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「十和田」

【第111回】「十和田」


急行「十和田」は、かつて上野~青森間を常磐線経由で結んでいた客車急行であり、昭和40年代は最大7往復も設定された、東北急行のキング的存在だった。その元祖は、敗戦後間もなくに運転された連合軍専用列車であり、昭和20年代後半には特殊列車として日本人にも開放、一般急行の仲間入りをしたときに「十和田」と命名された経緯を持つ。そんな「十和田」も、昭和50年代に入ると並行する特急「ゆうづる」や東北新幹線に勢力を奪われるようになり、最後まで残っていた定期1往復は、東北新幹線上野開業を迎えた60.3改正で廃止されている。

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「十和田」の元祖は連合軍専用列車 横浜~札幌間「ヤンキー・リミテッド」

43.10改正では7往復を数え、東北の夜行急行の雄として君臨した「十和田」も昭和50年代に入ると急速に勢力が衰えたが、1往復は20系に置き換えられ、昭和54(1979)年までには一般型客車が淘汰された。

昭和20(1945)年の敗戦後、日本に駐留した米国を中心とする連合軍は、国鉄に残存していた優等車を次々と接収、この年の12月には一般兵士とその家族の旅行向けに定期専用特急を運転することを命じ、翌年には東京~門司間、上野~札幌間、東京~博多間などで列車が設定された。上野~札幌間の列車は、昭和21(1946)年2月11日の下りから運転を開始し、寝台車の一部と荷物車が青函航路で航送され、北海道へ直通していた。この列車の本州内は当初、東北本線経由だったが、同年4月22日からは常磐線経由に変更され、「ヤンキー・リミテッド」という愛称が付けられた。これこそ、「十和田」の元祖となる列車だった。 「ヤンキー・リミテッド」は、のちに横浜発着となり、東北の夜を謳歌するかのように華々しく運転されていたが、昭和27(1952)年4月28日に日米講和条約が発効されるのを機に、同年4月1日付けで他の専用列車とともに日本人客にも制限付きで門戸が開放され、「特殊列車」という名称で一般急行と区別された。そして昭和29(1954)年10月1日改正では、「十和田」という愛称が付けられ、一般急行の仲間入りをした。その当時のダイヤは、1201列車/東京19時05分→青森10時00分、1202列車/青森19時00分→東京9時50分だった。なお、青函航路による寝台車航送は、同年9月26日に青函航路で発生した洞爺丸の沈没事故の影響により中止されている。

43.10改正では7往復の最大本数に 東北急行唯一の昼行客車列車も登場

同じく常磐線を駆けた特急「ゆうづる」と同様、一般型客車時代の「十和田」の先頭は、平機関区のC62が飾っていた。

寝台車の北海道直通が廃止されたとはいえ、「十和田」は東京以北の列車では唯一となる1等寝台車を連結する豪華な編成を維持し、昭和31(1956)年11月19日改正では列車番号が「特殊列車」時代の1201・1202から205・206と一般急行並みとなり、運転区間は東京~青森間から上野~青森間に変更された。この改正では、並行する「北斗」に2、3等寝台車が増結されるようになり、これまでの東北急行の中で最も豪華な編成を誇った「十和田」はその地位を追われるようになった。「北斗」の方は昭和34(1959)年9月22日改正で東北急行で初めてとなる寝台専用列車となったが、「十和田」は「北斗」を補完する座席車主体の列車へ変貌し、東北急行の盟主の座は完全に逆転してしまった。 しかし、その後、本数のうえでは「十和田」は大いに躍進する。「北斗」の方は、昭和40(1965)年10月1日改正で特急「ゆうづる」に格上げとなり、その愛称名は北海道の気動車特急へ召し上げられたが、上野~青森間の常磐線客車急行は昼行が「みちのく」、夜行が「十和田」に愛称名が整理されたことから、「十和田」は「いわて」「おいらせ」といった列車を吸収し4往復の陣容となった。 昭和43(1968)年10月1日改正を迎えると、「十和田」は本数の上で絶頂期を迎える。この改正では、東北本線の全線電化が達成され、これまで常磐線経由だった上野~青森間の気動車特急「はつかり」が583系による東北本線経由の電車特急に生まれ変わり、同時に共通運用で電車「はくつる」「ゆうづる」も登場、常磐線経由の「ゆうづる」は「十和田」1往復を吸収し2往復となった。「十和田」はこの改正で昼行の客車「みちのく」と不定期の「おいらせ」をも吸収し、定期・不定期合わせた7往復となった。その内訳は次の通りだった。 ・「十和田1・1号」  201列車/上野12時10分→青森23時45分、202列車/青森5時20分→上野16時53分(ロ・シ・ハ12両/盛アオ) ・「十和田4・6号」  203列車/上野20時35分→青森8時59分、208列車/青森21時30分→上野9時51分(ロネ・ハネ・シ・ロ・ハ13両/東オク) ・「十和田5・5号」  205列車/上野22時40分→青森11時10分、206列車/青森19時00分→上野6時53分(ニ・ロネ・ハネ・シ・ロ・ハ13両/東オク) ・「十和田7・3号」  207列車/上野23時30分→青森12時30分、204列車/青森16時43分→上野5時30分(ニ・ユ・ハネ・シ・ロ・ハ13両/盛アオ) ・「十和田2・2号」  6201列車/上野16時20分→青森4時30分、6204列車/青森15時30分→上野5時00分(ハネ6両/東オク、またはロ・ハ12両/東オク) ・「十和田3・4号」  6203列車/上野19時50分→青森8時15分、6206列車/青森18時37分→上野6時06分(ハネ12両/東オク、またはロ・ハ12両/盛アオ) ・「十和田6・7号」  6205列車/上野23時05分→青森11時40分、6202列車/青森0時20分→上野12時10分(ハネ12両/東オク、またはロ・ハ12両/東オク)  このように、客車急行としてはかなりの大所帯で、編成は食堂車を連結した座席車主体の列車、寝台車主体の列車と、バリエーション豊かだった。 「十和田」7往復のうち1往復は旧客車「みちのく」の流れを汲み、43.10改正以後の東北急行では珍しい昼行客車急行となったが、昭和47(1972)年3月15日改正では583系による特急「みちのく」に格上げされ、「十和田」は再び夜行のみの運転となった。

昭和50年代前半には全列車近代化57.11改正以後はわずか1往復に

昭和40年代に隆盛を誇った「十和田」も、昭和50年代に入ると、特急列車の大増発によりその勢力が急速に衰える。昭和50(1975)年3月10日改正では、特急「ゆうづる」が2往復増発された関係で、「十和田」は5往復から不定期1往復を含む3往復となった。このうち不定期の1往復は、翌年3月から14系座席車に置き換えられ面目を一新、定期の1往復は昭和52(1977)年10月1日から20系に置き換えられ、10月30日からはナロネ21を座席車に改造したナハ21の連結を開始している。残る1往復は一般型客車による編成で残されたが、これも昭和54(1979)年9月30日には12系に置き換えられ、「十和田」は3往復すべてが近代化を果たした。 昭和57(1982)年6月23日、念願の東北新幹線大宮~盛岡間が開業し、東北にもようやく新幹線時代が到来した。これにより、夜行旅客の昼行移転が大幅に進むことが予想されることから、東北新幹線が本格運転となった同年11月15日改正では、常磐線の夜行列車のうち特急「ゆうづる」が2往復廃止され、5往復に縮小、「十和田」は12系を使用するわずか1往復のみが残され、風前の灯と化した。なお、改正前まで「十和田」1往復に使用されていた20系は奥羽本線経由の「津軽」に転用された。 この改正以後、上野~青森間の夜行客車急行は「十和田」のほかに東北本線経由の「八甲田」が残ったが、「八甲田」はJR移行後も存続したのに対して、「十和田」は、東北新幹線が上野まで達した昭和60(1985)年3月14日改正で姿を消した。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2022/03/01


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