こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【幕府の姿勢を批判した勝】

 

文久三年(1863年)のお話の続きです。

小笠原長行らへの処分があったことを知った日、勝は日記で江戸の重臣らに対し批判の目を向けています。

「江戸にては、…(中略)…必ず奸者あって、これ等を企てしか。東士これ等を察せず、烏合未熟の軽卒を率いて上坂し果たして共謀に乗って、進退窮迫、議論一致せず、自ら術中に陥入りたる者のごとし。その拙さ憐れむべし。」

少し前まで同志的存在であった小笠原が、料簡の狭い重臣らにうまく使われてこのような目に遭ったことに同情の念と哀れさを感じていたのかもしれません。

今回の件で勝が最も問題視したことは、幕府の姿勢です。先に幕府は朝廷に対し攘夷奉承を約束しています。外国と戦うと宣言した幕府が国内の反抗勢力を叩くための兵を運ぶ船をイギリスから借り受けるというのはどう考えても筋が通らない話です

 

この後、江戸に帰った勝は神奈川に住むアメリカ人医師の今回のクーデター事件についての感想を耳にし、外国人にそんな風に思われるのは日本人としてひどく恥ずべきことだと述べています。

その医師曰く、

「天子と将軍の仲はとても良い。今、外国(との交際)を拒絶しようとしている議があるようだ。この国の政府の役人たちが拒絶する相手国の船艦を雇い、兵士を率いて天子(天皇)を圧しようと試みたと聞く」とした上で、こう評したのです。

「このようなことが本当なら、道理はさておくとして政府が外国と親密に接しながら身内の国民には冷たい態度を取るなどというのは米国では考えられないこと。日本人はこれを良しとするのか」。

 

外国に援助をしてもらってでも幕府の権威を高めようとする重臣たちの考え方と姿勢が勝には許せなかったのです。勝は幕臣でありながらも積極的に攘夷激派ともつながりを持ち、互いの立場を超えたところでこの国の未来を切り開こうとしていました。そのためには海軍建設を通じて双方の理解を深め、その議論を一段高いレベルにまで引き上げることが必要だと考えていたのです。その具体的なビジョンとなるのが「一大共有の海局」の建設という海軍構想でした。

外国の脅威にさらされる中、日本人同士が対立し、互いを傷つけ命を奪い合う愚かさに一日でも早く氣づかせ、広く世界に目を向けさせねばならない。これは政府の役割ではないか、そのように思えてならなかったのでしょう。

ところがこの国のかじ取りを任された幕府がやろうとしているのは、諸藩を押さえつけ徳川幕府の安泰を図ることでしかない。外国の力を借りてまで幕威を高めようとする姿勢を勝は厳しく批判しましたその態度はこれ以降の幕末の政局において勝が貫く政治姿勢として堅持されることになります

 

 

【勝が提唱した東アジア三国連合構想】

 

さて大坂城で小笠原らの処分を終えた家茂とその一行は、当初陸路で江戸に戻ることになっていました。ところが家茂と側近は船で帰ることになりました。この時、家茂が乗船する順動丸の指揮を執る任務を命じられたのは勝です。将軍を海路で運ぶことは勝の長年の夢であり、ようやくそれが実現することになったのですから、勝にとって名誉なことであり、嬉しい仕事であったに違いありません。

ですが、そのためにこの少し前に受けた別命は果たせなくなりました。勝は先に「対馬に出張し、朝鮮国の事情を探索し委細を報告せよ」との命を受けていたのです。

 

ではなぜこのような命令が軍艦奉行並の勝に対し下されたのでしょうか。時間を1か月と少し戻します。

この年の4月27日、勝の宿泊先の宿を二人の男が訪ねています。長州藩の桂小五郎と対馬藩の大島友之允(とものじょう)です。

この2年前、ロシアの軍艦が対馬に侵入し退去に応じず、ロシア兵が発砲し島の住民が死亡する事件がありました。対馬藩では大騒ぎとなり、攘夷派は激高しました。対岸にある長州藩にも伝わり、緊張が一気に高まりました。

幕府は対馬藩から助けを求められましたが、問題解決に当たるも手を焼き、結局イギリス軍艦が対馬に向かい、退去を求めることでようやく解決に至ったという経緯がありました。

もともと対馬の宗氏は朝鮮との関係が深く、日本と朝鮮の外交は宗氏を通じて行われていました。こうした経緯から対馬藩はロシアの露骨な進出による脅威への対策を幕府に求めてきました。その相談のために大島は桂と共に軍艦奉行並の勝を訪ねたのでした。

 

 

この時、勝が二人に示したのが日本・朝鮮・中国の三国連合構想です。

「我邦より船艦を出し、広くアジア各国の主に説き、横縦連合共に海軍を盛大にし、学問研究を行わなければ欧米諸国の脅威から遁(のが)れることはできない。まず隣国朝鮮からこれを説き、その後志那に及ぼす」

という遠大な構想です。三国が共に対等に手を結ぶことで欧米諸国に対抗し備えようとする考えです。この勝の考えには朝鮮を侵略する意図は全くありません。そのことは、明治の世にも生きていた晩年の勝が日清戦争に断固反対していることからも明らかです。

 

翌月5月1日、登城(大坂城)した勝は大島と桂に語った考えを提案したところ、周囲は勝の説くことに熱心に耳を傾けていたようです。一方、対馬藩から幕府に建白書が提出されましたが、それは征韓すなわち朝鮮を侵略する意図を色濃く帯びたものでした。

勝が大島との会談の席に長州藩士の桂小五郎に同席させたのは、恐らく長州藩攘夷派をこの構想に取り込もうとする意図があったからでしょう。勝が神戸の地に海軍操練所を建設しようと考えた理由の一つは、京都を中心に活動する攘夷派の志士たちを船に乗せアジアへの航海に連れ出し海軍教育を行う基地とするためでした。

夷狄を撃ち払うことしか頭にない視野の狭い志士らに航海訓練を積ませ、彼らの目を開かせようと考えたのです。攘夷がいかに無謀で不可能なことかを理解させ、欧米諸国の脅威に東アジアの三国が連帯して対抗することを目論んだのです。しかしこの構想は、一つ間違えば征韓論に転換してしまいかねない危うさを内包していました。

 

勝がこのような考えを持つようになったのは、咸臨丸でアメリカ社会を観たことが大きく影響していると考えられます。

 

「国家とは何か」、「政府の役割とは何か」

 

この問いは勝が生涯をかけて取り組むテーマでした。当時としては異例とも言えるほどに国内外の多くの人物と立場を超えて交際し、広い人脈を勝は持ちました。そのため、この頃から勝は「世界の中の日本」という視座からものが見られる独自の存在になりつつありました

 

さて本日はここまでといたしましょう。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「勝海舟と幕末明治」 松浦 玲 講談社

・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社