ここから本文エリア

現在位置:asahi.com >歴史は生きている >第9章 日韓・日中 国交正常化 > 世界動かした名古屋のピンポン大会



世界動かした名古屋のピンポン大会

紙面

  

写真

王效賢・中日友好協会副会長=李建華氏撮影

写真

林麗ユン・中華全国帰国華僑連合会顧問=李建華氏撮影

 日中戦争から27年後の1972年、両国は国交を結んだ。戦後も、東西冷戦の最前線で敵対してきた両国だったが、互いに外交を転換させた。その決断の背景には何があったのか。歴史の現場を目撃した人たちを北京に訪ねた。

   ×   ×   ×

 零下の街角を歩いて、中心街からやや南にある国家体育総局の施設を訪れた。60年代に中国卓球のエースとして名をはせ、いまは中国卓球協会主席である徐寅生(シュイ・インション)氏に会った。会議室に記念品が並ぶ。71年春に名古屋で開かれた第31回世界選手権のトロフィーもそこにあった。

 その大会こそ、世界情勢を動かした米中ピンポン外交の出発点だったのだ。  大会前から、会場の愛知県体育館は世界の注目を浴びた。文化大革命のため、大会から離れていた中国が、6年ぶりに参加したからだ。徐さんは監督だった。「周恩来(チョウ・エンライ)首相から、第一の目的は友好、試合は第二だ、と言われていた」と徐さんは振り返る。厳しい警備の中、日中友好を促す役割を背負っての来日だったのだ。

 だが、会場の一角で別の歯車が回り始めたのだ。選手団幹部に、米国卓球協会役員がもちかけた。「(中国は大会後にカナダなどのチームを招くらしいが)米国も呼んでもらえないだろうか」。米国はベトナムで戦争している敵国だ。本気なのか、半信半疑だったが、幹部は北京に伝えた。

 毛沢東(マオ・ツォートン)共産党主席は決断を迫られた。こんなエピソードが残っている。外務省は「時期尚早」との意見を具申し、毛も同意した。だが、毛は考え続けた。翌日には米国チームは帰国する。毛は夕食を終え、ふだんのように睡眠薬を飲み、眠ろうとしてから、考えを変えた。看護長に「米国チームを呼びなさい」と言った。しかし、看護長は以前から「睡眠薬を飲んだ後に私が言ったことは無視するように」と毛に命じられていた。動かずにいると、毛があわてた。「早く知らせないと、米国チームが帰ってしまう」

 4月7日、名古屋発のニュースが世界を驚かせた。中国選手団が米国チームの招請を発表したのだ。2日後、米国チームは香港経由で北京へ向かう。キッシンジャー米大統領補佐官の隠密北京訪問はこの3カ月後のことである。そして、翌年2月のニクソン大統領の訪中へとつながった。

 「中日関係も、中米関係も、名古屋がきっかけだった」。徐さんは語る。

■ソ連・ベトナム巡り米中の思惑が一致

 もちろん、中国と米国の関係は一気に変わったわけではない。共通の利益が両国を徐々に引き寄せていた。

 米中接近で、中国が得たものは何だったか。ピンポン外交の舞台裏についての著書がある人民日報海外版の副総編集、銭江(チエン・チアン)氏はこう答えた。

 「予想以上の結果だった。米国はベトナム戦争をやめたい気持ちが強く、我々と一致した。台湾問題もすぐには解決できないが、深刻化することもないことがよくわかった。米国もソ連を怖がり、米国と協力してソ連に対抗するという毛沢東主席の考えが固まった」

 当時、中国もソ連を恐れていた。中ソ対立は50年代から徐々に深まったが、1969年に中ソ国境のウスリー川の珍宝島(ダマンスキー島)で起きた両国軍の武力衝突で、中国は戦争も覚悟した。国境の住民を内陸側に移し、北京をはじめ各地に防空壕(ごう)を掘った。長い国境線で攻撃に備えるのは容易でなかった。

 おまけに、南ではベトナム戦争が続いていた。

 「中国は文化大革命の最中で、経済はよくなかった。北ベトナムへの長期の支援は負担が大きい。戦争をやめたいという気持ちがあったが、交渉するいいタイミングを見つけにくかった」

 銭さんは言う。ベトナム戦争が泥沼化して、反戦運動に悩んでいた米政権と思惑は重なっていた。いかに、近づくか。そのきっかけを与えたのが名古屋だったのだ。

■背中押された日本 3カ月足らずで調印

 だが、その米中接近が、今度は日中の背中を押す。

 同盟国にも隠して行われたキッシンジャー訪中に、日本は衝撃を受けた。だが、米中接近と、その後の中国の国連加盟で、中国との国交正常化の流れが加速した。

 1972年7月6日、新首相に選ばれた田中角栄は国交正常化を急ぐことを明言した。

 新聞を読んだ周恩来首相は中国外務省の担当者たちを集めた。その中に、周の通訳だった王效賢(ワン・シアオシエン)・中日友好協会副会長もいた。王さんは、対日外交の周の指揮ぶりを振り返る。

 「田中首相にどう反応すればよいか、と周総理はみんなに聞きました。みんながいろいろなことを言ったのですが、総理は気に入らなかった。私も言いました。総理は自分で報告のようなものを書いて毛主席に渡しました」

 周のアイデアは9日、表に出る。南イエメン代表団の歓迎宴でのあいさつで田中発言に言及した。「歓迎に値する」。双方の動きがあわただしくなった。

 9月25日、田中首相は大平正芳外相らと北京を訪れた。戦争賠償や台湾問題などをめぐる中国側との激論のすえ、4日後、国交正常化の日中共同声明に調印した。

 国際政治の構造が変化する中で、日中も国交正常化を果たした。

 だが、日中間には約20年間におよぶそれまでの民間交流の積み重ねがあったからこそ実現した、と王さんは強調する。

 「日本政府は米国の封じ込め政策についていって新中国を相手にしなかった。その中で、貿易から始まって、民間交流が先行し、政府を引っ張った。『以民促官』こそが日中関係の特徴であり、真実です」と語る。

 毛沢東の威信も重要だった。多くの中国人が肉親を奪われたり、日本人から屈辱を受けたりしてきただけに、国民の日本に対する恨みは根強い。そこで、全国で国交正常化の宣伝活動が行われた。第1次大戦後にドイツに重い賠償を負わせたことが復讐(ふくしゅう)心を起こさせたことなどを示して理解を求めた。毛に対する国民の信頼は厚く、いい反応がかえってきたという。

■「迷惑をかけた」うまく訳せずしこり

 共同声明をめぐる会談の中で、厳しいやりとりがいくつかあった。「迷惑発言」のエピソードもその一つだ。

 訪中団が北京入りした夜、人民大会堂で行われた歓迎晩餐(ばんさん)会。田中首相はあいさつの中で日中戦争について、「我が国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明するものであります」と述べた。日本側の通訳は、「迷惑をおかけした」の部分に「添了麻煩(ティエンラマーファン)」という中国語を用いた。

 ところが、この「添了麻煩」は、中国では軽微なことでのおわびに使われることが多い。重い謝罪の言葉を期待していた多くの中国人出席者たちが奇異に感じた。

 その時、周首相のそばにいたのは、周のもう一人の日本語通訳、林麗ユン(リン・リーユン)・中華全国帰国華僑連合会顧問だ。

 林さんもおかしいと思った。「訳し方がよくないのでは」。その時、各国大使のために英語通訳をしていた唐聞生(タンウェンション)さんが「あまりに軽すぎる」と小声で言うのが聞こえた。林さんもうなずいた。

 周首相は静かに聞いていた。だが、翌日の会談で怒りを見せた。「『迷惑をかけた』との言葉は中国人民の強い反感を呼ぶ。中国では迷惑とは小さなことにしか使われない」

 中国外務省の張香山(チャン・シアンシャン)顧問(当時)らによると、田中は「迷惑をかけたという日本語には誠心誠意、心を込めて謝罪し、過ちを繰り返さないことを保証する意味がある」と説明したという。田中自身も帰国後に「日本では申し訳ない、もうしないといった非常に強い気持ちなのだ、と説明した」と自民党両院議員総会で述べている。結局、共同声明では「中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と書くことで決着した。

 だが、なぜ、発言の趣旨が相手にわかる訳語を使わなかったのだろうか。その時の通訳である元外務省職員に取材を申し入れたが、断られた。

 この時、外務省チームの一人だった広島市立大・広島平和研究所の浅井基文所長はこう語る。「正常化交渉はトップシークレットだったため、内部で要員を集めた。主要幹部は中国語がわからず、政治的センスをもって訳文をチェックできる人がいなかった」

 林さんは語る。「ひどい目に遭った大衆の声が後ろに控えている。総理が添了麻煩でいいというわけにはいかなかった」

 歓迎晩餐会は日本の指導者が戦後初めて大陸の人々に向き合い、戦争への思いを語って再出発する場だった。だが、田中があいさつに込めたという思いは、その場にいた中国の人々の心にとどかなかった。

   ×   ×   ×

 日中国交正常化の結果、日本と台湾の外交関係は途絶えた。だが、中国はその後も日台の動向に目を光らせている。もし、台湾が独立しようとして中国と戦争になった時、米国は介入し、日本も同盟国の米国を支援するのではないか。そうなると、再び日本と敵対するかも知れない。そんな懸念さえ抱いている。

 国交正常化から36年。日中関係は大きく発展したが、台湾問題や歴史認識をめぐる摩擦は今もしばしば顔を出す。

(五十川倫義)

日中共同声明の要旨
▽日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する
▽日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する
▽中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する
▽中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する
▽両国のいずれも、アジア・太平洋において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する

そのころの世界は
1965年2月 米国、北ベトナムへの本格爆撃を開始
1969年3月 中ソ、国境で武力衝突
1971年3月 名古屋の世界卓球選手権に中国6年ぶり参加
4月 米国の卓球チームが訪中(ピンポン外交)
7月 キッシンジャー米大統領補佐官が秘密訪中
10月 中国、国連に加盟
1972年2月 ニクソン米大統領が訪中
7月 田中角栄が首相に就任
9月 田中首相が訪中、日中国交正常化
1973年1月 ベトナム和平協定調印
1978年8月 日中平和友好条約調印

毛沢東(マオ・ツォートン)(もう・たくとう)(1893〜1976)
 中国共産党を率い、内戦で国民党を破って中華人民共和国を建国する。21年の共産党創設の第1回全国代表大会に出席。35年の遵義会議で党の主導権を握った。抗日戦争では、国共合作を唱えた。一方で、マルクス・レーニン主義を中国の実情に結びつけた毛沢東思想を確立した。建国後は社会主義化を進めるが、生産の急拡大をめざした大躍進政策では失敗し、自然災害も重なって大被害を出した。66年からの文化大革命を主導して、国内に絶対的な権威を築いたが、「(文革は)党と国家に大きな災難をもたらした」と後に総括された。

周恩来(チョウ・エンライ)(しゅう・おんらい)(1898〜1976)
  中国共産党の主要指導者の一人として、毛沢東らとともに中華人民共和国の建国に貢献した。17年から19年まで日本に留学。帰国直前に京都・嵐山で詠んだ詩「雨中嵐山」の詩碑がある。建国後、首相(一時期外相兼任)として活躍。54年に平和五原則を提唱。日中国交正常化後、日本再訪を楽しみにしていたが、病気で果たせなかった。


 ◆人名の読み仮名は現地音です。日本語読みが定着している場合にはひらがなで補記しています。

このページのトップに戻る