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加藤紘一氏死去 「加藤の乱」で首相退陣迫る

 自民党幹事長、防衛庁長官、官房長官などを歴任した元衆院議員の加藤紘一(かとう・こういち)氏が9日午後0時45分、東京都内の病院で肺炎のため死去した。77歳。鶴岡市出身。葬儀などは未定。
 東大法学部卒。衆院議員だった父精三氏が1965年に死去し、その後、外務省を辞職して72年の衆院選旧山形2区に立候補、初当選した。
 84年の第2次中曽根改造内閣で防衛庁長官として初入閣。91年の宮沢内閣で官房長官を務めた。
 90年代、「反・経世会(旧竹下派)」を旗印に盟友関係を結んだ小泉純一郎、山崎拓両氏と共に「YKK」を結成した。
 党政調会長を経て、95年の総裁選では橋本龍太郎氏を支持し、選出後に幹事長に就任。宏池会のプリンスとして、党内外から「総理に一番近い男」「将来の首相」と呼ばれた。
 98年に宮沢喜一元首相から宏池会を継承し「加藤派」を旗揚げした。99年、自民党総裁選に出馬し小渕恵三首相に挑み、敗北した。
 2000年には当時の森喜朗首相に退陣を迫り、野党提出の内閣不信任案に賛成する構えを見せた「加藤の乱」を起こしたが、党執行部の切り崩しに遭い、失敗に終わった。
 元秘書の脱税疑惑で、02年に自民党を離党し、衆院議員を辞職。翌年の総選挙で、無所属で返り咲いた。
 外務省時代から磨いてきた中国語や、培った人脈を生かして日中友好に尽力し、08年7月から7年間、日中友好協会会長を務めた。
 護憲派、リベラル派として知られ、08年には「終身刑」創設を目指す超党派の議員連盟「量刑制度を考える会」の発足に関わり、初代会長を務めた。
 96年から2年間、河北新報社の「東は未来委員会」委員を務め「環日本海における東北の在り方」などを提言した。
 12年の衆院山形3区で落選し、政界を引退した。当選13回。13年に三女の鮎子氏に地盤を譲った後は体調不良などで公の場にほとんど姿を見せていなかった。


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2016年09月11日日曜日

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