聖光学院の最強時代に突入!大旗の白河越えなるか

2011.11.20


大洋の大エース 遠藤一彦【拡大】

 福島県の「白河関跡」は栃木県との県境、白河市にある。東北地区のチームが甲子園の決勝に進出する度に、「優勝旗が白河の関を越える…」と表現されてきた。

 福島県のチームも1度、甲子園の優勝まであと1勝に迫ったことがあった。

 昭和46年夏。5度目の甲子園出場だった磐城高の快進撃に、地元は沸いた。その年の4月、かつて隆盛を誇った常磐炭鉱が、一部を残して閉山。エース・田村隆寿をはじめ、ナインのほとんどが炭鉱職員の家庭で育ち、家族は転職を余儀なくされた時期だった。

 チームの平均身長は167センチで大会最小。進学校ゆえに浪人して入学した選手もいた。田村もそのひとりで、身長は165センチ。代表校のエースで一番小さかったが、シンカーを武器に3試合連続完封で決勝へ。桐蔭学園(神奈川)戦の7回に1点を奪われた。大会34イニング目の唯一の失点で敗れたが、「小さな大投手」と称された。県大会前、監督の須永憲史が「甲子園に出る自信がある者はいるか」とナインに聞いた際、ひとりだけ手を挙げたのが主将の田村だった。

 「炭鉱の閉山で元気のない大人たちを、少しでも明るくすることができた」

 後年、準優勝をこう振り返っていた田村は、日大(準硬式)を経て社会人・ヨークベニマルに入社。同時に安積商(現帝京安積高)の監督となり、2度の甲子園出場に導く。58年からは母校・磐城の監督となり、60年夏の出場を果たした。

 準優勝メンバーでプロ入りした選手はいない。だが「1番・遊撃」だった先崎史雄(立教大)が日大東北の監督として、「2番・中堅」の宗像治(早大)が福島北の監督として甲子園に出場。田村を加えたこの3人は高校時代、同じ身長と体重(62キロ)で「チビっ子トリオ」と呼ばれた。

 明治39年創部の磐城は県内屈指の伝統校。プロ野球史上に残る、速球派左腕を生んだ。

 小野正一は昭和31年に毎日(現ロッテ)入団。速球と大きなカーブで三振のヤマを築いた。35年はリリーフ中心ながら最多勝(33勝)と防御率1位。毎日はこの年、18連勝を記録するが、小野はうち15試合に登板して10勝を稼いだ。プロ15年で通算184勝。奪三振は歴代11位の2244を数える。引退後は球界を離れ、平成15年に胃がんで亡くなった。

 小野の1年後輩の外野手・福田昌久は専大から南海−巨人。4球団でコーチを務め、解説者としても人気があった。

 磐城より遅い大正11年創部ながら、昭和20年代から全国大会の常連となった古豪が福島商だ。左胸に大きく「Fc」のマークが入ったユニホームが、オールドファンには懐かしい。磐城が準優勝した46年のセンバツで8強入り。平成12年春も準々決勝まで進んでいる。

 「みちのくの玉三郎」と呼ばれ、甲子園で人気者になった三浦広之は、昭和52年夏の右腕エース。県大会44回連続無失点(62奪三振)で甲子園に来た三浦は、初戦(九州産)も1−0の完封。続く熊本工戦の延長11回裏、押し出し死球でサヨナラ負けを喫したが、甲子園と県大会合わせて55回連続無失点を記録した。ドラフト2位で阪急入り。1年目の初登板から4試合連続勝利、2年目には2ケタ勝利も飾った。引退後はゴルファーに転身。現在、大阪市内でティーチングプロとして活躍している。

 三浦の4年後輩が古溝克之。2年生秋の県大会で2試合連続ノーヒットノーランを達成した左腕は、56年に春夏連続で甲子園に導いた。専売東北を経て、三浦と同じ阪急に入団。移籍した阪神も含め、先発・中継ぎ・抑えにフル回転した。

 福島県内最古の私学である学法石川は、県内最多の甲子園出場12回(春3、夏9)を誇る。こちらは、大洋・横浜で大エースとなった遠藤一彦を輩出した。東海大を経てプロ入り。速球と高速フォークで通算134勝、最多勝2回、最多奪三振3回、沢村賞も獲得した。コーチなどを務めた後は、鎌倉市観光協会の専務理事に就任。地元の少年野球発展にも尽力している。

 昭和61年夏、62年春連続出場したのが諸積兼司。法大、日立製作所からロッテ入りして人気の外野手になった。コーチを経て今年からフロント(編成)入り。平成3年に春夏出場の右腕、川越英隆はオリックスで先発として活躍した後、ロッテに移籍した。

 巨人で「ヤッターマン」「絶好調男」の異名を取った中畑清は、安積商(現帝京安積)出身。夏7回出場の日大東北からは、強肩捕手の吉田康夫(三菱自動車川崎−阪神、現コーチ)が出た。

 福島県はいま、聖光学院の最強時代に入っている。夏の県大会は5連覇中で、今夏は兵庫県出身のエース・歳内宏明が活躍。阪神にドラフト2位指名された。

 チビっ子軍団、磐城の準優勝から40年。福島県勢が大旗を手に、白河の関を越える日は−。=敬称略

 

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