わが国の自然史博物館の草分け、大阪市立自然史博物館。その前身となる自然科学博物館の開設時から学芸員として関わり、後に、21年間にわたって館長を務めた千地万造先生。
そんな千地先生が、学芸員になった動機は「博物館なら、自分の研究を続ける時間をつくりやすいかもしれない」という期待だったという。
自然史博物館時代から現在まで、数多くの博物館に関わり、同時に研究も進めておられた先生だが、最初のころ研究する時間をつくるのは並大抵の努力ではなかったはずだ。参考にする資料は何もない状態で、ゼロから手探りの博物館づくりだったという千地先生に、苦労の軌跡と、今後の博物館への期待を語っていただいた。 |
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博物館などない時代に |
昭和32年、「新しくできる自然科学博物館が地学分野の学芸員を探しているんだが、受けてみないか」と訊かれたのが、私と博物館の出会いです。
この時、私は大阪府立泉陽高校の地学教師と、京都大学の大学院生という2足のわらじを履いていました。終戦直後の高等学校はアメリカの学校制度の直輸入で、週休2日、教師にはさらに週1日の研究日があったので、週末を利用して京都で研究をするという生活が可能だったのです。大学を卒業してから8年間、今にして思えば、若さにまかせて、教師としても大学院生としても全力投球で過ごしていました。そこに学芸員の話が来たのです。
当時、日本に博物館は極めて少なく、科学博物館というと東京の国立科学博物館だけ。学芸員という仕事がどんなものかは知りませんでしたが、博物館ならば、自分の研究をする時間も持てるのではないかと考えたのです。
そんなわけで、私は学芸員の採用試験を受け、大阪市立自然科学博物館の最初の学芸員、5人のうちの1人として採用されたのです。 |
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焼け残った小学校の校舎で |
採用試験があったのは昭和32年の秋。博物館の開館は翌33年1月の予定でした。当時、大阪は焼け野原で、博物館は靭小学校(大阪市西区)の元校舎の半分を使わせてもらって、スタートすることになりました。建物の外側はぼろぼろで、自分たちで壁を抜いて展示室をつくったり、自分の研究をするような状態では、もちろんありません。「えらいところに来てしもた」というのが正直な気持ちでした。
初代館長は筒井嘉隆さん。戦争中、天王寺動物園の園長をしておられた方で、作家の筒井康隆氏のお父さんです。私たちが採用される前から、筒井館長を中心に、学校の先生や大学の若手研究者十数人がボランティアで、たくさんの標本や資料を集めて下さっていました。まずは、その標本と資料の整理です。また、市内の小学校にある教材用の標本が、めちゃくちゃな状態になっていたので、私たちが出前で整理をしに行き、一部は、ひきとってこちらの展示に使わせてもらったりしました。
当時、博物館に関する本などないし、参考にしたくても、日本にはあと国立科学博物館ぐらいしかありませんし、何もかもが手探り状態でした。 |
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試行錯誤の手作り展示 |
博物館の展示の基本は、当時も今も、標本にラベルをつけ、学校の授業や研究に役立つように分類学的に並べて解説することだと思います。それに加えて、ちょっと違った展示もしようと考えて、様々なことを試しましたよ。
たとえば、大阪市内の街路樹を、道ごとに、御堂筋はイチョウ、この街路はプラタナスという形で展示したのは、人気がありましたね。
館長から、「きみ、地質をやっているんだから恐竜の展示をしてよ」と言われて、途方にくれたこともありました。恐竜化石なんて日本にはなかった時代です。その5~6年前に、国立科学博物館が恐竜展をしたのを思い出して、展示品を貸してもらいに東京まで行きました。その展示品というのは、江戸時代にあった「立版古」というおもちゃを、大掛かりにしたようなもの。ベニヤ板を恐竜の形に切り抜いて、復元図を描いて、後ろから支えて立たせる展示です。修復して色を塗りなおして、シダやリンボクなどの植物も同じように作って奥行きをもたせて配置して立体的に見せる、現在からみたらささやかな展示です。海にはこんなのがいました、と、アンモナイトの化石を展示してね。それでも、みんな喜んでくれて、小学校の子どもが先生に連れられて見に来ましたよ。 |
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身近に感じる展示とは |
鉱物は、標本だけでは興味を引きにくいので、生活とのかかわりがわかるような展示もしました。
大阪周辺の鉱山や精錬所を駆け回って、鉄やアルミ、ニッケル、銅などの鉱石をもらい、精錬しているところの写真をもらい、精錬した金属の塊であるインゴットは高価なので借用して、鍋釜などの製品までを、それぞれブースにして展示したのです。いろんな人にお世話をかけて、自分も走り回って、きれいに展示したんですが、これは、なぜかあまり興味を持ってもらえなかった。
逆に、現在の生活とは関係ないけれど、自分たちが暮らす土地で、太古の昔に生きていた動物の化石などが発掘されると、多くの人の興味を集めるのですね。
岬町の深日に宝樹寺、別名「化石寺」というお寺があります。底引き網に掛かったものを、和尚さんが、漁師さんから引き取って収集しておられたんです。象の歯とかね。そのお寺に3日ほど泊めてもらって、標本の整理をお手伝いして、その後、自分たちでも底引きを、朝日新聞との共同でやったんです。そんないきさつが記事になり、企画展にはたくさんの人が来られました。
昭和30年代後半になると高度成長で宅地開発が増え、千里山や泉北の丘陵の地層の中から、いろいろなものが出てきました。それにも、関心が強かったですね。
今、自分の住んでいる土地で、かつて生きていた植物、動物たち。これは、現在の自然が、長い歴史、そして人間の様々な関わりを経ていることを、お説教ではなく、実感してもらえる一番いい展示じゃないかと思いました。 |
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大阪市立自然史博物館へ |
手探りの博物館運営を続けること7年。筒井館長が退任されて、私が後を継ぐことになりました。
その後、多くの市民の方たちの後押しもあって、昭和49年、長居で、「大阪市立自然史博物館」と名前も新たにして、再スタートを切ることができました。ですから私は、大阪市立自然科学博物館2代目にして最後の館長と、大阪市立自然史博物館の初代館長を務めるという幸運にめぐまれたのです。
博物館の理想像はなんといっても、たくさんの資料を持つことです。図書館にたとえると、どんな本でも必ずあるのが理想の姿ということ。欧米には、本当に膨大な収蔵品を持つ国立の博物館がいくつもあります。しかし、あちらは、200年、300年という歴史を持っています。日本の、一都市の市立博物館で、欧米を参考にするどころか、日本の国立博物館と同じものをつくろうとしても無理なんです。そのミニチュアをつくっても仕方ありません。
ですから、大阪市の博物館は、地域にこだわる博物館であるべきだと考えました。地域のことなら何でもわかり、地域の人たちに親しまれる博物館をめざすべきだと。
同時に、学芸員はどんなに大変でも自分の研究を大事にしないとだめです。すぐには展示につながらないでしょうが、いつかその成果を展示や普及・教育活動に役立てることを、虎視眈々と狙いながら研究しなさいと、若手に言い続けてきました。
今その成果が出てきて、関西だけでなく日本を代表する自然史博物館になったと思っています。 |
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現代の博物館の役割 |
今は、体験、体感の機会をつくるのも博物館の役目になってきています。コンクリートの中で生活している人たちに、自然に接したときの安らぎみたいなものを感じてもらう。そのためには、博物館の外に出て観察会や勉強会をすることも必要でしょう。
地域との関係も大切です。ほんの一例にすぎませんが、この「きしわだ自然資料館」では、自然の中で働く人と一般の市民との交流機会として、毎年1回「漁港探検」というイベントをやっています。岸和田漁港の漁業組合と春木漁港の組合に、1年交代で協力をお願いしています。漁協の青年部の人たちが朝から漁に出て、参加者の目の前で水揚げしてくれるんです。その日は、大阪府の水産試験場の研究員も参加してくれて、魚について説明してくれます。参加者は、魚を触ったり、写真にとったりしながら2~3時間を過ごします。かなりの人気イベントですよ。 |
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市民活動の場作りを |
自然保護に取り組む団体とのお付き合いはたくさんありますが、直接、活動を行ったり、旗振り役になることはしていません。活動をする人たちに対して、正確な情報を提供するのが、博物館の役割だと私は思います。
あるいは、観察会で自然に触れる機会をつくる。漁港探検のように、自然と関わる仕事を知る機会をつくる。そこから、何を感じ、何に生かすかは、利用者それぞれだと思うのです。
たとえば、漁港探検の活動で生まれた交流から、大阪府緑のトラスト協会と、漁業組合が協力して、海をきれいにするために上流の里山の整備をする「漁民の森」という活動が生まれたりします。博物館だけが旗を振って活動していたら、そこまで手を広げられません。関係づくり、場づくり、雰囲気をかもし出して行くことが、博物館の役割だし、我々が裏方に徹することで、層の厚い活動が生まれてくると思っています。 |
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デジタル時代の博物館 |
博物館は自分のところだけで一生懸命やろうとしても、人も予算も少ないので、館同士の連携が大切ですね。今、西日本の自然史博物館の連携事業が進んでいます。GIS(ジオグラフィック・インフォメーション・システム)というシステムを作って、鳥類、両生類、爬虫類、魚類、昆虫、植物の収蔵標本と、文献による昆虫の情報、全部で15万件のデータを集めて、どの地域に、どんな生き物がいるかが、地図と一緒にすぐわかるというシステムが、できつつあるんです。
欧米の200年、300年の歴史を持つ巨大な博物館と比べたら、日本の博物館なんて貧弱なものですが、これなら博物館だけじゃなく大学ともリンクしてかなり膨大なデータベースを構築することができる。学校ともつないで、学校教育、特に総合的学習に大いに利用してもらうことができます。僕はアナログ人間なので、若い人に任せきりですけどね。使い方だけ教えてくれと言ってあります(笑)。
ただし、デジタル技術が進んでも、博物館はあくまでアナログの世界。実物という第一級の情報源を見せる場所です。私は、博物館をただ集客力だけで評価することには、強い反発を感じてはいるものの、博物館は来てもらって、見てもらって、初めて目的を達するわけで、やはり集客力は重要ですね。特に、インターネットで世界中の情報が手に入る現代、実際に足を運んでもらうための工夫が、博物館に求められます。 |
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博物館は楽しくなければ |
博物館には「勉強しよう」とか「成績が上がるかも」とか考えずに気軽に行ってください。歴史博物館は歴史の散歩道、自然史博物館は本物の自然につながる入り口です。博物館で何か、心に留まる展示を見つけたら、自分で歴史を調べたり、遺跡や山や海に行って、現地を見てくることが大切です。
ですから、博物館は行って楽しいところじゃないといけないのです。欧米の博物館は、いつ行っても、駐車場に大きな黄色いスクールバスが2、3台は停まってます。一回きりではなく、何度も来ているのでしょう。
そして、欧米の博物館、美術館のミュージアム・ショップは素晴らしいです。子どもでも買える安いものから、実に精巧に作られた収集品のレプリカなど非常に高価なものまであります。博物館でしか手に入らない宝物という楽しみを提供しているのです。
日本ではまだ、どこへ行っても携帯ストラップやキーホルダーですね。ところによっては地域の物産(たとえば○○煎餅、△△かまぼこ、地酒など)を売っている。これではだめです。僕はときどき、ネクタイを買うんです。最近は、オリジナルのネクタイを売っている博物館もちょこちょこ出てきました。弁天町の交通科学博物館に行くと、友好提携をしているイギリスのヨーク国立鉄道博物館のネクタイがあります。新潟県長岡市にある県立歴史博物館には、長岡市で出土する縄文の火焔土器をデザインしたネクタイがあります。まさに、そこでしか買えない宝物ですよ。 |
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地域の個性を前面に |
私が好きな博物館は、基本がしっかりしていて、こだわりがある館です。琵琶湖博物館、徳島県立博物館、大阪市立科学館などは、構想、開設準備に関わり、徳島は初代館長を2年間務めさせてもらいました。ともに自慢できる博物館です。
新しいところでは、大阪・天神橋にある住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)が、いいですね。街並を再現した展示室がありますが、あれは普通の大工さんには造れない家なんです。宮大工さんでもだめ。数奇屋大工と呼ばれる人に依頼して造ってあるんです。しかも、あそこは、見るだけじゃなくて、家の中に入れて、そこで展示やイベントがあるでしょう。学芸員にも建築の専門家がいて、研究報告も定期的に出して、博物館の基礎をきちっと守ってる。ぱっと見て楽しいだけじゃなく、非常にいい博物館だと思いますね。
徳島のお勧めは、県立博物館はもちろんですが、鳴門市のドイツ館はご存知ですか。第一次世界大戦で中国で捕虜になったドイツ人の収容所が日本にたくさんあったのですが、徳島の坂東捕虜収容所の運営が一番うまく行って、捕虜と徳島や鳴門の一般市民との文化交流があったんです。日本で「第九」の演奏を初めてやったのがそこなんです。地域に密着した、それこそ他の場所ではできない展示には、大きな魅力を感じます。
数十年前まで、日本の博物館、特に公立博物館って、どこに行っても展示のパターンは一緒でした。先史時代があって、縄文、弥生と続いて古墳時代があって……と、金太郎飴のようでした。最近、だいぶ個性的になってきたのは嬉しいことです。
特に、名前を見て中身がわかるような博物館がでてきたでしょう。「人と自然の博物館」、「なにわの海の時空館」、「大阪くらしの今昔館」、「福井県立恐竜博物館」。館名が個性化してきたというのは、伝えたいことが明確になってきたということで、おもしろい傾向だと思いますよ。
ベイエリアには本当にたくさんの博物館があります。たくさんすぎて、私もぜんぶ見ていませんが、魅力的な館がたくさんあります。
多くの人が気軽に訪れて楽しんで欲しいし、博物館もよりいっそう楽しんでもらえる場をめざして、頑張って欲しいと思います。 |
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