「日清食品はあと何日もつか」。新聞記者たちが、そんな話をしているという。1959年(昭和34年)、大阪府高槻市に新工場を建設中のことである。
旧国鉄の摂津富田駅から徒歩5分のところに、1万5000平方メートルの土地を買い、さらに買い足して、合計2万4000平方メートルになった。敷地には電車の窓からよく見えるように「魔法のラーメン、チキンラーメンの日清食品工場予定地」と大書した看板を立てた。その敷地を見た記者たちが、たかがラーメンであんな大きい工場を作って大丈夫かと噂していたのである。
私は新工場の量産化プラントを設計するのに、技術者たちと意見が対立し、よくぶつかった。例えば、製めん機の幅を45センチにすることに技術者は反対した。33センチが限界で、それ以上広げると均一に伸びないと言う。そんなことはないだろうと、製めん機にかがみ込み、切り歯に右手を差し出した。その瞬間、薬指が第一関節のあたりで切れてしまった。医師は皮一枚でつながっているだけだから切断するしかないと言うのを、そんなことはない、私の指だから私が責任を持つ、くっつけてくれと頼んだ。指はいまだに、ちゃんとつながっている。
私はたとえ医師や弁護士であっても、専門家の言うことを鵜呑(うの)みにはしない。時には素人の発想が正しいこともある。指を切る原因になった製めん機も、結局私のアイデア通りの45センチで実現した。
チキンラーメンはいくら作っても需要に追いつかなかった。工場では問屋の人たちが4万円、5万円といった現金を懐に入れて、製品ができるのを待っていた。中には20万円もの前金を置いていく人もいた。商品を待つ問屋のトラックは高槻工場を一周し、さらに国道まで延びていた。門前市をなす状態とはこういうものかと、初めて実感した。なにしろ現金売りである。工場用地の購入代金が、わずか1カ月の売り上げでまかなえたほどの繁盛ぶりだった。
当時を振り返ると、時代が私に味方していたことがわかる。大量生産、大量販売を可能にする条件が整いつつあった。
チキンラーメンを発売した58年、神戸・三宮に中内功さんが「主婦の店ダイエー」をオープンされ、新しい欧米型流通システムの先駆けとなった。即席めんなどの加工食品を大量販売するルートが開かれたのである。そのころのダイエーの特売商品はチキンラーメンと卵だった。
第二はテレビの登場である。民放のテレビ放送が始まったのは53年。街頭テレビにたくさんの人々が群がっていた。私は早速テレビ・コマーシャルという新しい宣伝方法を採用した。「イガグリくん」「ビーバーちゃん」「地上最大のクイズ」「ヤングおー!おー!」など、明るく健康的な番組を提供した。日清食品は期せずして、テレビの草創期に生まれ、テレビとともに成長した。
第三に、高度経済成長である。時代は岩戸景気に入り、池田勇人首相が所得倍増論を打ち出した。人々は生活を謳歌(おうか)するのに忙しく、食事にも簡便性を求めるようになった。チキンラーメンの発売から2年後、森永製菓がインスタントコーヒーを発売し、「インスタント」が流行語になる。すべてが私に、追い風となって吹いているようだった。
日清食品の売り上げは順調に伸びて、創業5年目で43億円に達した。経営の基盤は固まったと思い63年の10月、東京、大阪両証券取引所の第二部に上場した。池田市の研究小屋で悪戦苦闘した日々を思い返すと感無量で、胸がいっぱいになった。
[日経Bizアカデミー2014年5月22日付]