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日本・ポーランド国交回復50周年記念について
両国の国交樹立は1919年であるが、両国国民の交流の歴史は今から約100年以上前に遡り、様々な友好・親善のエピソードに彩られている。以下はその一部。
1.ポーランドの日本研究・日本語教育
ポーランドでは19世紀末から20世紀初頭にかけて、西欧を経由して紹介された日本文化が文学界や美術界において流行し、またポーランド人による民俗学、地理学の研究や日露戦争の勃発がポーランド人の日本への関心を高めた。この流れの中、1919年ワルシャワ大学で日本語講座が開設された。1920年代にはポーランドの歴史・文化の研究のため訪ポしていた梅田良忠が日本語教育に大きな役割を果たした。
1955年ワルシャワ大学中国学科に日本学科が併設された。同大学が徐々に日本研究を充実させていきながら、1987年ポズナンのアダム・ミツキェヴィチ大学とクラクフのヤギエウォ大学に日本学科が設立され、現在に至っている。コタンスキ教授、トゥビエレヴィチ教授をはじめとして多くの日本研究者が業績を生み出している
1989年の体制転換以降は、日本語教育に対する関心がさらに高まり、大学だけでなく、青年海外協力隊員の日本語教師、民間レベルでの日本語教師派遣、日本美術技術センターでの日本語の授業など、様々な機関で日本語を勉強する機会が増えてきた。他方国際交流基金の日本語能力試験が2004年度からワルシャワにて実施され始め、受験者数は2006年度223人が受験するなど急速に拡大している。
2.日露戦争とユゼフ・ピウスツキ
第一次大戦後独立ポーランドの初代国家元首となったユゼフ・ピウスツキ(当時ポーランド社会党の指導者)は、日露戦争勃発後の1904年7月に来日、シベリア鉄道破壊などロシア軍に対する様々な工作をする代わりとして、日本政府からポーランド革命運動への援助を求めた。右派の指導者ロマン・ドモフスキは、この動きがポーランドにとって不利益になると考え、これを阻止するため来日した。結局、ドモフスキの説得が功を奏し、明治政府は、ピウスツキの提案に応じることはなかったが、日露戦争で捕虜となったポーランド軍人に対する特別待遇の要請には快く応じた。
ロシアを破った日本人に対するポーランド人の好感情は、今日まで続いている。
3.ブロニスワフ・ピウスツキと二葉亭四迷
ユゼフ・ピウスツキ将軍の兄ブロニスワフは、1887年20歳のとき、ロシア皇帝アレクサンドル三世暗殺未遂事件に関与したとして樺太流刑に処された。刑期終了後の1896年、南樺太コルサコフ(大泊)の測候所に勤務したブロニスワフは、樺太アイヌ民族に接し、本格的にアイヌ研究を始めた。その後アイヌ部族の酋長の娘と結婚、二児をもうけた。ブロニスワフは樺太アイヌの伝承の語りを蝋管に録音していたが、1980年にポーランドで発見されたこの蝋管は北海道大学で再生に成功し、少数民族の言語・習俗の研究の進展に貢献した。
日露戦争勃発後、ブロニスワフは妻子を残したまま樺太を後にして1906年に日本に着き、当時ロシア革命派に関心を寄せていた二葉亭四迷 のもとを訪れた。8カ月の日本滞在中、ブロニスワフと二葉亭四迷は親密な間柄となり、二葉亭四迷は彼に物心両面で援助を与え、大隈重信 、板垣退助 をはじめ多くの著名人に引き合わせた。また、ブロニスワフは日本文学にも大きな関心を示し、二葉亭四迷とともに日本・ポーランド協会を設立、両国文学の翻訳、紹介活動を積極的に行った。
4.広田弘毅とポーランド
日露戦争時、松山の捕虜収容所に収容されていたロシア軍捕虜の約3割は、ポーランド軍人であった。来日したユゼフ・ピウスツキが川上俊彦(としつね)・駐ヴラジヴォストク貿易事務官(後に在ポーランド初代公使)と後に外相となる広田弘毅(当時東京帝国大学生)を伴って同収容所を訪れ、ロシア人とともに収容されていたポーランド人捕虜を比較的良い環境に分離した。
1927年、広田がオランダ公使として任地へ赴任する途中ワルシャワに立ち寄ると、ピウスツキは駅で出迎えた。ポーランド側は戦後東京裁判において、ロメル元駐日ポーランド大使が口上書を法廷に送り、広田の功績を挙げて無実を主張した。
5.ヴロツワフの日本庭園
ポーランド南西部ヴロツワフ市内のシチトニツキ公園の一角に、日本庭園がある。1913年、当時ドイツ領だったヴロツワフで、ナポレオン戦勝100周年記念として万国博が開催され、その一環として催された庭園芸術展のため、ホッフベルグ伯爵が日本人庭師アライ・マンキチ氏と共にこの日本庭園を造成したという記録が残っている。
シチトニツキ公園の庭師たちは数少ない古ぼけた日本庭園の写真を頼りに何とか庭園を手入れしていた。ヴロツワフ市の要請により1995年にJICA短期専門家派遣スキームで派遣された「造園設計」専門家は、庭園の修復は可能であるという調査結果を出した。他方、民間レベルでも、同市からの要請に応え、愛知県造園協会関係者らが日本庭園修復に協力し、1997年にこの修復事業が完了、「白紅園」として開園した。政府レベルでは、1995年から99年の間に計7名の専門家が派遣され、民間レベルでも15名が日本庭園の修復に協力した。完成直後の洪水で庭園の一部が流されたが、再度日本の協力により修復され、現在では市民の憩いの場となっている。
6.ポーランド人シベリア孤児を救援した日本
シベリアには、ロシア帝政時代に政治犯として流刑されたポーランド人が数多く住んでいたが、1920年代初頭、ロシア革命直後の混乱の中で親を失った子供達は飢餓と疫病の中で悲惨な状態にあった。これらシベリア孤児に日本政府・日本赤十字が救済の手を差し伸べて765名を東京・大阪に受け入れた。天皇陛下の祖母貞明皇后も孤児達を慰問された。日本国民朝野を挙げた看護の結果、孤児たちは全員健康を回復したが、腸チフスにかかっていた子供を必死に看病していた日本の若い看護婦が感染し死亡するということもあった。健康回復後、孤児達は祖国ポーランドに移送されたが、別れ際には「ありがとう」を連発し、『君が代』の斉唱をして感謝の気持ちを表しながら別れを惜しんでいたという。
帰国した孤児の中で大学に進学したイエジ・ストシャウコフスキ氏は、シベリア孤児の組織を作ることを提唱し「極東青年会」を創設した。同会はシベリア孤児の成長とともに発展し、国内9都市に支部が設けられ、30年代後半の最盛期には、会員数も640名を超えていた。当時の日本公使館との連絡も密であり、極東青年会の催し物には努めて全館員が出席して彼らを応援していた。
2002年に天皇皇后両陛下がポーランドを御訪問されたときは、生存していたシベリア孤児とお会いになり、感動的な出会いとなった。
(17.阪神・淡路大震災被災児童のポーランドへの招待も参照)
7.喜波貞子(きわていこ)と日本人形
1925年、日本人の血を4分の1ひくオランダ国籍のオペラ歌手、喜波貞子がワルシャワの国立劇場で「蝶々夫人」の主役を演じた。貞子演ずる「蝶々夫人」はポーランド人観客に大好評で、それから毎年のようにワルシャワで公演が行われた。
彼女の熱烈なファンであった若い美容師カミラ・ジュコフスカは、貞子がワルシャワで「蝶々夫人」を上演する度に劇場に通いつめた。後にナチス・ドイツの占領時代、カミラは反独レジスタンス組織に所属していたことが発覚し、ワルシャワ市内のパヴィアク監獄に収容された。死刑を待つカミラは、獄中で喜波貞子をモデルに日本人形を作った。獄中で男の子を出産したカミラは、結局死刑を免れ釈放されたが、1944年のワルシャワ蜂起に参加して亡くなった。
戦後、この監獄は博物館になり(「パヴィアク刑務所博物館」、ワルシャワ中心部)、カミラの作った日本人形「タイカ・キワ」が展示されている。
8.航空交流
1926年9月5日にポーランドより初めての飛行機が日本に到着した。操縦士はボレスワフ・オルリンスキ、機関士はレオナルド・クビァクであった。8月27日にワルシャワを出発し、モスクワ、オムスク、ハルビン等を経由して所沢に到着した。日本到着後は市民より大歓迎を受け、ラジオのインタビューを受けるなど大きく注目された。これを記念して彼に勲六等が授与された。9月12日には所沢を出発し、途中飛行機が故障するなどトラブルに見舞われたが、26日無事ワルシャワへ帰還した
9.ポーランドに眠る河合公使
1931年にワルシャワに赴任した河合特命全権公使は、在任中1933年8月にワルシャワで病気のため亡くなった。カトリック信者でもあった本人の希望により、河合公使はワルシャワ中心部にある「ポヴォンスキ」墓地に埋葬されている。
10.杉原千畝領事代理による「命のビザ」発給
第2次世界大戦中の1940年、リトアニア首都カウナス(当時)日本領事館の領事代理であった杉原千畝氏が約6000人のユダヤ系ポーランド人、リトアニア人に日本通過査証を発給し、ナチスの迫害に遭った多くのユダヤ人が日本経由でアメリカ等第三国に脱出することができた。ポーランド政府は1996年、杉原氏の功績を称え、功労勲章コマンダー十字章を授与した。
11.コルベ神父とゼノ修道士
1931年~1935年長崎で伝道活動を行ったマクシミリアン・コルベ神父は、ポーランドに帰国後、第二次大戦中にオシフィエンチム(アウシュヴィッツ)の強制収容所に収容された。1941年、わが子の名を叫んで悲しむ同房の処刑予定者の身代わりを申し出て処刑された。
コルベ神父と共に1930年に渡日したゼノン・ジェブロフスキ(ゼノ修道士)は、宣教活動や奉仕活動を行った。1945年8月に長崎に原爆が投下され、本人も被爆したにもかかわらず、被爆者や戦争で全てを失った人々のために、慈善活動を続けた。1950年頃からは戦争で被害を受けた人々が住む集落「アリの街」に赴き、集めた寄付や救援物資を分け与えるなどした。また1962年には広島市福山市沼隈町に知的障害者のための施設を建設した。このような活動を評価し、日本政府は勲四等瑞宝賞の叙勲を行った。ゼノ修道士は1982年に亡くなるまでの約50年間日本での慈善活動を続けた。
12.日本の民間投資
既に1970年代にポーランドに関心を寄せていた企業があったが、社会主義体制時代の経済分野での交流は非常に限られたものであった。1989年の体制転換以降日本企業によるポーランドへの投資は徐々に増加していった。
ポーランドのEU加盟以降は、日本企業の投資が急速に拡大しており、2007年1月現在、55の工場を含め約145の日系企業がポーランドで活動し、約2万人が雇用されている。最も顕著な進出分野は自動車関連産業と電機産業である。多くの工場は経済特別区で操業している。2006年のポーランドにおける日本の投資総額は約10億米ドルであり、1989年から2005年にかけての日本の累積投資額と同額になる見込みである。
13.連帯運動と日本
1980年以降のポーランドにおける「連帯」の一連の活動は知られた話であるが、「連帯」は様々なレベルで日本との関わりを持っていた。1980年8月労働者と政府の間で政労合意書が署名されると、同年9月日本の労働団体の一つである同盟の田中良一書記長がワルシャワを訪問した。また11月には総評の富塚三夫事務局長が専門家とともにポーランドを訪問しワレサ氏、梅田芳穂氏(ポーランド永住日本人で連帯活動家でもあった)を含む連帯の関係者と会合を持った。彼は「連帯」との緊密な関係を希望し、同時に様々な支援を行う準備があることを表明した。翌年81年春ワレサ氏はじめ「連帯」の代表団は日本を訪問し、日本の労働団体、衆参両院、文化人、メディアとの会合を持った。
1981年12月に戒厳令が施行されると、日本の国会議員の間では非公式なポーランド情勢研究会が政党の枠を超えて発生し、ポーランド情勢に強い関心を持つ与野党の議員が参加した。
14.日本美術・技術センター
1994年11月、ポーランドの古都クラクフ市のヴィスワ川のほとりに「日本美術・技術センター」が誕生した。このセンター誕生のイニシアティヴをとったのは、「灰とダイヤモンド」、「大理石の男」等の作品で知られる世界的映画監督アンジェイ・ワイダ氏。戦時中、画家を目指していたワイダ少年はクラクフ織物会館で見た浮世絵に強い感銘を受け、熱心な日本美術コレクターであったフェリックス・ヤシェンスキ のコレクションを展示する美術館をつくる夢を持っていた。
1987年、京都賞を受賞したワイダ監督は、賞金副賞4000万円全額を費やして少年時代の夢の実現に取りかかった。その熱意に賛同したポーランド、日本の多くの人々が美術館建設に様々な形で協力し(政府41%、民間59%、合計約564万USドル)、95年の開館にこぎつけた。美術館は葛飾北斎の北斎漫画に因んで「MANGGHA」の雅号を名乗ったヤシェンスキに因み「マンガ・センター」という愛称で呼ばれ、欧州有数の浮世絵コレクションを中心に様々な日本文化紹介活動を行っている。また、2005年以降は、セイコー・エプソン・キャノン・日立製作所による先端技術展示も行われ、名実とともに「美術・技術」センターとして発展しつつある。
15.音楽コンクールと日本人
(1)5年に一度ワルシャワで開催されるショパン国際ピアノコンクールは、世界で最も権威あるピアノコンクールで、若く才能あるピアニストたちの登竜門になっており、日本人も多数参加している。これまで、中村絋子さん、内田光子さん、小山実稚恵さん等が入賞しており、2005年度コンクールでも関本昌平さん、山本貴志さんの二人が4位に入賞した。
(2)ヴァイオリンのヴィニアフスキ国際コンクール(ポズナン)も有名で、漆原啓子さん(1981年優勝)をはじめ多くの日本人ヴァイオリニストが入賞している。
(3)カトヴィツェで開催されている「フィテルベルグ国際指揮者コンクール」も有名なコンクールの一つであるが、1983年に開催された同コンクールでは今村能(ちから)氏が優勝した。今村氏は2002年以降ポーランド国立歌劇場の常任指揮者を務めるなど、ポーランドにおいても積極的に活躍している。
16.ポーランド日本情報工科大学と日本の支援
(1)市場経済移行後のポーランドは、産業の生産性・効率性の向上を目指してコンピュータ・システムの導入を積極的に進め、実践的な情報工学分野の人材育成を行うことが急務であった。このため、1993年ポーランド政府は我が国に対し、実践的コンピュータ技術教育を行う「ポーランド日本情報工科大学」の設立及び教育プログラム開発に対する支援を要請してきた。
これに対し我が国は、累計312万米ドルの資金的支援、JICAの専門家派遣累計57名、日本での研修員受入れ17名、機材供与約416万米ドル等の支援を行った。本大学は1994年10月に学生数わずか90名で開校したが、我が国の協力により7年間で急速に発展し、現在では学生数1400名を超える最大規模の情報工学系大学となっている。また、他の中東欧諸国を対象とする「中東欧情報工学セミナー」を実施し、また、UNDPと協力し、日本及びポーランド政府の支援を得てウクライナへの情報技術移転の遠隔技術支援を実施するなど、中東欧におけるIT教育の拠点としての地位を築きつつある。本件は、我が国のODA案件の中で最も成功した案件の1つと言える。
(2)1991年から2006年までの間、大学やオペラ座など17のポーランドの文化・学術機関が日本政府による文化無償協力(総額500万米ドル以上)を受けた。
17.阪神・淡路大震災被災児童のポーランドへの招待
日本とポーランドの市民交流を熱心に行ってきたフィリペック氏(1995年当時:在京ポーランド大使館商務参事官、現在:ポーランド科学アカデミー教授)は、「日本・ポーランド親善委員会」を立ち上げ、1995年7月と8月、1996年7月と8月(両年合わせて約60名)に阪神・淡路大震災被災児童をポーランドに招待した。この招待は震災で傷ついた児童の心を癒すということが目的であり、ポーランド各地方自治体等の協力を得て地域との交流イベント開催やホームステイの実施など友好親善活動を促進した。また1920年から1921年にかけて日本がシベリアで救出したポーランド人孤児との会合をアレンジするなど、日本とポーランドの市民交流に非常に積極的な役割を果たした。
2005年8月、10年ぶりに、フィリペック氏が成長した被災児童を招待し、「心から心へ」というテーマで阪神大震災被災児童写真展をワルシャワで開催した。また、同時にプウォツク少年少女舞踊合唱団の演奏、またポーランド人孤児の協力・出席を得て同合唱団員との交流が行われた。
2006年日本政府は、同氏の日本・ポーランド学術交流の推進及び友好親善活動を評価し、旭日中綬章の叙勲を行った。
注
(1)二葉亭四迷(1864-1909):
作家、翻訳家。言文一致体で執筆された『浮雲』や、ロシア文学の翻訳作品に見られる自然描写や斬新な文体は、日本の文学界に大きな影響を与えた。東京外国語学校でロシア語科の教授を務め、様々なロシア文学の翻訳作品を出すなど、ロシア語には堪能であった。
(2)大隈重信(1838-1922)
大蔵卿、外務大臣、首相を務めた政治家であると同時に早稲田大学を設立するなど学術の世界でも貢献した人物。地租改正を実施、殖産工業政策を展開して、日本経済の基盤形成に貢献した。
(3)板垣退助(1837-1919)
日本における自由民権運動の代表的な人物として知られる。板垣が中心となり「愛国公党」という政党が結成された。また愛国公党は参政権や議会の開設を主張し、板垣、その他7名により議会の基礎となる「民選議院設立建白書」が提示された。
(4)フェリックス・ヤシェンスキ(1861-1929)
美術品収集家。19世紀後半パリにて流行していたジャポニズムから強い印象を受けたヤシェンスキ氏は、浮世絵など日本の美術工芸品を収集した。彼が収集した数千点にも及ぶ作品が日本美術技術センターの所蔵品の大部分をなしている。