- 出演者
- 片岡鶴太郎
芸人に始まりボクサー、俳優そして画家へと鮮やかに転身を重ねる片岡鶴太郎さんは東京下町の日暮里で生まれ育った。そして祖父は羽子板の絵師だった。
片岡鶴太郎さんが生まれた荒川区西日暮里へ両親を訪ねた。母 繁子さんの父は戦前から羽子板職人をしていた。羽子板絵師の西山鴻月さんは父親の代から羽子板を作ってきた。歌舞伎の羽子板は下町が発祥。江戸時代に浮世絵師の副業として始まったという。鶴太郎さんの祖父も歌舞伎の羽子板を得意とする職人だった。
- キーワード
- 日暮里(東京)
昭和13年、国家総動員法が制定。下町や子どもたちからも遊びの文化が失われていった。昭和20年には下町一体が米軍の空襲を受けた。片岡鶴太郎さんの祖父は戦争を境に羽子板の仕事を辞めてしまった。そして戦後はお好み焼きを売り歩くようになった
毎年、浅草寺の境内で歳の市が開かれる。片岡鶴太郎さんの祖父が残したという羽子板は埼玉県春日部の京極琴山さんが描いたものだった。昭和35年ごろに浅草の羽子板市に出したという。
片岡鶴太郎さんは祖父について羽子板に対する想いがあったのだろう。続けなかったのか続けられなかったのかと話した。
片岡鶴太郎さんの父 荻野忠雄さんが生まれたのはかつて神田の青物市場があった場所で果物屋の長男として生まれた。江戸時代には神田川の水運を使って野菜が運ばれた。荻野忠雄さんの母親は夫に死に別れ1歳の弟を連れて再婚。6歳の忠雄さんは所沢の農家に預けられることになり母親に捨てられたと思っていたという。江戸時代に川越藩主のもとで開梱が行われた。中でも荻野家の亀ヶ谷村は最も古く4代将軍家綱の時代に開かれた。
戦前の所沢では農閑期の副業として絣が織られていた。荻野家でも女たちが織り片岡鶴太郎の祖父が下絵を描いていたという。
片岡鶴太郎さんは祖父が絵を描いていたことを知り、知らなかった驚いたと話し涙だを流した。
6歳で親を亡くし所沢に預けられた片岡鶴太郎さんの父は所沢の小学校に入学した。都会から来た子どもとして孤立しいじめられたという。孤独な少年を慰めたのは当時人気の芸人たちだった。そして昭和20年、軍事工場に駆り出さていた片岡鶴太郎さんの父は赤紙を受け取ったが戦地に行くことなく終戦となった。
- キーワード
- 所沢市(埼玉)
戦後の所沢には仕事はなく片岡鶴太郎さんの父 忠雄さんは成増の金属加工工場で働いてた。工場の寮で母 繁子さんと出会い結婚。東京都荒川区西日暮里で暮らし始めた。昭和29年に片岡鶴太郎さんが生まれた。 忠雄さんは大好きな寄せや演芸場に片岡鶴太郎さんを連れて通った。
片岡鶴太郎さんの父 忠雄さんは生き別れた母や弟のことを忘れたことはなかった。母と弟はすでに亡くなっていた。弟の妻である荻野美江さんを訪ねた。30年離れていた兄弟は再開したという。
高校を出た片岡鶴太郎さんは声帯模写の片岡鶴八に弟子入りし鶴太郎の名前をもらって芸人として活躍するようになった。1982年 NHK教育テレビ「YOU」の映像。 片岡鶴太郎さんは父親と叔父の2人に夢を背負った。
片岡鶴太郎さんは芸人のまね事をすると両親が喜んでくれる。物心がついてすぐに芸人になりたいと思っていた。しかし父親が芸人に憧れていこは聞いたことはなかったと話した。
取材を通して片岡鶴太郎さんの父 忠雄さんの元に集まった。別れてから会うことのなかった母親の晩年の写真を見て感激したと話した。忠雄さんは地元の老人会の会長で月に1度の定例会を仕切っている。
エンディング映像。
「ファミリーヒストリー 」の番組宣伝。
橋本奈穂子アナウンサーより住所変更手続きのお願い。
- キーワード
- 橋本奈穂子
「浅田真央 被災地への旅 」の番組宣伝。
「地球ドラマチック 」の番組宣伝。
「ザ・プレミアム 京都 ふしぎの宿の物語 」の番組宣伝。