Biography Report (August 1, 2011, 1057 am).mht>
2. Whisky man who found ideal blend for skyline. By Graham Norman. The Scotsman, 19 May 1997.>
3. Pinoneers of the Spirit. By C. S. McBain. September 1997.>
4. Spirit of the Architect. Ian Buxton. Whisky Magazine Issue 62, March 2007>
5. Dallas Dhu Distillery. Nick Bridgland, Published by Historic Scotland.>
6. Illustrated Official Journal, Abridements, 1898.>
7. http://www.scottisharchitects.org.uk/architect_full.php?id=200641
8. http://en.wikipedia.org/wiki/Dallas_Dhu_distillery
9. http://en.wikipedia.org/wiki/Historic_Scotland
10. https://www.ballantines.ne.jp/scotchnote/28/