真剣勝負だからこそエキサイティングする場面もある。興奮度マックスの“男たちの殴り合い”をプレイバック!

■昔のプロ野球はバチバチしていた!
 近年、プロ野球選手たちは、球団の垣根を越えて練習法や技術を教え合うようになり、こんな変化が起きている。「とにかく乱闘が減りましたね。侍ジャパンでともに戦ったり、自主トレを一緒に練習したりすることで、選手同士が仲良くなっていることが理由でしょうね」(スポーツ紙記者)

 それに比べ、昔のプロ野球は、もっとバチバチしていた。その結果、ときには殴り合いに発展することも多々あった。数々の球団で打撃コーチを務め、現在は野球評論家の伊勢孝夫氏は、“燃える男”とバトルに発展したことがある。1987年5月2日の広島-中日戦。伊勢氏は広島の打撃コーチだった。「こっちが守っていたときの話や。中日の川又米利が二盗したんやけど、二塁に入った正田耕三のみぞおちにスライディングした。その当時、ワシは正田をかわいがっていたから、“正田がやられる!”と思ってベンチを飛び出したんや」

■星野仙一監督の中日ドラゴンズは“乱闘上等”集団
 この年の中日は、星野仙一が監督に就任し、いわば“乱闘上等”集団。「仙ちゃんは怖くないんやけど、岩本好広、島谷金二という乱闘要員がいた。だから絶対、あいつら、やってやろうってなってた。うちの長嶋清幸や高橋慶彦とかも喧嘩っ早かったからな。それで岩本をボコボコにして、顔から血が出とったわ。ワシは仙ちゃんから蹴られたけど、それは大したことなかった。それより誰かにヘッドロックされたのがキツかったよ」(伊勢氏)

 最初に飛び出したとして、伊勢氏と星野監督が退場処分で事態は収束したが、流血するまでやるのが昔のプロ野球らしい。伊勢氏が話すように、80年代後半のプロ野球界は、中日や広島に限らず、常に殺気立っていた。その当時、中日の投手として活躍していた宮下昌己氏も、こう振り返る。「あの頃は、パンチパーマに金のネックレスっていう危ない集団でしたね(笑)。当時は、“1回目は仕方ない。次やったら行くぞ”っていう暗黙の了解があったんですよ」

 そんな宮下氏といえば、今でも語り継がれる伝説の乱闘がある。87年6月11日の対巨人戦。二番手としてマウンドに上っていた宮下氏は、二死を取って打席に“巨人最強の助っ人”クロマティを迎える。「実は“行く”って決めてたんですよ。マウンドに上る前に、ガンちゃん(岩本好広)に“やったら助けてくれよ”って言ってありましたし。捕手の中村武志にもコソッと“ここで行くわ。頼むぞ”って言ったんですよ」(宮下氏)

■巨人最強の助っ人が怒りの右ストレート!
 宮下氏が“行ってやる”と思うまでには、こんな伏線があった。「あのときの外国人選手は日本の野球を舐めていたんです。外国人同士で“ちょっとかませば、ビビってインコースに投げてこない”と話していたというのを、同じチームのゲーリー・レーシッチから聞いて。日本人を舐めるなよと」(宮下氏)

 そして宮下氏が投じた投球は狙い通りに、クロマティの背中に直撃する。するとクロマティは、宮下氏を睨みつけながら頭を指差し、“帽子を取れ”とジェスチャーしたのだ。「帽子なんか取らないですよ。たまたま当たったんなら謝りますけど、こっちは当てにいっているわけですから。謝ったら筋が通ってない」(宮下氏)

 この態度にクロマティは激昂し、マウンドに詰め寄る。だが、ここで宮下氏にいくつかの誤算が生じる。「中村が止めてくれなかったんですよ。捕手として出始めたばかりで、僕の言った意味が分からなかったんです。だってボールを捕りにいってましたから(笑)。そして最大の誤算は、クロマティが殴ってきたこと。それまで手を上げたことなかったから、威嚇するくらいで終わると思っていたんですけどね」(宮下氏)

 クロマティ怒りの右ストレートが宮下氏の顔面に炸裂。まるでボクシングのような迫力だった。「その後、クロマティとは和解しましたよ。僕もマウンドでは血走っていましたからね。でも、あのときの野球は楽しかったなぁ」 宮下氏にとっては、意地の乱闘だったのだ。

■西武ライオンズ東尾修は何発ものパンチを浴び…
 右ストレートといえば、86年6月13日の西武-近鉄戦でのリチャード・デービスvs東尾修も忘れてはならない。この試合に近鉄の6番打者として出場していた金村義明氏に話を聞いた。「東尾さんは、わざと当てるので有名でしたからね。その日、鈴木貴久がスライダーをバックスクリーンに運んでいたりしたので、予感はあったんです。“絶対にきよるぞ”と」

 その読み通りに東尾のシュートが、デービスの左ひじに当たると、デービスはブチギレ! 一目散にマウンドに走る。「デービスは4番を打っていて、人気者でした。新幹線でウイスキーを1ケース買って、みんなにご馳走してくれたりしていましたから。ただ、のちに薬物を吸引したり、冷蔵庫を殴って10針以上縫ったり、そういう気はあったんですよね」(金村氏)

 頭に血が上ったデービスを、誰も止められない。右ストレートどころか、何発ものパンチを東尾に浴びせたのだった。「それまでも意図的に狙って投げていたので、東尾を擁護する声はあまりなかった。ただ、この日、“マウンドは簡単に明け渡さない”と、顔を腫らしながらも完投勝利を収めたんです。死球の是非はともかく、その姿もプロですよね」(スポーツ紙デスク)

■ロッテの金田正一監督に顔面を蹴られ…
 金村氏は、他にも多くの乱闘を目の当たりにしてきた。特に印象的だったのは、91年5月19日の近鉄-ロッテ(オリオンズ)戦だという。近鉄のジム・トレーバーが園川一美から死球を受けると、ヘルメットを投げ捨て猛ダッシュ。逃げる園川をライトまで追いかけたのだ。

 一度はベンチに戻るも、怒りが再燃。またもやロッテベンチにダッシュするのだが、途中で転んでしまう。「そこで、ロッテの金田正一監督に顔面を蹴られたんです。これに怒りが収まらず、試合後も金田監督のホテルに行くって言っていたんですから。金田監督も、その日は出歩かずに、ルームサービスで食事していたそうですよ」(金村氏) “天皇・金田”も、さすがにビビった!?

■外国人に立ち向かった山崎武司
 危険球にキレて、外国人に立ち向かったのが中日時代の山崎武司だ。96年5月1日の巨人-中日戦。巨人のバルビーノ・ガルベスが投じたストレートは、山崎の頭部を直撃しそうな危険球だった。山崎はバットを放り投げてマウンドに向かい、ガルベスもグラブを外す。両軍ベンチから選手が一斉に飛び出し、大乱闘に発展した。近鉄から中日に移籍していた金村氏も、この輪の中にいた。「ガルベスが、わざと投げましたから。僕は素振りしてたので、よく分からないままバットを持っていっちゃって。罰金10万円ですよ。翌日も巨人戦だったんですが、ヘッドコーチの島野育夫さんは手袋に画びょうを刺して、やり返すって言ってましたね」(金村氏)

■長嶋茂雄監督が責任を取って頭を丸刈りに
 この騒動を起こしたガルベスは、その後、プロ野球史に残る暴挙に出た。98年7月31日の対阪神戦、先発したガルベスは、球審の判定に苛立っていた。巨人の長嶋茂雄監督が交代を告げ、ベンチに戻る途中、審判に対してボールを投げつけたのだった。「それも物凄い剛速球。140キロ以上は出ていた。誰にも当たらなかったけど、“紳士たれ”という巨人にとっては、あるまじき行為。この年、ガルベスは出場停止になり、長嶋さんは責任を取って頭を丸刈りにしました」(巨人担当記者) 長嶋氏の頭を刈らせたのは、後にも先にもガルベスだけだったかもしれない。

■清原和博がヒップアタック!
 乱闘では、パンチやキック以外にも、さまざまな必殺技が生まれる。西武時代の清原和博の乱闘といえば、89年9月23日の対ロッテ戦だ。平沼定晴に死球を受けた清原は、バットを放り投げて、平沼にヒップアタックをかましたのだ。「その前の打席で満塁本塁打を打っていたから、わざとだと思ったんでしょうね。ただ、清原は翌日の試合前に、平沼のロッカールームを訪れて謝ったんです。村田兆治や山本功児が怖い顔でいたから、清原は涙ぐんだそうです。巨人時代は番長といわれていましたが、心根は繊細なんですよね」(西武担当記者)

 ヒップアタックの次は、思わず「一本!」と言いたくなるような投げ技。08年9月24日の西武-ロッテ戦。4回表、ロッテは7点を奪い、打席にはベニー・アグバヤニが立っていた。マウンドの西武の許銘傑は、このベニーにぶつけてしまう。すると、ベニーは激怒し、止めに入った捕手の細川亨に対し、見事な首投げを決めたのだった。この試合に出場していた里崎智也氏は、こう話す。「あの回、3つめの死球だったんですよ。1回に3死球なんてしたこともないし、見たことない。わざとではないと思うけど、それは怒りますよ。ベニーは温厚なタイプでしたが、そんなの、関係ないですよね」 柔道でも通用した!?

 殴られたり投げられるくらいなら……と逃げ切った投手がいる。大洋に所属していた大門和彦だ。90年6月24日、対広島戦でロデリック・アレンの顔近くに投球すると、アレンが激怒。大門は一目散に外野に逃げると、アレンが追いかけるという“鬼ごっこ”が始まったのだ。大男から追われた大門は、生きた心地がしなかっただろう。

■広島カープ黒田博樹vs阪神タイガース藤浪晋太郎
 最後は“男気乱闘”を紹介しよう。2015年の広島-阪神戦。2回裏一死一塁の場面で打席には、この日の先発投手の黒田博樹。マウンドには、3年目の藤浪晋太郎が立っていた。「バントの構えをしていた黒田に対し、2球連続で胸もと付近に投げたことで、黒田が激昂しましたが、これには理由があったんです。藤浪は二塁でランナーを殺そうとして、投げきる前に走り出していた。技術がないのに、雑なプレーをしたことに黒田は怒ったんです。その試合で、黒田は藤浪が打席に立つと、内角にきちんとコントロールされた球を投げるんですが、まるで“こうやって投げるんだ”と言わんばかりでした」(前出のスポーツ紙デスク)

 ときには行きすぎてしまうこともあるが、ガチンコ勝負ゆえのもの。今後も熱い戦いを見たい!