JJサニーちば、真面目さと優しさに溢れ…

2011.05.18

 去年の秋の午後だ。新宿ヒルトンホテル2階のチェッカーズ。打合せ相手が待つ後ろのテーブルで、女性と仕事の話をしながらカレーを食べていたのが千葉真一さんだった。思わず「高平です。ご無沙汰しています」と声をかけた。千葉さんはスプーンとナプキンを置いて立ち上がり誰だっけという表情を残した笑顔で「お元気ですか」と答えてくれた。それにしても昔、CFで夫婦一緒にカレーを食べていた人が、一人でカレーを食べている図は妙に感慨深かった。

 実は千葉さんに会ったのはこれが三度目だ。最初は1984年2月8日、『ムービーマガジン』というミニコミ誌のインタヴューだった。深作欣二監督と同時にデビューした『警視庁物語・不在証明』の話から、まもなく封切る『里見八犬伝』(深作監督)の話はもちろん、さまざまな興味深い話を聞かせてくれた。機械体操に興味を持っていた青年がモデルのアルバイトに味をしめて東映のニューフェイスを受けた話。アクション監督をした『戦国自衛隊』(斎藤光正監督、79年)はクリント・イーストウッド主演の『戦略大作戦』を意識していた話。ジャパン・アクション・クラブ(JAC)を作りアクション役者を育てるうち、役者の養育にはミュージカルが一番だと気付いた話。あっという間の3時間だった。

 同じ年の4月の新宿コマ劇場の楽屋が二回目。初対面で誘われた第3回JACミュージカル『愉快な海賊大冒険』(青井陽二作・千葉真一演出主演)の公演である。JAC気鋭の真田広之、志穂美悦子、黒崎輝の3人に、新しいタイプのミュージカル・スター誕生を感じた。正直な話、二回しか会ってないぼくを覚えていられるわけはない。気軽に「ご無沙汰」と言うそんないい加減な男にきちんと挨拶をしてくれるのが、千葉さんの真面目さと優しさなんだと思う。

 80年代後半から、ぼく自身ミュージカルやショー関係の舞台が多くなるが、脇を固めてくれるダンサーや役者は、ほとんどがJAC出身者か劇団四季の退団者だった。千葉さん自身は90年代半ばにはすでにJACと離れ、JACはJAEと改名し現在も続いている。

 千葉真一の変貌に驚かされたのは、深作欣二監督の『仁義なき戦い・広島死闘編』(東映、73年)の大友勝利役だった。テレビ映画『七色仮面』(60年)や『アラーの使者』等の子供のヒーローで人気が出て、『キーハンター』(68年)で、演技派とは違う世界の大人のヒーローになったアクション・スターが、いきなり無鉄砲なやくざ役をやったのだ。当時、ブルース・リーの『燃えよドラゴン』が大ヒットし、東映は香港製の空手映画の大ブームに乗って、74年から78年に渡って千葉真一に『地獄拳』や『殺人拳』のシリーズをまかせ世界的なヒットをさせる。特に『激突!殺人拳』は『The Street Fighter』のタイトルがつけられ千葉は、Sonny Chibaと命名され映画は大ヒットするのである。79年には『柳生一族の陰謀』(深作欣二監督)の主演で本格的時代劇役者の風格に迫る。

 90年代以降は拠点をロス・アンジェルスに移し、成功してハリウッドに移住したスターのイメージはあったが、国際的な作品にはしばらくご無沙汰していた。それが03年クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』で、沖縄で「すしや」という寿司屋を経営している引退した伝説の殺し屋で刀鍛治の服部半蔵役で、久々にスクリーンに帰って来た。これには、関根勤さんやぼくのような千葉真一好きが拍手喝采を送ったものだ。(演出家・高平哲郎)

 ■JJサニーちば 1939年1月22日福岡県雑餉隈(ざっしょのくま)生まれ。俳優・映画監督・空手家。旧名は千葉真一。本名は前田禎穂。日本体育大学中退。東映第6期ニューフェイス合格。テレビ『七色仮面』でデビュー。国際的にはSonny Chibaの名で知られている。1970年、JAC(ジャパン・アクション・クラブ)設立。映画多数。

 ■高平哲郎(たかひら・てつお) 1947年1月3日、64歳、東京生まれ。一橋大学社会学部を卒業後、広告代理店、編集者を経てフリーに。以後、テレビの構成や芝居・ミュージカルの翻訳演出等を手掛ける。現在「笑っていいとも」「ごきげんよう」に参加。著書に「スタンダップ・コメディの勉強」「今夜は最高な日々」など。

 

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