:実際に取材していても、作品の区別がつかない。当時のスタッフすら、取材時に説明してくれているエピソードが「若大将シリーズ」や「クレージーキャッツ」シリーズの第何作目の話なのか、混乱してしまうんです。

 「用心棒」と「椿三十郎」のスタッフでは、そんなことあり得ません。何十年もたっているのに、主演の三船敏郎がどのような殺陣を披露したか、斬りつけたときの血しぶきを出す仕掛けがどのようなものだったか、ディテールまで記憶しています。それくらいの強い意識を持って撮影に関わっていたということでしょう。

東映は変わり身が早かった理由

しかし、東映は比較的早く次の一手を打って、停滞期からの脱却を図ったように見えます。

:そうですね。時代劇ブームに陰りが見えると、若手が決起して「十三人の刺客」(63年)のような集団時代劇をつくったり。それでもダメなら高倉健さんらが主演した任侠映画で巻き返す。それも落ち目になると、それまで制作し続けた任侠映画の「仁義」を否定した、ヤクザ同士が裏切り合う「仁義なき戦い」を大ヒットさせる。過去の売り物を否定することすら厭わない。

 一つには、当時の東映社長だった岡田茂の姿勢があると思います。彼は時代を読んでいる。変わり身が早く、前進のためには過去の否定さえ辞さないたくましさがあります。

停滞期に、次を狙う意欲があった。

:従来の作風に客が飽きてきた時、「なんとかしよう」という心構えや姿勢が、東映は強いかもしれません。戦後、なかなか日の目を見ず、会社を維持するのに精一杯だった東映には、「とにかく当てる。ヒットさせてなんぼだ」という気概がありました。

 だから60年代には「マル秘シリーズ」のようなポルノまがいの映画も制作して大ヒットさせてます。暴力描写の多い任侠映画路線を確立できたのも、良い意味で脇目も振らずヒット作を狙う社風のおかげでしょう。

その点、東宝は東映のような変わり身の早さがなかったようですね。なぜでしょうか。

:一つには、人材の入れ替えが進まなかったことが挙げられます。東映は若手を次々に起用しましたが、東宝はできなかった。

 当時の藤本真澄プロデューサーは長年、黒澤明や成瀬巳喜男といったベテランを重用して、若手を育てていなかったんですね。起用したくてもいなかったという事情もあります。というのも、50年代の労使闘争後、東宝は採用の間口を狭めてしまった。縁故採用が多く、優等生的雰囲気が漂っていたそうです。もともと都市部のインテリ層をターゲットにしていた東宝の社風でもあったわけですが。

東映は人材の入れ替えに成功したから、時代の変化についていけたのでしょうか。

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