「愛に生きた反骨のお坊さん」寂聴さん本葬、細川元首相の弔辞全文

 11月に99歳で亡くなった作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんの本葬が21日、京都市東山区天台宗寺院・妙法院で営まれた。親交があった約100人が参列し、細川護熙元首相が弔辞を述べた。弔辞の全文は次の通り。

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 先日、久方ぶりに主のおられぬ寂庵(じゃくあん)に立ち寄って、御霊前にお線香をあげさせていただきました。私は人見知りで涙もろいものですから、生前ご厚誼(こうぎ)をいただいた方のご葬儀でも、人が多勢つどわれる場には、ほとんど参列せず、極力人目をはばかりながら、いつも故人をしのぶようにしてまいりました。

 今回もその心づもりでしたが、秘書の方から、私に弔辞をというお申し越しがありました。寂聴先生には各界に赫々(かくかく)たる知己の方々がおられますし、とても私などが出る幕ではない、言葉は悪いが、まるで貧乏くじをひくようなものですからと固くお断りしたのですが、もう少しお考え下さいと押し返されました。二、三日お断りする理屈を探しているうち、なんだか面倒になって、ええい、貧乏くじを引いたら年末のジャンボ宝くじが当たるようないいことがあるかもしれんと、まあ、先生にはちょっと失礼かもしれませんが、いい加減なことを考えてここまできてしまった次第です。

 私は、だいたい晴れがましい所に出ていってモノを言うようなことは、小学生のときからいちばん嫌いなことでありまして、学芸会などはいつも仮病になって休んでおりましたし、政治の世界にいってからも結婚式などはもっぱら話の上手な家内に任せっきりでありました。

 寂聴先生は、原発反対で私が突然、東京都知事選に立ったとき、寒い中を何遍も応援に来ていただいたのですが、「この人はあんまり話はうまくないけど、お聞きの通り奥さんはとても上手なの」と恥の上塗りを何遍もしていただきました。

 一年ほど前のことですが、私が寂庵をお訪ねしたとき、先生が私を迎えるため、廊下を勢いよく走って出てこられ、うっかりけつまずいて転倒され、おでこから出血されました。大変、申し訳ないことであったのですが、とにかく情熱的、それもちょっとおっちょこちょいで、おちゃめで、ミーハーなところが先生のいちばんの魅力でありました。

 寂聴先生のことを、私はふと、「女一休さん」じゃないかと思ったりもいたしました。とんちの一休さんは有名ですが、天界も魔界も自在に往来しながら、愛に生きた反骨のお坊さんでしたから。

 宗教家は、とかく高尚できれいごとを話されますが、寂聴先生は俗な世、地獄をよく歩かれていて、その経験を踏まえて、「人を好きになるのは『雷が落ちるようなもの』」とか「青春は恋と革命」みたいなことをいわれたんだろうと思います。まさにそれ、一休さんじゃありませんか。

 人生が夢と現実の間に渡された、ゆらゆらと揺れる一本のつり橋を渡るようなものだとすれば、ときに魂を揺さぶるお騒がせ、冒険がなければ、人生にいったいなんの意味があるのか、と先生はおっしゃりたかったのではないでしょうか。

 私はもうしばらくつり橋で、この世の地獄を楽しんでからそちらへうかがいますが、また走って出てこられて、転ばれないようにされてください。

合掌

令和3年12月21日

細川護熙

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