ビューティ・ペア ジャッキー佐藤さん死去
ジャッキー佐藤さん

マキさん、ジャッキー佐藤さんと涙の対面
葬儀に元親衛隊らファン600人
9月29日にジャッキー佐藤さん追悼大会
10カウントゴングにマキ上田さん涙


胃ガン41歳、孤独死

 元人気女子プロレスラーのジャッキー佐藤さん(本名佐藤尚子=さとう・なおこ、写真)が、9日午前8時41分に川崎市立川崎病院で胃がんのため死去した。41歳だった。自宅は横浜市港南区東芹が谷23の3の402。マキ上田さん(40)とのコンビ「ビューティ・ペア」で1970年代後半に史上空前の女子プロレスブームを巻き起こし、歌手としても「かけめぐる青春」を大ヒットさせた。87年にプロレスを引退した後は表舞台から去り、列島狂想曲と言われた時代とは対照的に、ひっそりとした死だった。

11月を最後に

 一世を風靡(ふうび)した佐藤さんの死は、あまりにも寂しかった。胃がんのため入院していた川崎市内の病院で、ジャパン女子時代の後輩ナンシー久美さんらにみとられながら静かにこの世を去った。

ナンシー久美さん
思い出を語るナンシー久美さん(午後7時45分、横浜市港南区上大岡で)
 ナンシー久美さんは「私が家族の方と付き添うことになった1週間前、まだ意識がしっかりしていた。私に何度も『ありがとう』と話してくれた。夕べはスヤスヤと眠っていたのに……」と信じられない様子。最後は苦しまずに逝った。

 弟一志(かずし)さんら遺族、関係者によると、佐藤さんは昨年10月にがんを告知され手術を受けた。しかし、既に手遅れの状態だったという。そんな体で1度は退院。術後1カ月後の全女30周年興行(横浜アリーナ)に盟友マキ上田さんらと「全女殿堂入り選手」として参加。これが公の場に姿を見せた最後だった。その後、今年3月に再入院していた。

 70年代後半、ビューティ・ペアとして史上空前の女子プロレスブームを起こした。「かけめぐる青春」は80万枚の大ヒット。芸能タレント的な人気で女子中高生を中心にファンを熱狂させ、日本武道館など大会場に進出。テレビ出演、グッズ販売などで女子プロが通用することを次々に証明していった。際物視されていた女子プロレスをタレント、ショー化させた功績は不滅と呼べるほど大きい。

 ビューティ・ペアの黄金時代は79年2月、日本武道館で行われた「負けた方が即引退」の直接対決で佐藤さんが勝ち、幕を閉じた。その後、ライオネス飛鳥、長与千種のクラッシュギャルズなど後進が続いたが、圧倒的な人気で日本列島を揺さぶったビューティ・ペアを上回るコンビは出ていない。

◆ボディートーク体操◆
 プロレスを引退した佐藤さんが、88年に考案した健康体操。関節や筋肉に無理な負担をかけない体に優しい体操として、高校生から60代まで幅広い年齢層を対象に指導していた。教室も川崎市を中心に13カ所で、200人以上を教えていた
 佐藤さんは87年にプロレス界を離れた後、神奈川県内を中心にスポーツインストラクターとして独自に考案した「ボディートーク体操」を指導。ほとんど表舞台に出ることはなくなった。体操の指導や講演などで忙しく「恋愛や結婚どころではない」と独身のまま仕事に没頭。「ジャッキー佐藤」の名前は次第に世間から遠ざかった。ナンシー久美さんが「お互いプライベートには踏み込まないようにしていた」と話すように、どこか孤独な部分も感じさせた。

マキさん号泣

 本人の希望でがんに侵されていることは女子プロ関係者には伝えていなかった。鳥取市内でスナックを経営するマキ上田さんにも悲報が届いた。ナンシー久美さんによると「涙で言葉にならなかった。どうして教えてくれなかったの、と言われました」。絶頂から20年。2人に予期せぬ永遠の別れが訪れた。

葬儀日程
▼通夜 10日午後6時から、横浜市鶴見区鶴見2の1の1、大本山総持寺瑞応殿で
▼葬儀・告別式 11日午後0時30分から同所で
▼喪主 父正(ただし)さん


信じられない

 マキ上田さん 昼すぎに聞きましたが、今でもジャッキーが亡くなったなんて信じられない。あすの朝1番で東京に向かいますが、顔を見るまで、私の頭の中の映像は元気なころのジャッキーしかいません。思い出はいろいろありますが、去年の8月、私の店の10周年パーティーに来てくれて一緒に温泉につかり、飲んだり食べたりしたことがとてもうれしかった。いずれOB同士で集まって井戸端会議をやろうなんて話していた矢先に……。


ジャッキー佐藤さんと風間ルミ

病気のうわさも

 風間ルミ(LLPW) 私がシュートボクシングに打ち込んでいたころ、ジャッキーさんに誘われてプロレス界に入ったんです。あのひと声がなければ今の私はありません。病気のことは半年ほど前からうわさを聞いていましたが、ただ驚くばかりで……。

(写真=1987年(昭和62年)1月8日、ジャッキー佐藤さん(右)と風間ルミが日刊スポーツに来社)


ショー嫌いの本格志向、泣きながら歌っていた

悼む
志生野温夫アナ
 驚きました。あんなに丈夫なジャッキーが死んだなんて。昨年11月、横浜アリーナの「全日本女子30周年記念大会」で会った時はとっても元気だったのに。いつも私生活では多くを語らないジャッキーが、体操教室を開いていると話していたので「そりゃあいいね」なんて話していたんですよ。

ビューティ・ペア
芸能タレント的な人気で女子中高生を中心にファンを熱狂させたビューティ・ペア
 ジャッキーは言いたいこともズバズバ言う選手でした。会社側がテレビ局の要請を受けて「かけめぐる青春」の歌を出すと決めたときも、嫌で嫌で、泣いて会社に抗議していました。ショーマンシップが苦手で、最初は観客もおじさん世代が中心だったので「下手くそ」なんてヤジを浴びて、泣きながら歌っていました。レコードが大ヒットして若い女の子たちが殺到しても、歌には最後までなじめなかったようです。

 性格も一本気で、プロレスは本格志向でした。前向きで妥協ができないから、相手が強いと、すさまじい試合をしていました。いつのどの試合だったかは忘れましたが、ジャッキーは血まみれになってもギブアップしないんです。控室に戻ったら、ドアのすきまから血が流れたほど。動脈が切れていたんです。救急車を呼びましたが、5分遅れていたら出血多量で死んでいたと聞かされました。一生懸命、まさに手抜きなしだったんですね。

 言いたいことを言う選手でしたので、引退試合も寂しいものでした。だから、全日本女子のOGたちが集まったりしても、ジャッキーだけは顔を出さなかったんです。音信もとだえがちで。でも、あまりにも早過ぎる死です。ご冥福(めいふく)をお祈りします。

フジ「全日本女子プロレス」を実況 


ビューティ・ペア

昨年、全女殿堂入り

 ◆ジャッキー佐藤 本名佐藤尚子。1957年(昭和32年)10月30日、神奈川県横浜市生まれ。中学時代にバスケットボールを始め、神奈川県立商工ではインターハイ、国体に出場。2年で中退し、75年3月に全日本女子プロレス入り。同年、マキ上田とビューティ・ペアを結成。76年2月にWWWAタッグ選手権、同11月にWWWAシングルのタイトルを奪取。80万枚の大ヒットとなった「かけめぐる青春」でアイドル歌手としても一世を風靡した。82年5月に引退。

全日本女子30周年記念大会で  86年1月、ジャパン女子プロレス旗揚げと同時に現役復帰。87年、神取忍とのケンカマッチに敗れ引退した。98年(平成10年)には全日本女子の殿堂入りも果たしている。173センチ、68キロ。

(左写真=76年2月、マキ上田さん(左)とのタッグ「ビューティ・ペア」でWWWAタッグ王座を奪取)
(右写真=全日本女子30周年記念大会で全日本女子の殿堂入りの表彰をうける(右から)ジャッキー佐藤さん、マキ上田さん、マッハ文朱さん(1998年(平成10年)11月29日横浜アリーナで))


メモリアルアルバム

昭和52年8月5日 ビューティ・ペア ワンマンショー 昭和52年8月5日 ビューティ・ペア ワンマンショー
昭和52年8月5日 ビューティ・ペア ワンマンショー







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昭和61年12月23日ジャパン女子プロレス 対リッパー戦 昭和61年12月23日ジャパン女子プロレス 対リッパー戦
昭和61年12月23日ジャパン女子プロレス 対リッパー戦
 
大ヒット曲「かけめぐる青春」

ビューティ・ペア

かけめぐる青春

ビューティビューティ ビューティ・ペア
 ビューティビューティ ビューティ・ペア
踏まれても汚れても 野に咲く白い花が好き
 嵐にも耐えてきた リングに開く花ふたつ
あなたから私へ 私からあなたへ
 送る言葉は悔いのない青春 かけめぐる青春
ビューティビューティ ビューティ・ペア
 ビューティビューティ ビューティ・ペア

(作詞石原信一・作曲あかのたちお)

(写真=試合後、ファンに手を振るジャッキー佐藤さん(左)とマキ上田(1977年8月5日、東京・浅草国際劇場で))


[バトル情報]