(社説)外交文書公開 「湾岸外交」検証の時

社説

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 冷戦終結の翌年にイラクがクウェートに侵攻した「湾岸危機」から30年が過ぎ、当時の外交文書が公開された。日本外交の転機ともなった、この激動の時期に、政治家や外交官たちは何を考え、どう動いたのか。日本の「湾岸外交」への当時の評価は正当だったのか。これを機に検証が必要だ。

 外務省は毎年、30年経った外交文書を原則公開している。今回は湾岸戦争開始直前までの約1年間が対象で、ファイル18冊、約7300ページに及ぶ。目を引くのが、当時の海部俊樹首相ら日本側が、米国から人的・金銭的な支援を迫られ、苦慮しながら対応した姿である。

 一方で、中曽根康弘元首相がバグダッドを訪問してイラクのフセイン大統領と会談した時のやりとりや、小和田恒外務審議官が極秘にモスクワや欧州を回って各国の動向を探った様子など、当時ほとんど報道されなかった日本の独自外交の詳細も明らかになった。

 湾岸戦争で日本は、米国を中心とする多国籍軍に130億ドルを拠出したが、人的貢献がなかったとして「小切手外交」と批判された。外交当局を中心に「湾岸のトラウマ」として語り継がれ、その後の米国のアフガニスタン戦争やイラク戦争に際し、自衛隊を後方支援などに派遣する強い動機となった。

 中曽根、小和田両氏の動きに見られるように、米国だけに頼らない、独自の交渉や情報収集の模索はあった。それがなぜ、確固たる外交戦略に結びつかず、「トラウマ」と言われる事態を招いたのか。湾岸戦争開戦後の文書は、来年公開される見通しだ。政府の意思決定の全容を分析し、今後の教訓を引き出さねばならない。

 機微に触れるやりとりが少なくない外交・安全保障の分野でも、交渉や政策決定の過程をつぶさに記録に残し、一定の期間がたてば公開して歴史の検証に付すのが民主主義国の原則だ。日本でも「30年ルール」は定着し、「極秘 無期限」と指定された文書の開示もみられる。

 ただ、「例外」の多さは、かねて批判されてきた。今回も、30年前に日朝国交正常化交渉開始に道筋をつけた、金丸信元副総理らを団長とする自民、社会両党代表団による訪朝の報告書が明らかにされたが、内容の多くが黒塗りで伏せられていた。

 現在の外交・安保に影響を与えるためというが、会談の相手方の発言は公表しながら、日本側は出さないなど、線引きの根拠がわからない。

 外交政策に対する国民の理解や支持を得るためにも、さらなる公開に向けた政府の姿勢が問われている。

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