下北沢に10年住んだら「作家としての覚悟」が生まれた|浅野真澄(あさのますみ)さん【上京物語】

インタビューと文章: 前田久 写真: 関口佳代


進学、就職、結婚、憧れ、変化の追求、夢の実現──。上京する理由は人それぞれで、きっとその一つ一つにドラマがあるはず。地方から東京に住まいを移した人たちにスポットライトを当てたインタビュー企画「上京物語」をお届けします。

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今回の「上京物語」に登場いただくのは、声優で作家の浅野真澄(あさのますみ)さんです。

声優としてさまざまな作品に出演しながら、絵本やエッセー、漫画原作や歌詞提供といった文筆活動もコンスタントに続けている浅野さん。文章や本に対する思い入れは深く、学生時代には出版の仕事に就くことを考えるほど、小さなころから本をたくさん読んで、想像の翼を広げてきました。

就職氷河期で出版業界への道をいったんあきらめた後、東京での一人暮らしをスタートさせた永福町。そして、文筆活動という形で本と再びかかわるきっかけをつくってくれた下北沢。10年以上暮らした京王井の頭線沿線の街の思い出や、その街で形づくられた作家としての意識、そうしたエピソードの数々から東京の姿を掘り下げます。

林真理子さんの本で大人の世界をのぞいた小学生時代

── 今日は南青山(取材の実施場所)までご足労いただき、ありがとうございます。

浅野真澄さん(以下、浅野) いえいえ。実はこの界隈(かいわい)って私の「聖地」なんです。昔から向田邦子さんが大好きで。向田さんが生前住まれてたお家や、エッセーに登場する小さな神社もすぐ近くにありますし、青山にある前の事務所にいたころは、オフィスへ寄った帰りに足を延ばしてエッセーに登場するお店を巡ったりしてたくらいです。

実際に訪れてからエッセーを読み返すと、より深く「この情景を向田さんはこんなふうに描写するんだ」と楽しめたり。お好きだったという「菊家」の水ようかんも、向田さんの文章を読んでから食べるとおいしさが倍増しますよね(※骨董通りにある1935年創業の老舗和菓子店)


── やはり街の記憶も読んできた本とつながるんですね。ではあらためて、ここから「上京」というテーマでお話をうかがっていきます。まず浅野さんの出身地である秋田県能代市はどんなところでしたか?

浅野 すぐ近くに山があって、海もそう遠くない場所にあり、ほとんどの家が裏の畑で家族が食べる分くらいの野菜を育てている、そんなのどかな町でした。よく家に遊びに来る人には専用の枕を用意していたりするくらい、隣近所との垣根がありませんでしたね。

── 本には触れやすい環境でした?

浅野 家には日本の民話全集や、グリム童話やアンデルセン童話などが収録された子ども向けの全集、あとは絵本もたくさんありました。ただ、田舎だったので近くに図書館がなく、書店も車を使わなければ行けなくて、家にあるものを繰り返し読んでいました。

だから、小学4年生で埼玉に引越したときには、家から歩いて10分くらいの場所に図書館があることが、まるで夢のようで。

── 手に取れる本の範囲が一気に広がりますね、それは。

浅野 ところが転校した小学校が、とにかく運動をたくさんさせる校風だったんです。朝は体操着で登校して、校舎に入る前にグラウンドを一周。休み時間も体操着になって、やることも「この時間は鉄棒」と決まっていたり。

── え、えええ……!?

浅野 放課後も夕方6時まで運動するという決まりがあって、学校が終わるころに図書館も閉まってしまう。すぐ近くに図書館があるのに本が借りられなくて、私にとっては地獄のような状態でした。当時は土曜日も学校があって、やっぱり6時まで運動だったので、図書館には日曜日しか行けなかったんです。

── そんな環境で、どうやって本を読まれていたんですか?

浅野 日曜日になると朝早くから図書館に行って、貸し出し冊数の上限まで本を借りて、いったん家に帰って急いで読んで、その日のうちに読み終わった本を返して、閉館前にまた借りて、それを一週間かけて楽しむ。そういう生活をしていました。

司書さんには「日曜の朝一番に来て、夕方また来てもう一回借りていく子」として顔を覚えられてました。閉館ギリギリになって「まだ開けてるからゆっくり選びなさい」と言ってもらったこともあります。

── そのころ読んでいたのはどんな本でした? やはり児童書でしょうか。

浅野 とにかくたくさん読みたくて、図書館が勧める児童書から「ナルニア国ものがたり」のようなシリーズものまで、片っ端から手に取って。あとは、大人向けの棚でエッセーを選んだりしていました。

小学6年生で林真理子さんの本を読んで、大人の世界をかいま見ましたね。自分で稼いだお金でエルメスのバッグを買う、というくだりがあって、価格が50万円とか100万円とか書いてあるので、当時の私は「嘘やん」って思いました。「そんな値段のバッグ、あるわけないわ!」って(笑)。


── そのころの読書体験が、今のご自身に与えた影響は何でしょうか?

浅野 この時期に、本を読むのが好きなことを自覚した気がします。月曜日から土曜日までの運動があまりに辛くて、それが本を読んだときの幸せな気持ちをさらに強くしたんです。

周りの子は小学1年生から運動を続けてきているので、転校生の私はいわば「劣等生」。でも、本の世界に入ったらそんなことは関係なくなる、と。そういう形で、自分の本に対する気持ちを自覚するきっかけになったと思います。

永福町で代アニと大学の「二足のわらじ」暮らし

── 本好きを自覚して、のちに本を書くようにもなる浅野さんですが、仕事のキャリアは声優業の方が先に始まりますよね。本に関係する仕事ではなく、声優になろうと考えたのはなぜでしょうか?

浅野 もともと編集者になりたかったんです。学生時代も出版社に絞って就職活動をしていました。ですが、ちょうど就職氷河期の、雇用が最も冷え込んだタイミングで就活をすることになってしまい……。出版社に入るどころか、業界を絞らず第十希望の会社くらいまで受けてもすべて落ちそうな雰囲気でした。

そんな壁にぶつかっていたときに思い出したのが、友達に誘われてほとんど旅行気分で参加した二泊三日の声優オーディション。そこで賞をもらい、代々木アニメーション学院に特待生で入学できる資格をもらっていたんですね。

「このまま苦労して就職活動を続けても、志望したわけではない会社で働くことになる。それならいっそ、やったことのない挑戦をしてみてもいいんじゃないか」という思いがふつふつと沸いてきて。留年も浪人もしていませんし…‥…。

── 少し人生の寄り道をしても許されるだろう、と。

浅野 そう。それで演技の経験をまったく積まないまま、代々木アニメーション学院へ通うことに決めました。大学4年生のときです。こうして午前中は大学へ行って、午後から代アニに週5で通う日々が始まりました。

合わせて、そのころ代々木にあった代アニに通いやすいよう、神奈川県の相模原市にある家賃3万5000円の安アパートから杉並区の永福町へ引越しました。それが初めての「東京に住む」経験です。

現在は無電柱化もされている永福町北口商店街/2022年4月撮影

── 実質的な上京はそのタイミングなんですね。永福町ではどんな暮らしをされていたのでしょう?

浅野 大学の進学に親の支援が得られなくて、卒業するまでとにかくお金に困っていたんです。なので都内に住んだから遊ぶぞという感じもあまりなく、吉祥寺や六本木、銀座あたりのキャバクラでアルバイトをして、学費や生活費を稼いでいましたね。都内に引越してまず良かったと思うのは、以前よりも客層の良いお店で働けて、時給も良くなったことでした。

── そもそも井の頭線を選んだのはなぜでしょう? 代々木に通うならほかの路線もあったと思いますが。

浅野 もともと井の頭線が好きなんです。愛してますね。大学のある渋谷までそのまま行けて、沿線には下北沢もあるし、足を延ばして井の頭公園に行ったり。そんなことを考えて永福町を選びました。友達が明大前に住んでいたんですが、永福町なら遊びに行ってそのまま歩いて帰れるんですよね。

── 私も大学が京王線沿いにあったので、明大前は学生時代の遊び場のひとつでした。最近も映画の『花束みたいな恋をした』の舞台になっていましたが、学生と文化の香りが強い楽しい街ですよね。

浅野 良いですよね! 学生もよく道端で酔いつぶれてました(笑)。私自身は吐くまで飲めるタイプではなかったのですが、酔った学生を眺めるのは楽しかったですね。

学生でにぎわう明大前駅前/2022年4月撮影

下北沢の喫茶店で「作家としての居場所」を見つけた日

── その後、声優としてデビューしてからも井の頭線の沿線にお住まいでしたか?

浅野 はい。永福町から引越した先が下北沢です。エリア内で引越しもしましたが、下北沢エリアには10年ほど住んだでしょうか。

── その10年間で声優の仕事もかなり軌道に乗ってきたかと思いますが、もっとアフレコスタジオやラジオ局など仕事の現場の近くに住むことは考えなかったのでしょうか?

浅野 むしろスタジオにあまり近くないのが良かったんです。プライベートと仕事をはっきり分けられるというか、街中でばったり知り合いに会わずに済む。特に何もなくても、お互いになんとなく、出会ってしまうと気まずいときがあるじゃないですか。

── たしかに。

浅野 あとはやっぱり、街自体が面白かったんでしょうね。わけの分からないお店がいっぱいあって、いろんな人が出入りしている一方で、ちょっとにぎわっている場所から離れると静かになるところも好きでした。雑多な街で、いっぱい人がいる。人の中に溶け込める環境が、私にとっては居心地よかったんです。

── 浅野さんが声優として活動を開始された2000年代前半の下北沢って、今よりもっと文化的に尖(とが)った街だったのではないですか?

浅野 古着屋さんがとても多かったですね。あとは尖ったというか、下北沢じゃないと成立しないようなお店がたくさんあった印象です。掘っ立て小屋のような店構えで、「トイレ貸してください」と頼むと「トイレエクスプレス」という看板が付いた自転車を貸してくれて、それで公衆トイレまで行くように言われる飲み屋さんとか(笑)。

トイレが設置されていない飲食店は、本当はダメだと思うんですけど。そういうめちゃくちゃなところが面白かったです。どんどん新しいお店が出来て、気がつくと街並みが入れ替わる。オシャレなのかそうでないのか分からない、学生なのか社会人なのかも分からない、働いているとしても何の仕事なのか分からない、何もかもよく分からない人たちが集っている(笑)。

── そんな下北沢でよく通った場所はありますか?

浅野 行きつけの喫茶店が3つありました。紅茶がメインの、手づくりのキッシュやケーキがおいしくてしっかりと食事もとれるお店。あまりに通いすぎて、注文する前にアイスラテとチーズケーキが出てくるようになったお店。紅茶もコーヒーもおいしいのに、人が全然いなくて静かなお店。

書きものをするときは、家の中よりも喫茶店の方が集中できるので、「お腹が空いているときはここ」とか、「今日は空調のキツい店に行ける体調じゃないから、あっち」とか、自分の気分や体調と相談しながら行き分けていました。3軒ともまだあるお店です。

古着屋や喫茶店が立ち並ぶ下北沢の路地/2022年4月撮影

── そのころすでに書きものはされていたんですね。文筆活動と関連した、喫茶店での思い出はありますか?

浅野 私の「ものを書く仕事」への扉は、絵本の賞をいただいたことで突然に開かれたのですが(編注:2007年、『ちいさなボタン、プッチ』で第13回おひさま大賞童話部門最優秀賞を受賞)、デビューしてからもずっと、何かの偶然のような気がしていたんです。本当はものを書く資格なんてないのに、何かの間違いでその場所に来てしまったのではないか。そんな「選ばれていない」という感覚というか、作家としての劣等感がずっとありました。

そんなとき、どうにか物語をつくり出さないといけない状況に追い詰められて、喫茶店で悩みながらふと顔を上げたら、目の前の席に自分の大好きな漫画家さんが座ってて、同じように頭を悩ませていたんです。あとで知ったのですが、行きつけの喫茶店が同じだったんですよ。

── ドキドキですね。それで、どうされたんですか?

浅野 席の位置関係で、横から眺められてご迷惑にならない状態だったので、どうやって執筆するのかずっと見てました。お茶を飲んだりケーキを食べたりしながらノートを広げて考えている、その様子があまりに苦しそうで。多くの人から天才だと言われている大作家さんでも、あんなに悩んで、それでも筆が進まないものなんだ、と。その光景に、ものすごく衝撃を受けました。

いろいろな作家の方が「登場人物が勝手に動き出した」みたいにいいますが、私はそんな状態を経験したことがなくて、それも作家としての劣等感につながっていたんです。でも、私にとって神様のような存在の方が悩まれている様子を目の当たりにし、登場人物がいつも頭の中にいて好き勝手に動いて何の苦労もなくお話が生み出されるわけではないんだな、と実感しました。それから、話を生み出すのが苦しくても、「私もここにいていいんだ」と思えるようになりました。宝物みたいな思い出です。

── 作家としてのモチベーションにつながるような素敵な記憶ですね。ほかに作品にかかわるような経験は下北沢でありましたか?

浅野 下北沢で喫茶店の次に通っていたのが、ヴィレッジヴァンガード(下北沢店)です。あそこじゃないと出合わないようなマンガや本ってあるじゃないですか。例えば私の場合は、古屋兎丸さんの作品はヴィレヴァンで初めて知って、「こんな緻密な絵を描くマンガ家さんがいるんだ!」と驚いたんです。あとは松本大洋さんの作品を初めて手に取ったのも、ヴィレヴァンがきっかけだったと記憶してます。感謝ですね。

自分の創作物に直接影響しているわけではないですが、刺激は受けましたし、そうして知った作家さんの中には作品を追いかけるようになった方もいます。当時の下北沢のヴィレッジヴァンガードは深夜0時までオープンしていて、仕事で遅く帰ってもまだ開いているというのも、ちょっとワクワクしたんですよね。変わったCDも売っているし、ふらっと立ち寄っては、宝探しのように店内を楽しんでいました。

── 東京1号店で、系列の中でも少し特殊な店舗ですよね。


「絵本を描こう」と決めた場所は下北沢駅前の本屋

浅野 下北沢の本屋といえば、駅北口の目の前にスーパーマーケットのピーコックがあって、その上のフロアに本屋さんがあるんです(三省堂書店下北沢店)。そこの絵本コーナーで『ぐるんぱのようちえん』をしゃがみこんで音読している女の子を見たことが、「絵本を描こう」と思ったきっかけなんです。

── 気になります。

浅野 当時の私は20代後半で、声優の仕事を始めて7年目くらい。「自分が声を当てた作品も、次のクールには大半が忘れられてしまう。このまま30代になって、年齢とともに仕事も減っていって、そのうちみんなから忘れられてしまうのかな……」と焦っていました。

そんなとき、子どものころに文章を覚えてしまうくらい好きだった『ぐるんぱのようちえん』を、今も夢中で読んでいる女の子を見つけた。そして、その作品は100回くらい重版されて、今でも本屋さんに平積みされていた。それを見たとき、アニメ・声優業界の速い流れに身を任せるだけでなく、もっとゆっくりとした世界にも行きたいな、絵本が描けたらいいな、と思ったんです。

── 絵本作家になった背景に、そんなエピソードが。

浅野 そうなんです。……まぁ、実際に自分で絵本を描くようになると、人気作の息が長いということは、そうした「定番」の中に自分の作品が入っていくのも難しいんだと気付くわけです。どんなにがんばって新作を描いても、みんな、『ぐりとぐら』を買うんですよ!(笑)

── (笑)。

浅野 でも、それも含めて、絵本の世界は面白いです。

── 東京で、いろいろな形で刺激を受けて、今の浅野さんがあるんですね。そんな浅野さんは、今、東京のどんなところが面白いと感じていますか?

浅野 東京って、駅によって全然風景が違いますよね。コンクリート・ジャングルみたいなところもあれば、「ここ、本当に東京?」と思うくらいのどかな場所もあったりして。車で走っていても、昔ながらの建物が並んだ由緒正しそうな雰囲気の街もあれば、田園風景が続く街もあって、ドライブがとても楽しい。

そんないろいろなエリアの中のどこに住むかによって、風景だけじゃなく、自分の生活もガラリと変わってくると思うんです。なので上京する人は「家賃が安いから」といった実用的な面だけでなく、その街ならではの楽しみを探しながら住むところを見つけるのが良いんじゃないかなと思います。

── まさに今日のお話はそういうことですね。

浅野 今振り返ると、自分が住んでいた街も、生活のことだけを考えると必ずしも快適なわけではなかったんです。でも快適じゃない環境に住んだことも含めて、「楽しい思い出」になる。いろんなところに住んでみて、東京での生活を楽しむのが良いと思います。

私自身、持ち家ではなく賃貸なので、もう何か所か新たに住むことができるんじゃないかなと思っています。楽しみながら引越したいですね。

※取材は新型コロナウイルス感染症対策を講じた上で実施しました

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お話を伺った人:浅野 真澄(あさの・ますみ)

浅野真澄さん

声優、作家。秋田県能代市出身。小学4年生で埼玉県三郷市に移住。大学入学後に通学のため一人暮らしを始め、声優を志した大学4年時に上京。プリキュアシリーズのキュアマーメード役をはじめとしてアニメ・ゲーム・洋画などに声優として幅広く活躍。ラジオパーソナリティ、歌手、エッセイストとしても知られる。2007年に第13回おひさま大賞童話部門最優秀賞を受賞し、あさのますみ名義で絵本・童話を執筆。エッセーの近著に『逝ってしまった君へ』(2021年、小学館)。
Twitter: @masumi_asano
web: 浅野真澄/あさのますみ official website
blog: 日々のこと

聞き手:前田 久(まえだ・ひさし)

前田久さん

1982年生まれ。ライター。通称“前Q”。アニメ・マンガ関連のインタビュー・コラムなどを各種媒体で執筆。主な寄稿先に「月刊ニュータイプ」(KADOKAWA)。作品の公式サイト、パッケージ付属ブックレット、劇場パンフレットなどの仕事も多数。著作に『オトナアニメCOLLECTION あかほりさとる全書〜“外道”が歩んだメディアミックスの25年〜』(洋泉社、オトナアニメ編集部との共編著)、『声優をプロデュース。』(納谷僚介著、星海社新書)の原稿構成も担当。
Twitter: @maeQ
blog: 「前Qのほめぱげ」という名のブログ

編集・風景写真:はてな編集部