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【あの人は今こうしている】

ハッピー&ブルーに入り、リードボーカルを務めた森本英世さんの述懐

【芸能】

2010年10月20日 掲載
●森本英世さん
「わたし祈ってます」「星降る街角」「よせばいいのに」とミリオンセラーを連発したムード歌謡コーラスの「敏いとうとハッピー&ブルー」。きょう登場の森本英世さんは、このグループのリードボーカル。甘い歌声で聴く人を酔わせた。リーダーの敏さんは7月の参院選に出馬して話題になったが、森本さんの名前は最近聞かない。今どうしているのか。

「もちろん、ボクにとってハッピー&ブルーは今でも大きな財産だよ。半年間続けてヒットチャートにランクされるくらいビッグなグループだったんだから。ただ、最初はヤル気のない“箱バンド(飲食店を回って営業するバンド)”で、敏さんなんてしょっちゅうベースのコードを間違えてた」
 都内のホテルのラウンジで会った森本さん、意外な話から始まった。
「あれはボクが加わって3日目だった。“メジャーデビューしたければ、ちゃんとしろ!!”ってストーブ蹴っ飛ばしてメンバー全員に活を入れ、敏さんはベースからパーカッションに移ってもらった。あと、当時はムード歌謡は黒のスーツに七三分け、直立不動が定番スタイルだったのを白のスーツに替え、ネクタイも自由にした」
 それが功を奏し、昭和49年、「わたし祈ってます」が150万枚を超える大ヒットとなった。
「誰もが売れっこないと思ってたでしょ。だから、すごく感謝された。とくに敏さんにね、ハハハ」
 もっとも、森本さん自身、積極的にバンドに参加したわけではない。
「ボクはもともとスクールメイツとしてナベプロに入り、小柳ルミ子とか高橋真梨子、キャンディーズなんかと一緒に寮で生活してレッスン受けてたの。デビューは昭和44年、新田洋の名前で歌った『行け!タイガーマスク』。これがいきなり250万枚も売れてね。ところが、それからが続かず、演歌に転向して47年に出した『恋祭り』も15、16万枚がやっと。さて、これからどうしようって悩んでたとき、敏さんからオファーがあったんだ」
 周囲にいた20人が20人とも「絶対にやめておけ」と強く反対した。
「でも、ボクはその神がかり的な、まるで詐欺師を思わせるような口のうまさと強烈なキャラクターに、これはいけるかもって直感的に思ったわけ」

●「ギャンブルの勝ち金で給料を支払うからと、メンバー全員、マカオに連れて行かれた」
 結果的にこれが大正解。「わたし祈ってます」に続き、52年「星降る街角」、55年「よせばいいのに」とハッピー&ブルーはミリオンセラーを連発した。当然、印税もガッポリ。
「とは、いかなかったなあ。ボクは本当に歌が好きだったし、最低限、給料さえもらっていればかまわなかった。だけど、敏さんのギャンブル癖が酷くなり、給料がだんだん滞るようになってね。しまいにゃ給料をギャンブルの勝ち金で支払うからと、メンバー全員、マカオに連れて行かれた。結果は1日目に軍資金すべて負け、敏さんはメンバーを残したまま無断帰国。こっちは日本領事館に駆け込み、やっとこさ、日本に帰ってきた」
 かくして、58年に独立。「幸せになりなよ」で再スタートを切った。
「リーダーにいいたいこと? それについてはノーコメントっていうのがボクの一貫した答え。ホント、他人のことをとやかくいうより、ボクの基本である大人のムード歌謡をしっかり歌って、また紅白に出たいね」
~2010年10月20日以前の記事~