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「長野県における近代産婆の確立過程の研究」

湯本 敦子
信州大学大学院人文科学研究科
地域文化専攻

last update: 20151223


       長野県における近代産婆の確立過程の研究


               平成11年度



          信州大学大学院人文科学研究科
           地 域 文 化 専 攻

            湯  本  敦  子  


              目   次

序 章 研究の視点と論文の構成  ――――――――――――――   1 
 第1節  本研究の動機と目的――――――――――――――――――  1
 第2節  本論文の構成―――――――――――――――――――――  2
 第3節  先行研究と問題の所在―――――――――――――――――― 3
 第4節  「近代産婆」の意味するもの――――――――――――――― 5
第1章 近代日本における産婆制度の成立   ――――――――――  8 
 第1節  前近代における産科学の発展と取上婆――――――――――  8
 第2節  近代日本における産婆に対する法的制度―――――――――― 15
      1.医制―――――――――――――――――――――――― 15
      2.産婆規則、産婆試験規則、産婆名簿登録規則―――――― 17
      3.私立産婆学校産婆養成所指定規則――――――――――  19
      4.その後の改正―――――――――――――――――――― 20
 第3節  近代産婆教育の始まり―――――――――――――――――  21
第2章 長野県における近代産婆制度の成立   ―――――――― 29 
 第1節  産婆規則に至る長野県の法的整備――――――――――――― 29
      1.鑑札下附―――――――――――――――――――――  29
      2.産婆営業規則―――――――――――――――――――  32
      3.産婆取締規則、産婆試験規則、産婆試験受験人心得――  33
      4.産婆規則制定後――――――――――――――――――  34
 第2節  産婆数の推移と新・旧産婆の交代――――――――――――― 35
 第3節  長野県下における産婆養成―――――――――――――――  40
      1.信濃衛生会成立以前における産婆――――――――――― 40
      2.信濃衛生会の産婆・看護婦養成 ――――――――――― 44
        1)信濃衛生会の目的と事業 ―――――――――――――― 45
       2)信濃衛生会の産婆・看護婦養成の始まり―――――――― 46
       3)信濃衛生会における産婆養成の推移―――――――――  47
 第4節  長野県産婆試験――――――――――――――――――――― 50
      1.産婆規則以前―――――――――――――――――――  51
      2.産婆規則以降―――――――――――――――――――  51
第3章 長野県における近代産婆の確立    ―――――――――  54 
 第1節  1900年代前半における母子保健状況 ―――――――――――  54
      1.統計からみた母子保健状況 ―――――――――――――  54
      2.1920年代の出産状況――――――――――――――――  57
 第2節  巡回産婆の成立と普及―――――――――――――――――― 61
      1.町婦人会による独自な開業産婆の設置−上伊那郡高遠町― 63
      2.郡連合衛生会・日赤村分区の共同事業による巡回産婆設置
         −東筑摩郡新村―――――――――――――――――― 66
      3.県告示に基づく巡回産婆設置−東筑摩郡今井村  ――― 69
      4.その他の援助主体による巡回産婆事業――――――――― 72
      5.巡回産婆の事業内容――――――――――――――――  73
 第3節  『妊産婦台帳』に見る出産の実態と巡回産婆の活動――――  78
終 章 本論文のまとめと残された課題   ――――――――――― 84 
 第1節  長野県における近代産婆の確立過程―――――――――――― 84
 第2節  近代産婆の地域に果たした役割―――――――――――――  89
 第3節  今後の研究課題――――――――――――――――――――― 90
謝辞

表一覧
資料
引用文献・参考文献


 


序章 研究の視点と論文の構成


第1節 本研究の動機と目的

 助産婦の職務ほど、戦後の短い期間において、その在り方や業務形態が大きくかわったものは少ないのではないかといわれる(註1)。助産婦は日本近代史の中で、かつて「産婆」と呼ばれ、女性の専門職としては早くから認められた。彼女たちは自己の責任において出産の介助や妊産褥婦の継続的なケアを行い、その地域に根付いた活動を展開してきた。しかし敗戦後、「産婆」から「助産婦」となり、特に1950年代半ばから急激に進んだ出産の施設化に伴って、助産婦たちの活動の場は医療施設へと移り、地域での助産婦の存在は希薄となった。施設内においても、出産は医師主導のもとで管理化が進み、助産婦が自分たちの独自性を発揮できずにジレンマを感じ、助産婦としての在り方を模索しているのが現状である。
 一体、助産婦という職業はどうあったらいいのか。その答の一つの糸口として、産婆の歴史がどういうものであったのかを探りたい、自分の生まれた地域の産婆たちの活動はどうであったのかを知りたい、これがこの研究に着手した動機である。
 助産婦に関する研究は、“出産”の在りようや変化の研究の中で、それに密接に深くかかわる存在を明らかにするものとして重要な位置を占めてきた。出産は個人の生活の中にある現象というばかりでなく、社会現象としても捉えられる。特に近・現代史においては、産婆は国家の近代化政策、人口政策と密接に関係し、国−地域−人々を結ぶ媒体として考えられたのである。地域の歴史を研究する上において、その地域の産婆の歴史は、地域の近代化を測る一つのパラメーターであり、人々の生活の変化をよくあらわすことのできる側面をもつ。
 長野県下の産婆の歴史については今までほとんど取り上げられてこなかったといってよい。産育習俗に関する民俗学的な記述や、産婆への聞き取り調査がわずかに行われているに過ぎず、まだ研究に手付かずな部分が多い。長野県下において、新しい近代の産婆はどのように誕生し育ったか、どんな人が志願し、どんな教育を受け、どんな活動を展開したのか。長野県における近代産婆の歴史を繙きながら、産婆が地域や人々にとってどんな役割を果たしたのかを明らかにしていくことが本論文の目的である。

註1  大林道子『助産婦の戦後』勁草書房、1989年



第2節 本論文の構成

 第1章では長野県下における近代産婆の成立について論ずるに先立って、日本における近代産婆制度の成立について、先行研究を参考にしてまとめる。まず第1節において近代産婆がつくられる背景となった江戸中期からの産科学の発展と、それに伴う医師からの旧産婆−取上婆への批判について述べる。第2節では1874年(明治7)の近代日本の医療制度の濫觴といわれる「医制」と、1899年(明治 32)の全国統一の「産婆規則」を中心に、近代日本における産婆の法的な整備について概観する。そして第3節において産婆規則の制定と、日本のその後の産婆教育に大きな影響を及ぼした浜田玄達と緒方正清の言論を中心に、日本の近代産婆教育の始まりについて述べる。
 第2章では長野県において近代産婆制度が成立した時期を考察する。第1節では「医制」以降「産婆規則」までの長野県の産婆に関する制度について、長野県立歴史館等にて入手し得た資料から明らかにする。第2節に統計資料から長野県の産婆数の推移を見、旧産婆と新産婆とが交代していくようすを検討する。長野県下における組織的な産婆養成は、日露戦争後発足した信濃衛生会によるものが最初であり、これによって県下の産婆数は漸増していく。第3節では信濃衛生会の産婆養成についてとりあげ、長野県下の産婆試験について第4節で述べる。
 第3章では第一次世界大戦のしばらく後に始まる、巡回産婆の成立と普及を中心に論じる。この時期は、母子保健を担う専門家として近代産婆が県下に広まり定着する時期とみることができる。まず第1節に、1900年代前半の母子保健の指標となる出生、死産、乳児死亡、妊産婦死亡の動向と出産の状況について検討し、第2節では巡回産婆の成立のプロセスについて、上伊那郡高遠町、東筑摩郡新村、東筑摩郡今井村の3つの事例を取り上げる。そして第3節において旧今井村役場史料に残る『妊産婦台帳』の記録を分析し、巡回産婆の具体的な活動と出産の実態について明らかにする。



第3節 先行研究と問題の所在

 産婆についての歴史学的な研究は、決して多いとは言えない。そのなかで、緒方正清の『日本産科学史』(註1)の中に「日本産婆制度論」がある。『日本産科学史』は日本における古代より近代大正期までの産科の歴史を網羅している。取り上げられた人物、文献の多さと詳しい記述は圧巻であり、参考になるところが大きい。「日本産婆制度論」は、1911年ドイツ万国衛生博覧会を期にその主催者から日本の看護法および産婆制度の調査を緒方が嘱託され、起草されたものである。ここには産婆の名義や関連法規、文献が紹介され、また1914年(大正3)、1917年(大正6)における全国の産婆養成施設、産婆数、産婆組合組織が明らかにされている。また台湾および朝鮮における産婆制度についても紹介されている。また、山下猛による『日本助産婦史』(註2)には、敗戦後の保健婦助産婦看護婦法までの助産婦の変遷の概略が述べられている。厚生省医務局から出版されている『医制百年史』(註3)には、我が国の産婆制度や母子保健事業について通史的に説明されている。また、村上信彦は『明治女性史』(註4)で、明治期の女性の職業のひとつとして産婆をとりあげ、産婆の職業化について論じた。
 現代における出産の変化は、1980年代から1990年代にかけて盛んに取りざたされるようになる。産婆については歴史学的に正面から取り上げられるより、出産の変化の中で一緒に論じられることが多かった。出産の変化とは、出産場所の家庭から医療施設への変化、坐産から仰臥位産への出産の姿勢の変化、そして産婆から医師への出産介助者の変化にほとんどが集約されている。
 ジャーナリストの藤田真一が全国各地での取材をもとに、「赤ちゃん誕生の<無事>がどういう人によってどのように守られているのか」、「日本人がどんなふうに産まれてきたのか、それが今はどのように変わったのかを、一人の男の目」から見て書いた『お産革命』(註5)では、トリアゲバアサンから新産婆への変化を「第一次お産革命」、産婆から医師への変化を「第二次お産革命」と呼んだ。これは後の研究に影響を及ぼしている。その後、社会学の立場、文化人類学の立場から出産の近代化が盛んに論じられるようになった(註6)。さらに1990年代では産婆への聞き書きをもとにしたライフヒストリーの叙述が多くなり、社会の中の出産や産婆の位置づけが行なわれている(註7)。そのなかで西川麦子による『ある近代産婆の物語 能登・竹島みいの語りより』(註8)は、著者が一人の近代産婆に長期にわたって係わり、その聞き取りおよび産婆自身の書いた助産記録や、記憶を掘り起こして集成された著書である。異常分娩の記述などから具体的な助産技術、地域での活動や人々の産婆の受容と出産に対する考え方の変化、産婆の社会的意義や地位などについて分析している。こうして近年では、近代の産婆に光が当てられるようになり、具体的な姿が徐々に明らかになりつつある。
 しかし、各都道府県における産婆の歴史的変遷についてまとめられたものは未だ非常に少ない。各地方行政に任されていた産婆規則以前の産婆制度の成立から、産婆の教育、試験の実施や産婆の地域への普及の過程は、それぞれの地域事情に応じてなされていくものであり、その格差も大きかったと思われる。しかし、その実体はほとんど明らかにされていない。青木秀虎による『大阪市産婆團體史』は、1888年(明治21)に結成された大阪産婆会の沿革や業績のみでなく、明治期の制度的背景の解明も網羅し、体系的に書かれている(註9)。新潟県の助産婦(産婆)の歴史は『新潟県助産婦看護婦保健婦史』に、資料をもとにしてかなり詳しくまとめられている(註10)。その他には滋賀県における明治期の産婆規則の報告(註11)がある。長野県については産婆について系統的にまとめられたものはまだない。通史や市町村史および医師会史の中にわずかな記述が見られるのみである。また、前述の『お産革命』やライフヒストリーの中に長野県の産婆への聞き取り例が数例見られる。近年盛んになってきた「産」にまつわる研究領域ではあるが、近代日本が成立し変化していく過程において、それぞれの地域社会における近代産婆の存在意義が問われねばならないであろう。

註1 緒方正清『日本産科學史』丸善、1919年.石原力解題、科学書院、1980年.
 2 山下猛『日本助産婦史』社団法人大阪府社団法人、1951年.
 3 『医制百年史』厚生省医務局、1976年.
 4 村上信彦『明治女性史』中巻後編 女の職業、理論社、1971年.
 5 藤田真一『お産革命』朝日新聞社、1979年.
 6 吉村典子『お産と出会う』勁草書房、1985年.
   吉村典子『子供を産む』岩波新書、1992年.
   松岡悦子『出産の文化人類学』海鳴社、1985年.1991年改訂.
   船橋恵子『赤ちゃんを産むということ 社会学からのこころみ』NHKブックス、1994年.
   などがある。
 7 宮坂靖子「ある産婆の生活史」、『人間文化研究年報』第13巻、お茶の水女子大学人間文化研究科、1989年.
   落合恵美子「ある産婆の日本近代 ライフヒストリーから社会史へ」、『生・産・家族の比較社会史 制度としての<女>』平凡社、1990年.
   長谷川博子「「病院化」以前のお産ー熊野での聞き取り調査よりー」、『思想』824号、1992年.
   草野篤子・宮坂靖子「戦前期の産婆とお産ーNのライフヒストリーをもと にー」、『家族研究論叢』2号、奈良女子大学生活環境学部生活文化学研究室(家族研究部門)、1996年.
などがある。
 8 西川麦子『ある近代産婆の物語 能登・竹島みいの語りより』桂書房、1997年.
 9 青木秀虎『大阪市産婆團體史』大阪市産婆会、1935年.
 10 蒲原宏『新潟県助産婦看護婦保健婦史』新潟県助産婦看護婦保健婦史刊行委員会、1967年.
 11  宇佐美英機『明治期の産婆規則ー滋賀県の事例ー』、「社会科学」45号、1990年.


第4節 「近代産婆」の意味するもの

 助産を行うものに対する名称は古来より様々であった。「産婆」は中国より伝来した言葉である(註1)。日本においては江戸中期より産科書に登場する(第1章第1節参照)。一方、各地方には産婆を意味する方言があるが、全国共通の言葉は「取上婆ートリアゲババ」が一般的であった(註2)。
 明治維新以降、勅令や政府の法律上では、1868年(明治元)12月24日に出された太政官布達に「産婆」が使用された。その後、医療制度上では「産婆」が使用されている。しかし旧刑法においては「穏婆」が用いられていた。1908年(明治41)の刑法において「産婆」となり、以来第二次世界大戦下まで、すべての制度上で「産婆」の名称が使われている。1942年(昭和17)、国民医療法において「助産婦」が使用され、1947年(昭和22)には産婆規則が助産婦規則に改められた。
 近代における新しい産婆は、その資格において多重な構造を持っている。1899年(明治32)の産婆規則以前は、各地方管轄によって産婆規制が行われていたが、新しい産婆は、内務省に具申して免許を受ける「内務省免許」産婆と、府県の試験を受け府県内のみで営業できる「県免許」産婆があった。新潟県のように、これらを「甲種」「乙種」に区別していたところもある。同時に、以前より開業していた産婆がその履歴によって開業を許された「仮免許」(もしくは「鑑札」「履歴」「従来開業」)産婆と、産婆のいない僻地に限って営業を認められた「限地開業」産婆が同時に存在した。
 産婆規則以降は、すべて試験に合格し、登録される新産婆となったが、1910年(明治43)の改正によって、内務省の「指定学校卒業」により無試験で免許を得るものと、「試験合格」産婆の2種類が存在する。この時期にも、「従来開業」と「限地開業」産婆は存在し続けている。
 第二次世界大戦後、1948年(昭和23)の保健婦助産婦看護婦法(保助看法)において、「助産婦」は国家資格となった。助産婦は、看護婦国家試験合格の者、または看護学校卒業者で、助産婦国家試験に合格し、厚生省より免許を受けたものと規定された。なお、旧令による助産婦登録者も、厚生省免許を受け、そのまま業務を続けることができる。
 近代になって登録された新しい産婆は、統計上では「旧産婆」に対して「新産婆」とされることが多く、また住民の間では「西洋産婆」などと呼ばれることもあった。
 「近代産婆」とは、西川(前述)が用いた言葉である。この「近代産婆」に込めた意味を西川は次のように説明している(註3)。

  二〇世紀の初めに日本全国で登場し長年にわたって地域社会の中で活動してきた産婆についての話である。私はそれをここで「近代産婆」と呼ぶ。
  「近代産婆」という言葉には、日本の近代化の歴史の中に姿を現わす産婆という意味を込めた。国家は、地域社会に従来から存在していた助産職を規制し、新たな規定のもとで「近代産婆」に作り替え地域社会に送り込んだ。「近代産婆」とは、産婆としての学校教育を受け、西洋医学を修得し、産婆試験に合格した「免状」を持った新しい産婆のことであり、昭和三〇年代まで日本の出産の多くを扱ってきた。

 前近代にあって、既に地域に助産専門者として認識された存在ではあった取上婆は、近代産科学の発展に伴い、その無知、無教養を理由として批判を受けていた。これに対し、「近代産婆」は、日本の近代医療政策によって、西洋医学に基づいた産婆教育を受けた後、定められた制度に則って試験を受け、合格し、登録され、行政から産婆としての許可を受けた産婆である。すなわち、日本の近代化の中で育成され、登場してきた新しい産婆を意味している。
 この意味づけにおいて、本稿でも「近代産婆」の概念を使用し、長野県下における「近代産婆」の確立過程を考察する。

註1 緒方正清『日本産科學史』(前掲書)、1704頁
 2 國本恵吉『産育史 お産と子育ての歴史』盛岡タイムス社、1996年.263-267頁
 3 西川麦子『ある近代産婆の物語 能登・竹島みいの語りより』(前掲書)
   4-5頁


 


第1章 近代日本における産婆制度の成立



第1節 前近代における産科学の発展と取上婆

 出産の介助あるいは出産の世話をするということは、もともと人々の生活の中で相互扶助によって行われた自然発生的、経験的なものであった。この出産介助の仕事を専門に行うものが出て、次第に職業化してくるのは江戸時代からといわれている。江戸川柳に次のような句がある(註1)。

  子がもりそふでばアさんを呼に遣り(柳多留50篇・15丁)
  さらわれるよふな目にあふ取揚ばゞ(宝暦10年・義3枚目)

 出産が切迫し、あわてて取上婆を呼びに行き、取上婆は引っさらうようにして連れていかれるという情景である。

  取りあげばゞ慥かこゝだと起こされる(錦江 明和3年・松2枚目)

 取り上げ婆の家はその目印として産綱を看板にしていた。しかし江戸の夜は今でも想像つかぬほど暗かったから取上婆の家を探すのも一苦労だった。

  先供を婆が割って静かなり(天明2年・鶴2枚目)
  大名を胴切りにする子安婆(柳多留36篇・12丁)

 取上婆は大名行列の先頭に立つ供の者の鼻先を割って通っても、大名行列が続いているところをその途中に割り込んでもよかった。他の庶民なら無礼討ちにあっても文句を言えないところを、取上婆なら仕方がないと供の者は何もいわず静かにしていたし、何のお咎めもない様子を詠った句である。すなわち江戸時代において、取上婆は周囲の者からそれが取上婆だと直ぐ認識されることができる存在となっていたことを示しており、取上婆は人の命にかかわる仕事をしている者との認識からであろうか、大名行列を横切っても何の咎めも受けないという特権があった。
 松本藩の史料「南御門・東御門・北御門 御番所書付 覚」(註2)にも次の記述がある。

  一 町医者夜ハ参候先ヨリ断次第早速可通之事
     附、取上姥罷通候ハヾ、札改不限昼夜可通之事

 取上婆は医者と同様、昼夜分かたず御門の通行を許可されている。このように「取上婆」は、各地において地域社会の中で出産の介助をするものとして認識され、特別扱いもされていたのである。
 しかし、江戸中期からの産科学の発展に伴い、特別の教養もなく、教育・訓練も受けず、ただ経験のみに頼って出産介助を行う取上婆たちに対して、医師たちからの批判が大きくなってくる。ここで江戸期の産科学と取上婆について、先行文献よりまとめておく。
 緒方正清(1864-1919)はその著書『日本産科學史』(註3)で、江戸期を3期に分けて産科学の変遷を記述した。1615年(元和元)より1715年(正徳5)に至る100年を前期、1716年(享保元)より1788年(天明8)に至る約70年を中期とし、1789年(寛政元)より1867年(慶応4)の約80年を後期としている。
 江戸初期より中期までは、織豊政権期に中條帯刀により興った中條流産科学がまだ盛んであった。『中條流産科全書』は1668年(寛文8)、当初秘本として出されたが、1763年(宝暦元)訂補し刊行された。薬物療法を主とし、所謂中條流の口伝秘授による薬餌により治療を行うものであった。出産に関しては、大黄などの下剤、吐剤を処方し陣痛や腹圧を促進させたり、横位や足位の場合には塗り薬を用い、死産となったときは腐り薬で治療する。横位両手脱出の時は産婦を仰臥位として腹部を緊張させ、腰部や心窩部に腹帯を巻き胎児を圧出するといったものであった。脈診によって陣痛の強弱をも推察し、分娩の経過を予測するといった「猶児戯に類する境を脱せざりし」(緒方『日本産科学史』73頁)ものであった。また、臀位の分娩の際には、向いに繩を付け中腰を折って、前に取上婆の巧者なものを居えて療治するようにと書かれており、分娩に立ち会い出産を介助する者として「とりあげ婆」という存在があり、その術に長けた者と医師との協力によって出産が行われる場合があったことを示している。これはわが国の産科書のなかで「とりあげ婆」という名称が記された最も古い記録とされている。
 中條流はやがて堕胎の秘法として使用されるようになる。わが国の堕胎は平安時代、『今昔物語集』の中にも見られ、その後も各時代にあったが、特に江戸時代に入って最も盛んになった(註4)。元禄、宝永の頃には堕胎術が公然の秘密となり、産科医および取上婆の手によって行われた。彼等は皆中條流に属するものであったために中條流は産科医と取上婆の代名詞、さらに堕胎の代名詞となった。取上婆は一方で出産の介助をし、一方で堕胎も行っていたのである。
 中條流に代わって出てきた代表的な産科書として、稻生正治(1606〜1678)による『螽斯草』(1690年<元禄3>)、および香月牛山(1656〜1740)の『婦人寿草』(1692年<元禄5>)があげられる。江戸時代の考え方に最も大きな影響を与えたのは儒教であり、それまでに伝えられた中国医学と儒教的思想とが混然となって、多くの医書が書かれるようになった(註5)。
 『螽斯草』は胎教、保養、臨産、産後、治療、祈祷および通論の7章からなっている。わが国における胎教の始まりは、その方法として「目に邪色を見ずとは、五色正しきをのみ見て、様々たくみに染成したる色をば見ず。色に限らず、何にても正しからぬものを見ず。人も行儀よくを見て、不作法なるをば見ず。草紙を讀むとも、言葉も、繪もみだりなる事なからんをゑらみて讀むべし。大和小学鏡草など云ふ本よかるべし。源氏物語の類は必ず讀むべからず。」「耳に淫声を聞かずとは世上の戯れたる聲正しからぬ物語り、或は目くら女のひきもの、其外好色の人の噂など、一圓に聞く可らず。」「口に傲言を出さずとは、人に驕り、人を侮るやうなる言葉かりそめにも云ひ出さぬなり」などとあり、儒教的な色彩が濃い胎教であった。
 『婦人寿草』は『明治前医学史』(註6)で「広く中国医書を参酌してこれを引用したもので、能く我が国とも調和して医俗両用に理解し易からしめ」たもので、「元・明医学の妊産に対する医療の智識を窺い、又我が邦当時の産事習俗を知る便に供する」書物と評価された。中條流と違い、薬方を記載することはなく、求嗣の説、受胎の説、交媾の法、胎教の法、産前の治方、臨産、難産、産後の諸病などに分かれ、詳細に分かりやすく書かれた医学書でもあり、また養生書でもあった。しかし、胎盤が娩出されないときは、夫の単衣で井戸の上を覆えばたちどころに娩出されると云った類の記述もまだまだ多かった。この中に、難産の場合には「上手の医師を迎え、老練の収婆に託すべし」とあり、難産の際には医師とともに熟練した収婆(産婆)が呼ばれ、分娩に立ち会っていることがわかる。一方臨産の説では「穏婆をえらぶは、性質しづかにして、己が情識をたてず、ものに騒動せざるを招くべし、あまり歳老いたるは気力よはく、少しの難産に逢ても退屈して眠りを生じ、其事をあやぶみ、産婦にも気づかいなる色をみせ、病家にも気をおとすたぐいのことをいふによって、初産の婦などは心臆して気穏やかならず、正産も難産に変ずるたぐいおおし、収婆の多くは酒をたしなみ、気力強剛なる者なり。(略)収婆を選ぶは医を選ぶに等しかるべし。世の収生の者精良妙手ある事少なし。故に多くいのちをうしなふに至ると陳自明の説に見えたれば、中華すら上手の収婆は稀なりいわんや倭国をや。能々心を付けて選ぶべきことなり」と教えた。当時産婆の個人の能力や性質には幅があった。前述のような熟練の者は少なく、むしろ正常産を異常にさせてしまうような産婆も少なくなかった事が示されている。
 日本において産科学が、従来のような薬方、霊符、禁呪、鍼刺、擦塩などの因習的な治療法を脱出し、手術的方向に発展し、産科学として独立していくようになるのは、江戸中期になってからである。中期より後期にかけて、賀川流が広く流行するようになる。その始祖賀川玄悦(1700〜1777)は江州彦根の人で、7歳の時母方の実家賀川氏を継いだ。家業の農業をなすことを好まず、やや長ずるに及び京都に出て、按摩・鍼灸の術を行いつつ古医法を学んだ。その後一日、近くに住む婦人が難産のためにほとんど死にそうであったのに呼ばれて一診し、考え抜いた結果、提灯の鉄鉤を使って胎児を碎いてこれを分娩させ、その婦人の命を救うことができた。このことから助産術には薬のほかにどうしても手術が不可欠のものであると確信するに至った。その後さらに詳しく研究を行い、多年の観察・経験にもとづく独自の見解を得た。その結果を『産論』(1765年<明和2>)四巻として発表した。1768年には阿波徳島藩の医官に招かれた(註7)。
 『産論』では、妊娠継続は初妊婦で満300日、経産婦で275日とし、今までほとんど論じられることがなかった悪阻をとりあげ、それが 45日から50日続き、悪寒発熱、頭痛口渇、酸っぱい果実を欲しがるなど症状についても詳細に述べている。また骨盤の外形から骨盤の広狭大小、男女の差違を論じている。玄悦の最も大きな功績のひとつは、正常妊娠の胎位は頭位であること(下首上臀説)を論じたことにあった。古来より、妊娠中の胎児は頭が上にあり、出生の時になって下に転身するというのが世界的な定説であったが、胎児は妊娠中より頭が下に位置することを唱えたのである。これは後年シーボルトによってドイツの学術雑誌に紹介された。また玄悦は古来より比較的上流社会に行われていた、出産後直ちに窮屈な椅子に座って身体の自由を束縛する産椅や腹帯の習慣を批判し、これを排斥した。賀川流のもう一つの功績は賀川家の秘法として伝えられる回生術があげられる。難産や胎盤娩出が遅れるときに、鉄製の鈎を用いて、胎児や胎盤を引き裂いて娩出させ、母体の救命を図るものであった。これは現在の鉗子分娩術の始まりといえるものである。しかしこの回生術はその危険さ、困難さ、残酷さから、玄悦は書物に著そうとしなかった。
 その後賀川流では母子ともに救うことのできる術の開発が悲願とされ、研究が繰り返された。玄悦によって始められた賀川流はその門下生によってさらに発展していく。
 また、玄悦の養子であり、後継者であった賀川玄迪(1739-1779)による『産論翼』(1775年)の「懐孕図」には、正産・倒産・横産の胎児の胎位と娩出の様子、双胎の胎位など身体の内部が描かれている。
 江戸中期のこの賀川流の登場によって、日本において、実証的、科学的な近代産科学がはじまったとされる。治療は薬物療法が中心で呪術的だったものが、手術による治療が始まり、また身体内部が写実的に明らかにされていく。医師たちは自らの学説を重視するようになり、それまで主な助産者であった産婆に対する批判も厳しくなっていった。
 賀川の門下の一人山邊文伯は1768年(明和5)、『産育編』を著し、妊娠分娩の生理的機能を詳解し、「分娩は天地自然の理に従ふこと、恰も瓜の熟して蔕落すると同じく、又栗の實の殻を破るが如し。」と出産の自然論を主張した。また、「乃ち田野の人は産帯を用ひず、整体の術をも施さず。又穏婆なくして自然に安産するに反し。都會の人は産帯を用ひ、穏婆の手を籍りて整胎の術を施す等。皆自然に反するが故に難産を来すものなり。」「難産の原因は、自然に反するにあり。而して其難産を發生するは、収生(産婆)の猥りに慌悵を加へ、或は其治法を知らず。」と、何の教育もなくみだりに整胎などの術を行う穏婆(産婆)の弊害について述べている。1777年(安永6)、賀川玄悦の門下佐々井茂庵によって書かれた『産科養草』では、産室の設備や分娩の自然説、産後の摂生に対する心得を述べられている。穏婆については、「唯穢れ不浄の世話し、臍帯を世話するもの」とし、穏婆の不功者のために起こる会陰裂傷や産後の食忌について論じ、当時の弊習を批判している。
 また江戸中期から一般の妊婦向けの書物も出始めた。『保産道志類邊』別名『母子草』が、1781年(天明元)、児島尚善によって著された。これは我が国の産育習俗形成に大きな影響を及ぼした産育養生書とされる。「懐妊は生の基とかや。保護のよろしきと、よろしからざるとによりて、生まれ出る児に強き弱きの差別あれば、長寿短折も、既に懐妊の保護によりて、其わかれさだまるといはんも、過論にはあらじ。もとより母のやむとやまざるは、懐妊の保護によるなり、尤おそるべし。豈ゆるがせにすべけんや」と、母性保護思想を明確に記した点が特記される(註8)。
 緒方清正が産科学の発展を美術にたとえ、江戸中期賀川玄悦によって「完成したる平面美」は後期に入り「立体美」を構築していくと表現したように、研究がさらに進められていく。賀川流はその門下によって伝授、改良されていくが、中には蛭田東翁(1745-1817)のように賀川流に学んだのち、早くから母児双方の救命を唱え、独自に器械を使わず主に手指を使った施術を開発し、賀川流から分かれ、蛭田流として後に引き継いだものもいる(註9)。
 賀川流の回生術は改良され、賀川欄斎(1771-1833)は探頷器を発明し、1811年皇子降誕の時これを使用し、その功を奏した。又手指を応用して娩出する方法を考え出した。奥劣斎(1771-1835)が鉄鈎に代わって手指を用いて安全に母子を救うことのできる「雙全術」として詳細に注釈し公にした。
 解剖図もより詳細なものになった。賀川南龍(1781-1838)は『南陽舘一家』(1838年)に、生殖器の解剖的構造を詳述している。また水原三折は蛭田流を引き継ぎ、賀川欄斎・奥劣斎の発明をさらに進め、初めて母児双方の救命を事実上可能にしたとされる。『醇生庵産育全書』(1849年)にはその手術方法が詳しく図解されている。また、伊古田純道による帝王切開術(1852年)、華岡青洲による乳癌手術などの産科・外科的手術が行われるようになっていった。
 なお、「産婆」の文字が産科書に初めて登場するのは、1809年頃、賀川有斎『産術論』坐草の巻がはじめとされる(註10)。
 産婆に対する批判が強くなる一方で、産婆向けの啓蒙書が医師により執筆されるようになる。我が国最初の助産書と云われる『坐婆必研』(1830年、一名『とりあげ婆心得草』)が平野重誠(1790ー1867)によって著された。その序文には「まして坐婆のたぐいは死生に係わる一大事を任として容易ならざる業なるを。人に賤侮る事そのゆえいかにと云ふに。みなその術に拙く志篤からずして自らこれをとれるものなり。もとより生命に関する職なればその設心の善と悪とによりて。日に福慶をも積、また罪悪をも重るものにて。」と、産婆に責任を自覚させ、貴重な人命を救助するためにはその天職を全うすること、その天職を全うしようとすれば欲少なく廉潔なる精神を滋養し、職務に忠実であるようにと説いている。
 以上のように、江戸期において産婆は既に半職業化し、地域住民には助産専門の者として認識されていた。ある特権も持っていたが、江戸中期からは、医師たちから、教養・知識もなく、その技術の拙さや古い習慣を教え込む者として厳しく批判を受けるようになっていた。後期には産婆に対する啓蒙書も書かれていった。

註1  小野眞孝著『新潮選書 江戸の町医者』新潮社、1997年.
 2  『松本市史歴史編 近世部門 調査報告書第3集−松本藩の史料−』松    本市史近世部門編集委員会、1996年.
 3  緒方正清『日本産科學史』丸善、1919年.石原力解題、科学書院、1970    年.
 4  石原力「助産婦の歴史(2)」ペリネイタルケア第2巻第1号.1983年    77-83頁.
 5  國本恵吉『産育史−お産と子育ての歴史』盛岡タイムス社、1996年.
 6  日本学士院編『明治前医学史』第四巻、増訂復刻版、1978年.
 7  『大人名辞典 2』平凡社、1953年.
 8  註5に同じ。
 9  西川勢津子『お産の知恵 伝えておきたい女の暮らし』講談社、1992年  10  註3、1704頁.
第2節 近代日本における産婆に対する法的制度

 江戸時代において、既に職業化していた産婆業であったが、その知識、技術は発展しつつあった近代産科学とは極めて離れたところにあり、中には堕胎を専門とするようなものまであった。これに対し、近代的な医療制度樹立をめざす明治政府は、1868年(明治元)12月24日、次の太政官布達を出した。

  第千百三十八 十二月二十四日(布)(行政官)
  近来産婆之者共賣藥之世話又ハ堕胎之取扱等致シ候有之由相聞ヘ以之外之事  ニ候元来産婆ハ人之生命ニモ相拘不容易職業ニ付假令衆人之頼ヲ受無余儀次  第有之候共決シテ右等之取扱致間敷筈ニ候以来萬一右様之所業於有之ハ御取  糺之上叱度御咎可有之候間為心得兼テ相達候事
(『明治年間 法令全書』第一巻、内閣官報局編)

 これは産婆の売薬の世話と堕胎を禁止したものであるが、産婆に「自覚を促した」にすぎないものであった。次の1874年(明治7)の医制が制度として産婆について規制された初めてのものといってよい。

1.医制
 「わが国の総合的衛生制度の濫觴」といわれる医制は、1874年東京、京都、大阪の3府に発布された。当時、衛生行政は文部省医務課の管轄であった。医制は初代医務局長相良知安がまとめていた85カ条よりなる衛生制度編成の大綱「醫制略則」を参考に、二代目医務局長長与専斉が検討を進め、全国府県管内の医師および薬舗の状況を調査に基づき成案したものといわれる(註1)。
 発布の前年1873年の12月27日文部省から太政官に対し、「従来医術ノ儀ハ古昔ヨリ一定ノ法制無之、其弊習深ク人心ニ浸淫シ一時ニ収拾難致」と思われるため、「先ツ三府ニ於テ医俗ノ事情ヲ斟酌シ逐次施行」し、「徐々着手致シ、各地方ハ其官員ニ委ネ便利ノ処分為申出其折ヲ以テ規則ニ照シ逐次施行」した方がよい旨を添え、医制案と共に上申した。これに対し、太政官より何の沙汰もなかったために、翌1874年3月2日に文部省は太政官に対し医制を至急決裁ありたい旨、伺いを立てた。これに対し、太政官の左院では審議の結果同月7日、正院に対し先ず三府(東京、京都、大阪)において医俗の事情を斟酌して医制を徐々に施行すれば別段の支障がない旨を上陳した。同月12日太政官より文部省に対し、「上申ノ趣先以三府ニ醫俗ノ事情篤ト斟酌ノ上、實際障碍無之様徐々着手可致、其他各地方ノ儀ハ當分可見合事」との指令が出され、医制が1874年8月18日東京に、ついで9月に京都、大阪の2府に発布されたのである。
 医制は76カ条よりなり、内容は衛生行政全般にわたり医学教育までに及ぶが、次の4点が主眼となっている。第一に文部省統括の下に衛生行政機構を整え、第二に西洋医学に基づく医学教育を確立し、第三にこうして築かれた医学教育の上に医師開業免許制度を樹立し、第四に近代的薬剤師制度および薬事制度を確立し、衛生行政に確固たる基礎を築くことにあった。
 このうち産婆に関する記述は次の3カ条である。

  第五十条 産婆ハ四十歳以上ニシテ婦人小児ノ解剖生理及ヒ病理ノ大意ニ通      シ所就ノ産科醫ヨリ出ス所ノ實験證書 産科醫ノ眼前ニテ平産十人        難産二人ヲ取扱ヒタルモノ ヲ所持スル者ヲ檢シ免状ヲ與フ
 (當分)從来開業ノ産婆ハ其履歴ヲ質シテ假免状ヲ授ク
     但シ産婆ノ謝料モ第四十一条ニ同シ
 (醫制發行後凡十年ノ間)ニ産婆營業ヲ請フ者ハ産科醫 或ハ内 外科醫ヨリ 出ス所ノ實験證書(本条ニ同シ)ヲ檢シテ免状ヲ授ク 若シ一小地方ニ於テ産婆ノ業ヲ營ム者ナキ時ハ實験證書ヲ所持 セサル者ト雖モ醫務取締ノ見計ヲ以テ假免状ヲ授クルコトアル ヘシ
  第五十一条 産婆ハ産科醫或ハ内外科醫ノ差圖ヲ受ルニ非サレハ妄ニ手ヲ下       スヘカラス然レトモ事實急迫ニシテ醫ヲ請フノ暇ナキ時ハ躬ラ之ヲ行フコトアルヘシ
       但シ産科器械ヲ用フルヲ禁ス且ツ此時ハ第四十九條ノ規則ニ從ヒ其産婆ヨリ醫務取締ニ届クヘシ
  第五十二条 産婆ハ方藥ヲ與フルヲ許サス
             (『医制百年史 資料編』厚生省医務局、1976年)

 産婆は一定以上の年齢(40歳以上)と、一定以上の知識と技術(婦人小児の解剖生理に通じ、医師の眼前で平産10人難産2人を取り上げている)を持っていること、免状による資格を持つ者であること、そして緊急の場合以外は医師の指図を受けずにみだりに手を下してはならないこと、産科器械の使用や方薬を禁ずることが、基本方針としてはじめて示されたのである。40歳という規定は、ほとんどの取上婆たちは高齢であったという実状によって定められたものであると指摘されている(註2)。前述のように、医制はそのまま実施されたわけではなく地方官の管轄に委ねられ、各地方では各地の事情に応じて徐々に規則が作られていった。

2.産婆規則、産婆試験規則、産婆名簿登録規則
 医制以後、なかなか全国統一的な規則はできなかった。1890年11月21日、内務記録局から内務省衛生局に宛て免許産婆の試験、開業免許状授与について内規を求めたのに対し、衛生局は次のように回答している(註3)。

  内務省衛生局回答
  免許産婆試験等の儀に付第四三五号を以て御照会之趣了承、産婆に関しては当省に於て未だ定められたる規則等無之、地方官より其の取締等を設け、免状の下附を乞はんとし、前以て方法程度を具し伺出でたるものあるときは其の時々調査を遂げ、不都合無之に於ては許可の指令を與へ置きて、試験の上其の成績を察し候節 合格之者に免状を交附し来り、其の外、簡易の試験を遂げ地方限り開業差許候向も有之、右者取扱振に付別段写取御回付に及ぶべき書類御座なく候此段及御回答候也

 その後、地方官に委ねられていた産婆に関する規制は医制から25年を経て、1899年(明治32)7月19日、勅令345号産婆規則によって、ようやく全国統一的な法規として定められた。<資料1>
 産婆規則による近代における産婆の資格、要件は次のようなものである。
 まず、産婆業を営む者は産婆試験に合格した20歳以上の女子であり、産婆名簿に登録を受けた者でなければならないこと(第1条)、産婆試験を受けるためには1年以上の学術を修業した者であることが条件とされた(第3条)。産婆試験は地方長官が挙行し(第2条)、産婆名簿は地方長官によって管理される(第4条)。産婆の業務内容の規定としては、妊・産・褥婦または胎児・新生児に異常を認めるときは医師の診察を受けさせること(第7条)、産婆が妊・産・褥婦、胎児、新生児に対し外科手術を行うことや産科器械を使用すること、投薬をすることまたはその指示を出すことが禁じられている。但し、消毒を行うこと、臍帯を切ること、浣腸を施すことはこの限りではない(第8条)。また、産婆名簿に登録されない者に、妊・産・褥婦または胎児、新生児の取扱を任せてはいけない(第9条)。その他に3年以上営業を行わない場合は地方長官は産婆名簿からその産婆ををとりけすことができること(第14条)、産婆名簿の登録を受けずに、あるいは登録を取り消されるか産婆業を禁止または停止されている場合に産婆業を行った時は50円の罰金刑となっている(第16条)。そして附則として従来開業のもので各地方の免状や鑑札を受けている者は(試験は受けずとも)6カ月以内に登録すること(第18条)、産婆に乏しい地域に限ってその履歴だけでも産婆業を免許することがあること(第19条)という経過措置も取られている。
 引き続いて、1899年9月6日産婆試験規則(内務省令第47号)と産婆名簿登録規則(内務省令第48号)が定められた。<資料2><資料3>
 産婆試験規則では、産婆試験は学説と実地試験を行うこと(第2条)、学説試験に合格しなければ実地試験を受験できないこと(第3条)、学説試験のみ合格し実地試験に落第した者は次回以降の試験にて実地試験のみを受ければよいこと(第4条)、産婆試験受験希望者は産婆学校、産婆養成所の卒業証書もしくは産婆または医師2名の証明のある修学履歴書を添えて地方長官に願出ること(第5条)、産婆試験合格者には合格証書が交付されること(第7条)などが示された。また、産婆試験手数料は1円であった(第6条)。
 産婆名簿登録規則には産婆名簿の様式と手続き上に関する条項が示された。
 さらに1901年(明治34)6月4日に内務省訓令第8号にて産婆試験委員設置規程が設けられた。これには産婆試験委員長1人、産婆試験委員若干名を地方長官が選任し、任期は4年であることが記されている。<資料4>
3.私立産婆学校産婆養成所指定規則
 1910年(明治43)、産婆規則が次のように改正された。

  勅令218号
  産婆規則中左ノ通改正ス
  第一條 産婆タラントスル者ハ二十年以上ノ女子ニシテ左ノ資格ヲ有シ産婆     名簿ニ登録ヲ受クルコトヲ要ス
     一 産婆試験ニ合格シタル者
     二 内務大臣ノ指定シタル學校ハ講習所ヲ卒業シタル者
  第四條第二項中「合格證書」ノ下ニ「又ハ卒業證書」ヲ加フ
  第九條ノ二 産婆ハ自ラ檢案セスシテ死産證書又ハ死胎檢案書ヲ交付スルコ     トヲ得ス
  第十六條第五號中「第九條」ヲ「第九條ノ二」ニ改ム
(『明治年間 法令全書』第四十三巻ノ三 明治四十三年、内閣官報局編)

 1899年の産婆規則ではすべての産婆は産婆試験合格が要件とされたが、これによって内務大臣指定校の卒業者には無試験で産婆資格が与えられることとなった。また、死胎の検案をせずに死産証書を出すことができなくなり、実際には産婆は死胎の検案をしていたとは考えられず、実質的には死産証書は医師によってのみ交付されることになった。
 第一条の改正に伴って、1912年(明治45)6月18日内務省令第9号により私立産婆学校産婆講習所指定規則が制定された。<資料5>
 指定要件として、第二条に次の6項目が挙げられている。
 @生徒の定員に対し相当な教授用建物、器具、器械および妊婦を入院させられる産室があること
 A入学資格は高等小学校卒業若しくは高等女学校2年以上の課程を修業しているか、それと同等以上の学力を有すること
 B修業年限は学説、実習を通じて2年以上であること
 C主要な学科は1年以上主として産科に従事した医師が担当すること
 D生徒1人について在学中5回異常の臨産実験ができる成算があり、そのうち3回以上は入院妊婦であること
 E以上の項目に適し、1年以上経過したもの
 以上の6項目に該当し、その管理、維持の方法が確実で成績良好と認められる機関がが指定を受けられる条件であった。また学則所定の授業時間の3分の1以上欠席した学生は進級もしくは卒業が許されない(第5条)。学期末あるいは卒業試験日程は地方長官に届出され、地方長官は官吏を派遣し、試験に立ち会わせることもあり得た(第6,7条)。指定の条件はかなり厳しく、西洋医学に基づく本格的な近代産婆の教育が行われた。
 1914年における全国の産婆学校および養成所は127校あった(註2)。このうち内務省令指定規則による指定校は、東京帝國大學醫科大學附屬産婆講習所、京都帝國大學醫科大學附屬産婆講習所、九州帝國大學醫科大學附屬産婆講習所、緒方助産婦教育所、京都産婆學校、京都府醫學専門學校附屬産婆教習所、財団法人私立岡山縣衛生會産婆看護婦學校、新潟醫學専門學校産婆養成所、東京産婆講習所の9校である。指定学校の卒業者は近代産婆のエリートともいってよいであろう。

4.その後の改正
 その後産婆規則第1条は、1917年(大正6)勅令第12号により、さらに次の条項が加えられた。

  勅令第七十二號
  産婆規則中左ノ通改正ス
  第一條ニ左ノ一號ヲ加フ
 三 外國ノ學校若ハ講習所ヲ卒業シ又ハ外國ニ於テ産婆免許ヲ得タル者ニ   シテ内務大臣ノ適當ト認メタル者
  第四條中「又ハ卒業證書」ヲ「卒業證書又ハ免許證」ニ改ム
      (『大正年間 法令全書』第六巻ノ二 大正六年、内閣官報局編)

 1933年(昭和8)にはさらに次のように改正された。

  勅令第百六十八號
  産婆規則中左ノ通改正ス
  第一條中第三號ヲ第四號トシ第二號ノ次ニ左ノ一號ヲ加フ
 三 朝鮮、臺灣又ハ關東州ノ産婆試験ニ合格シタル者ニシテ内務大臣ノ適當ト認メタル者
(『昭和年間 法令全書』第七巻ノ二 昭和八年、内閣官報局編)

 以上のように、近代産婆には、(1)内務省指定学校を卒業した者、(2)地方長官の産婆試験に合格した者、(3)朝鮮、台湾、関東州の産婆試験に合格し内務大臣の承認を得た者、(4)外国における學校又は講習所卒業者又は免許取得者の4種類が存在することとなった。一方に、鑑札あるいは仮免許だけが与えられていた従来開業の産婆、産婆の乏しい地域における限地開業の者がおり、産婆規則制定以降も産婆の多重な構造となっていた。

註1 『医制百年史 記述編』厚生省医務局、1976.11-12頁の記述による。
『図説医療文化史』では長与自身の草案としてよいとの見方もある。
 2 村上信彦『明治女性史 中巻後編 女の職業』理論社、1971年.55頁.
 3 山下猛編『日本助産婦史』社団法人大阪府助産婦会、1951年.31頁.
 4 緒方正清著『日本産科學史』(前掲書)


第3節 近代産婆教育の始まり

 1874年の医制発布以降、我が国の産婆教育は東京、大阪、京都の三府を中心に開始された。京都府では1875年(明治8)、京都府知事により京都産婆会が組織され、毎月1回市内小学校において産婆学の講習を開設した。これが、我が国の産婆講習の嚆矢とされる(註1)。
 京都においては、これより前の1873年(明治6)2月に、京都における初めての解剖が行われ、同年12月には産婆を業とする者に解剖の見学を許可している事が注目される(註2)。
 大阪府は1875年4月、産婆営業の者に府立病院で産科の教習を受けるべき事を命じた(註3)。翌1876年(明治9)3月、大阪大学医学部の前身、大阪府病院において産婆学の講義が始められ、同年10月、産婆学を卒業した175人に対し、我が国初の産婆営業鑑札が付与された(註4)。
 東京府においては、1876年(明治9)9月、東京府病院内に産婆教授所を設け、新たに産婆を養成するのみならず、既に開業している者にも再教育を施し、また、産婆営業には必ず認可を必要とする旨布達している(註5)。新潟県でも1876年9月、県布達により従来開業の旧産婆に対して西洋医学に基づく新しい助産学の補習講義を新潟病院で開始することとなった(註6)。聴講心得書によると、「此講義ハ産科ノ大要ヲ口授シ、産婆ヲシテ勉メテ諳記セシムルモノ」であり、毎月5、10の日の6回、午前7時30分より8時30分まで開講であった。毎月末に試験をし、終科の際には大試問を行い、合格の者に開業許状を出した。
 このように我が国の産婆教育の始まりは、行政側の主導により、旧産婆への再教育と新しい産婆の養成とが並行して進められていった。
 これに対し、滋賀県日野地方では、1884年(明治17)10月、産婆養成の必要を感じ、有志者が義捐金を集め滋賀県に申請し、同庁の紹介に依り彦根町速水たけを教師に聘して講習会を開き、旧来の産婆10名に学理を教え、1885年(明治18)12月3名の内務省免許産婆を出している。地域の主体的活動の中から産婆の智識・技術を問うという動きが生じていることは見逃せない。特に都市部でなく郡町村部で講習会開催が実施され始めていることが注目される(註7)。
 三府を中心に始められた新産婆の養成は各地に広がっていく。前述した『日本産科學史』に緒方正清が報告している1914年(大正3)の調査による産婆養成施設は、1道3府33県において、合計127校である(表1)。うち、公立は16校のみで、ほとんどが私立である。また設立年月日を見ると、三重県の温故堂産科学校の1877年(明治10)が最も早い設立であり、1880年(明治13)東京産婆学校が続いている。しかし日清戦争以前1893年までの設立は9校に過ぎず、日清戦争終結から2年後の1897年以降1901年までに増加し、その後日露戦争から2年後1907年以降にさらに増加している。1894年から1903年までに32校、1904年から1914年までに85校が設立されている。
 表2には1914年における内務省令指定規則による産婆養成施設9校を示した。

表1  1914(大正3)における全国産婆養成数                 
│   │施設数│公立│私立│   │施設数│公立│私立│   │施設数│公立│私立│
│東京府│5  │  │5 │愛知 │5   │1 │4  │広島 │6  │1 │5 │
│京都府│2  │  │2 │静岡 │5   │  │5  │山口 │2  │1 │1 │
│大阪府│4  │  │4 │山梨 │1   │1 │  │和歌山│1  │  │1 │
│神奈川│1  │  │1 │岐阜 │2   │  │2  │愛媛 │6  │1 │5 │
│兵庫 │6  │2 │4 │長野 │1   │  │1  │高知 │1  │  │1 │
│長崎 │5  │  │5 │宮城 │1   │  │1  │大分 │1  │1 │  │
│新潟 │7  │1 │6 │福島 │7   │  │7  │熊本 │4  │  │4 │
│埼玉 │3  │  │3 │岩手 │2   │  │2  │宮崎 │1  │  │1 │
│千葉 │2  │  │2 │山形 │4   │1 │3  │鹿児島│2  │  │2 │
│茨城 │1  │  │1 │石川 │2   │  │2  │沖縄 │2  │1 │1 │
│栃木 │9  │1 │8 │富山 │2   │  │2  │北海道│6  │1 │5 │
│奈良 │1  │1 │  │島根 │2   │  │2  │   │   │  │  │
│三重 │13  │1 │12 │岡山 │2   │  │2  │計  │127 │16 │111│
                      緒方正清『日本産科學史』より作成

表2 内務省令指定規則による産婆学校(1914年12月現在)        
│         学 校 名         │ 種 類│ 指定年月日  │
│ 東京帝國大學醫科大學附属産婆講習科     │ 官立 │ 1912.8.7│
│ 東京帝國大學醫科大學附属産婆講習所     │ 官立 │ 1912.8.7│
│ 東京帝國大學醫科大學附属産婆講習所     │ 官立 │ 1913.4.7│
│ 緒方助産婦教育所              │ 私立 │ 1913.9.12│
│ 京都産婆學校                │ 私立 │ 1913.9.12│
│ 京都府醫學専門學校附属産婆教習所      │ 公立 │ 1913.9.12│
│ 財團法人私立岡山縣衛生會産婆看護婦學校   │ 私立 │ 1913.10.23│
│ 新潟醫學専門學校産婆養成所         │ 官立 │ 1914.8.1│
│ 東京産婆講習所               │ 私立 │ 1914.10.15│
                      緒方正清『日本産科學史』より作成

 日本の新しい近代の産婆教育に、最も影響を及ぼし貢献したのが浜田玄達と緒方正清の二人である。浜田は1884年ドイツに留学、1888年帰国し、帰国後東京帝国医科大学教授に迎えられた。留学中ドイツの進んだ助産婦活動を目の当たりにした彼は、日本においても正常産に専念し異常になれば直ぐ医師にバトンタッチできる産婆の養成を痛感していた(註8)。そして産婆の教育に関し、1890年5月に政府に対して次の建白書を送った(註9)。

  (前略)世に称する旧産婆なるものは姑く措きて問はず、彼の定期の試験を経て斯業に從事する謂ゆる新産婆たるものも、又眞に産床の取扱法を知り、且つ之を実行するもの殆ど之なく、漫に高尚の学理を唱へ、猥に不当の手術を企て、為に胎児を殺し、産婦を危きに陥らしむる者蓋し尠からず、不肖熟々今の産婆養成法を実施するに、その方針を誤るもの一にして足らず、或は産婆に必要なる産事の実地取扱法を授けずして、却て之に無用なる過当高尚の医理を講ずるものあり、或は産科医と産婆の差別を混同し、産婆に教ふるに産科学を以てするものあり(中略)夫れ常産は天なり、病に非ず、故に医治を要せず、泰西近世の統計に據るに、医の手術を要すべきものは百人中僅かに五人に過ぎずして、自餘の九十五人は自然に経過し了するものなりといふ。
 而してその自然に経過する常産といへども、その処置一朝宜しきを得ずして、或は為すべき事を為さず、又為すべからざるを為さんか、忽ち母児に害を及ぼすものなり、然れども、常産に臨みて其の為すべき処置を為さゞる者は、其の害尚は未だ大ならずと雖も、若し之れに為すべからざる事を為すときは、常産をして、忽ち変産に陥らしめ、小にしては他日の病原を醸し、中には母児の一を殺し、大にしては其の二を殺すに至る、豈に寒心せざる可けんや。云々。又曰く、夫れ変産は病なり、天に非ざるなり、故に必ず医治を要す、然れども其の常と変とを鑑別すること医と良産婆とにあらざれば能はず、而して其の変産に臨みて、医治を施すに又一定の時機あり、決して早きに失すべからず、又晩きに失せんか、母児共に危し、故に良医は必ず其の機の至るを待つ、其の機至らんか、実に瞬時も躊躇すべからざるなり、而して其の機を察する事、良医と雖も時に或は難しとす、況んや産婆に於ておや、之故に産婆の業は常産に臨みて応分の処置を為し、能く産婦の挙動に注目し、之れをして危害を招くが如き事物を避けしめ、僅かに異常を認むる時は、其の何たるを問はず、速に医を迎へ、其の指揮を受くべきものにして、決して変産に與るべきものに非ざるなり。
 然るに我邦産婆の多数は即ち然らず、或常産に臨み、自然の経過を待たずして猥りに為すべからざることを為し、故に母児を危からしめ、或は変産に臨みて、速に医を迎ふるが如き、宜しく為すべき事を為さず、茫然手を束ねて之れを自然に任せ、胎児既に死し産婆又危きに迫り始めて狼狽医に告ぐるものあり、是れ畢竟、産婆に教ふるに産科の事を云々するが故に、手僅かにその事を知って、而して之れを施する時機を察するの明なく、以て前者の誤を来すなり。之れに教ゆるに専ら理論を以てするが故に、口僅かにその理を説くことを知って、而して尚ほ常産を弁ずるの誠なし、是れ後者の不足ある所以なり、是故に産婆養成の法は則ち実地を専らにして、理論を避け、産科適手術の如きは、努めてこれを教へざるを以て策の得たるものとす。欧州に於ては皆此の趣意を以て之れを養成するが故に、其の修業の期限の如きも、亦た甚だ短く、多くは四、五月にしてその業を卒へ、長きも一年に満たずして、決して我邦におけるが如き長時日を要するものにあらざるなり、噫我邦の産婆は今や将に其の弊に陥らんとす。今にして而して之れを救うの策を講ぜずんば、他日惨禍の益々甚だしきを如何にせん。而して今の時に当たり、其の路に当る者は、則ち我大学をおきて外に望む所なし。云々。

 浜田は1890年12月から、東京帝国医科大学附属産婆養成所で、建白書にあるような、理論に偏らず実地を専らにした教育によって、正常産の専門家として時に応じた処置をなし、よく産婦の挙動に注意し、異常を防ぎ、異常が認められる時は時機を逸せず直ちに医師を呼び、その指揮を受けることのできる実践的な産婆の養成に着手した。
 緒方正清(1864ー1919)は讃岐生まれで、1887年東京大学医学部別科を卒業し、翌年ドイツに赴きさらにフランス、イタリアの諸大学にも学び、1892年帰国した(註10)。
 彼は帰国後、大阪緒方病院産婦人科長となり、1892年10月緒方助産婦教育所を設立した。ついで1896年6月産婆改良に関し内務省衛生局長に意見を開陳し、同時に「助産の栞」を発刊し、助産婦学会を起こし、卒後教育にも努めた。
 彼は「日本産婆制度論」のなかで産婆について次のように語っている(註11)。

現時本邦産婆の状況を案ずるに、尚未だ慨嘆に堪へざるものあり、彼れ文盲の老婆が屈腰倚杖の頽躯を以て、重大なる産婦を取扱ふが如き、其の危險實に吾人をして肌膚を寒からしむるものあり。今にして之が奨勵の道を講じ其發達を遂ぐるにあらざれば、如何に醫學の進歩を促すと雖も、國民の利益とす可き、母児の救助は到底其目的を達する能はざる可し。國を富まし兵を強くするの基礎は、民生を重ずるにあり。國民の強弱は、嬰児の健否如何に關係し嬰児の健否は、夙に母體内に於ける状態に基因す。而して斯の如き重任を負ふもの、即ち産婆に非らずして何ぞや、産婆たるものゝ責任亦大なりと云ふべし。

 新産婆のうち内務省免許の産婆の養成は東京、大阪、京都などを中心として養成されていく。一方各地方では、地方毎に新産婆の養成を行っていく。まだ地方における産婆の歴史研究はほとんど進んでいない状態であり、実体を明らかにすることができないが、内務省免許者と県免許者の格差、各県における格差、各学校における格差が大きかったことが推測される。
 新潟県(註12)では、1879年(明治12)より、新潟医学校において区内の産婆に補習講義を行っていたが、1880年新潟医学校校長として赴任した山崎元脩の新産婆養成機関設置の要望によって、県会にはかり、1881年より新潟医学校に産婆教場を開設した。
 山崎は新潟県西蒲原郡の生まれで、同村の医師で母の実家山崎玄益の後を継いだ。初め漢方医学を学んだが、西洋医学の必要性を感じ、1871年東京医学校に入り、 1876年卒業して準医学士となった。のち済生学舎の副会長となった。著書も多く、自ら翻訳した『朱氏(シュルチェ)産婆論』を新潟医学校産婆教場の教科書として使用している。
 産婆教場取締には東京府病院産婆養成所卒業で、区内の産婆に補習講義を行っていた河野貞が着任した。生徒は「年令凡二十年以上三十五年以下ニシテ品行方正体格強壮通常仮名文ヲ読得入校中家事ノ係累ナキモノニ限」り、卒業年限は1年半であった(新潟県治報知乙号第七十九号、明治13年11月1日)。卒業試験の成績を内務省に具申し同省の開業免許を得、さらに同校の卒業証書を与えることとなっていた。
 1885年(明治18)、県立新潟医学校附属産婆教場は「県立甲種新潟医学校附属産婆学校」と改称し、修業期間は1年半、生徒の年齢は18年6カ月以上と引き下げられた。教育内容は産婆教場と大差はなかったが、一般教養科目がより重視された。
 その後1887年の勅令により、府県立医学校の費用は1888年以降地方税を以て支弁することを禁止され、新潟医学校が1888年3月31日をもって廃校になった。それと同時に県立新潟医学校附属産婆学校も廃止された。しかし、新潟医学校附属産婆教場第1回卒業生の笹川みすがこれを引き継いで、「新潟私立産婆養成所」を設立した。その養成教育期間は、内務省免許を得ようとするもの、すなわち甲種免許取得は1年半、県免許すなわち乙種免許は8カ月で、甲種免許の半分である。教育内容についての記述はないが、1888年(明治21)に発令された新潟県独自の産婆試験規則では、内務省免許を得ようとする者に対しては、予備論、平常妊娠論、順産論、産褥及哺乳論、妊娠経過中の異常論、分娩経過中の異常論、産褥及哺乳期の障害、産婆心得の8科目について筆記試験を行うのに対し、県免状の者には産婆手引草の大意と産婆心得についての口頭試験のみである。このことから、乙種免許者に対する教育はかなり緩やかなものであり、甲種免許者と乙種免許者には格段の差があったことが伺われる。ただし、甲種産婆において学術の内容は後の全国統一の産婆試験規則に遜色のないものであるが、筆答試験のみで実地についての試験が欠けていたことが指摘されている。このことは1892年、『大日本私立衛生会新潟県支会雑誌』に「偶産婆学科ノ試験成績ニ依テ開業免状ヲ得タルモノアリト雖ドモ是又浅近ノ修学ニスギサル」もので、「経験少キ為メ嬰児取扱ノ順序ヲ失シ又ハ手荒ノ取扱ヲ為シ、為メニ発育上ニ至大ノ関係ヲ来スコトアリ」とか「産婦ニ対シ高尚ニ過グルノ傾キアルヲ以テ、民間ノ希望ニ適セザルモノアリ」と評価されることにつながったと思われる。しかし、西洋医学に基づく教育を受けた近代産婆が、その知識をもとに経験を積み、地域において実績を上げるようになると、次第に人々の中に新しい近代の産婆として認識されていくようになるのである。

註1  北村笑子他「京都における助産婦(産婆)教育の始まり」看護教育第30    巻第3号、1989年。150-153頁 
 2  註1に同じ
 3  岡本喜代子「助産婦活動の歴史的意義ー明治時代を中心にー」助産婦     雑誌第35巻第8号、1981.
 4  田間惠實子他「最古の助産婦教育機関大阪大学医学部附属助産婦学校の    閉校」助産婦雑誌第51巻第11号、1997年.73-78頁
 5  『医制百年史』(前掲書)
 6  蒲原宏『新潟県助産婦看護婦保健婦史』新潟県助産婦看護婦保健婦史刊行委員会、1967年。22-24頁
 7  宇佐美英機「明治期の産婆規則ー滋賀県の事例ー」社会科学第45号、     1990年.1-43頁
 8  註3に同じ
 9  山下猛編『日本助産婦史』(前掲書)、32-35頁
 10  『大人名辞典 1』平凡社、1953年.
 11  緒方正清『日本産科學史』(前掲書)
 12  蒲原宏『新潟県助産婦看護婦保健婦史』新潟県助産婦看護婦保健婦史刊行委員会、1967年.


 


第2章 長野県における近代産婆制度の成立


第1節 産婆規則に至る長野県の法的整備

 この節では、1899年の産婆規則に至るまでの長野県における産婆規制について述べる。長野県は1878年、衛生に関する業をなす者に対し鑑札を与えることによって営業を許可制とするが、これはそれまでの営業履歴と技術をそのまま認めただけの段階であった。1884年に出された産婆営業規則が長野県独自の産婆に対する規則のはじめといってよい。ここでは産婆営業の要件として修学の履歴と口答試験を導入している。さらに1897年に産婆取締規則、産婆試験規則、産婆試験受験人心得によって内容を整備し、産婆の管理統制を行った。

1.鑑札下附
 長野県は、1878年(明治11)1月28日に次の乙号布達で産婆に関する最初の規定を出した(註1)。

乙第九号
今般詮議ノ次第有之医師薬舗整骨産婆針治灸治歯抜右従来営業ノ者ヘ鑑札相渡候条来ル三月二十日限リ別紙手続ニ倣ヒ可願出此旨布達候事
 但シ本文日限ヲ過キ願出候者ハ従来開業ノ者ト雖モ新規開業者ト同一試験 ヲ受ケ候儀ト可相心得事
    明治十一年一月二十八日    長野県権令 楢 崎 寛 直
  【別紙】手続
第一条 願書雛形
私儀従来 医師薬舗産婆整骨針治灸治歯抜 営業罷在候処乙第何号御布達之通鑑札御附下相成度履歴書相添此段奉願候也
 年 月 日           第何大区何小区町村何番地住寄留
族籍      誰     印
用掛      誰     印
戸長      誰     印
 長 官 宛
前書願出ニ付奥印仕候也
大何大区々長
誰     印
第二条 履歴雛形
                  第何大区何小区町村何番地住寄留
族籍      誰     印
                           何年何月
一 何年何月ヨリ何年何月マテ何府縣何國郡町村誰ニ従ヒ医術薬品取扱整骨産   科針治灸治歯抜修業
一 何年何月ヨリ何年何月マテ何府縣何國郡町村何番地ニ於テ開業
 右之通相違無御座候也
 年 月 日                誰       印
第三条
一 願書ハ二月二十五日迄ニ小区役所ニ差出シ扱所ニ於テハ之ヲ取纏限三月  十日迄ニ大区会所ニ差出シ大区会ニ於テハ三月三十日迄ニ縣廳ニ差出ス  ヘシ
   但右営業者無之区ハ其旨届出ツへシ
第四条
一 鑑札ヲ願フ者ハ医師薬舗ハ五拾銭整骨以下ハ三拾銭手数料ヲ納ムヘシ
   但盗難火難紛失或ハ移轉等ニテ書換ヲ願出ルモノハ医師薬舗ハ貳拾銭   整骨以下ハ拾銭ヲ納ムへシ

 これによって、従来より産婆を営んでいた者は県長官宛に願書を提出し、鑑札手数料30銭を支払うのみで鑑札を受け、営業をそのまま続けることができた。
 この布達に対し、佐久郡八幡村に開業していた北村まつは雛形に倣い、次のように鑑札下附を願い出ている(註2)。

  私義従来産婆営業罷在候處乙第九号御布達之通鑑札御下附相成度履歴書相添  此段奉願候也
                北第七大区小区 八幡村八番地住
   明治十一年二月廿五日       平民  北 村 ま つ
                    用掛  工藤九郎右衛門
                    副戸長 依 田 源四郎
  長野県権令 楢崎寛直殿

 この願出により実際にいつ、どんな鑑札が本人の手元に届いたかについては資料がない。
 この時点で一体県下で何人くらいの産婆が鑑札下附を願い出たのだろうか。次の資料よりおよそを知ることができる。
 1881年4月に南安曇郡役所は各戸長、衛生委員に次の達をだし、県からの要請によって、鑑札交付を受けた産婆および薬舗数を調査するよう通達した(註3)。

  乙第三十九号
戸 長 役 場
衛 生 委 員
  調査之都合有之ニ付薬舗産婆之現在数取調至急可差出旨本縣ヨリ達越候条前記  之雛形ニ倣イ本月□迄ニ有無共取調可□此旨相達候事
明治十四年四月十二日       南 安 曇 郡 役 所 
  薬舗現在人員表        明治十四年一月調
  鑑札番号 │  許可年月 │  住所 │ 年齢 │  姓名       
       │      │     │    │           
   産婆現在人員表                   
  鑑札番号 │  許可月日 │  住所 │ 年齢 │  姓名       
       │      │     │    │           
  右之通相違無之候也
衛 生 委 員
戸    長

 長野県における産婆数を知ることのできる最も古い統計は1881年(明治14)長野県管内医師獣医及産婆統計表である(註4)。その統計表は上記のような各郡からの調査によって作成されたものと思われるが、これによると長野県の産婆数はわずか83人であった(表3)。
 表3 長野県管内産婆数(自明治14年至同年12月)           
│ 南佐久郡│ 8│ 上伊那郡 │ 9│ 南安曇郡 │記載ナシ│ 上高井郡 │ 1│ 
│ 北佐久郡│ 13│ 下伊那郡 │ 12│ 北安曇郡 │ 1│ 下高井郡 │ 1│ 
│ 小県郡 │ 10│ 東筑摩郡 │ 7│ 更級郡  │ 2│ 上水内郡 │ 5│ 
│ 諏訪郡 │ 4│ 西筑摩郡 │ 4│ 埴科郡  │ 4│ 下水内郡 │ 2│ 
            長野県管内医師獣医及産婆統計表(上田市医師会史)より作成
 南安曇郡に上記の布達が残されていながら、この統計表に同郡のみ産婆数が記載されていない。返答が県に提出されなかったのか理由は不明である。
 1880年(明治13)には長野県に衛生課が設置されて衛生事務を担当した。各町村には選挙によって衛生委員が置かれるようになった。県・町村の衛生行政が緒につき、産婆を含む医療関係者等も行政によって把握されるようになっていった。1883年(明治16)からは『長野県統計書』によって産婆数を知ることができる(次節参照)。

2.産婆営業規則
 医師、薬舗、整骨、産婆、針治、灸治、歯抜に対する鑑札下附のあと、医師については1883年(明治16)医業取締規則が制定され(註5)、産婆については 1884年(明治17)4月14日に産婆営業規則が制定された。<資料6>
 産婆の資格や職務の内容、また試験に関しても規定され、産婆営業試験願、産婆営業願の書式が示されている。
 第一条によって、長野県の産婆は「本県免状」および「鑑札」を持つことが必要となった。この条項は同年7月1日に「内務省免状又ハ本県ノ免状及ビ鑑札ヲ受ケタル者ニアラザレバ管内ニオイテ営業スルヲ得ズ」と改正された。つまり産婆の資格には、「内務省免状」を持つ者か、「本県免状」および「鑑札」を持つ者の2種類が存在することとなった。第二条では業務内容に触れ、『医制』(1874年)51、52条による内容(第1章第2節参照)と同様、薬剤の投与もしくは指示と難産時における医師の監督下以外の手術の実施を禁じている。また、死産届け書の作成が産婆の職務として規定されている(第三条)。
 第四、五条は産婆営業志願者への試験に関する条項である。志願者の条件は年齢満20歳以上の女子で、修学履歴書を添えて願書を提出する。しかし履歴には『医制』における「産科医の眼前にて平産十人難産二人」といった修学場所や内容に関する規定はない。第四条の但し書きに公私学校卒業者は試験を免除される旨が書かれているが、公私学校とは、県内にまだ産婆学校は存在せず、県外の産婆学校を意味していると思われる。試験は、骨盤の構造、妊娠の鑑識法、妊娠の経過、妊娠中の摂生法、胎児の位置およびその鑑別、順産(正常産)、不順産(異常産)、新生児の処置、産褥の摂生法の各節目について2、3問の口頭試験である。県立医学校附属病院において、院長または副長によって命じられた試験委員によって、衛生課員1名臨席のもとに行われることになっている。さらに第六条では、「産婆営業者ノ乏シキ地方」で「自然其技術ニ習熟セシ者」いわゆる限地開業者への無試験による鑑札附与を認めている。その他雛形に倣った看板を掲げること(第九条)、この規則に違反した者には業務停止或いは禁止があり得ること(第十条)が盛り込まれた。
 産婆営業規則は、1880年に組織された地方衛生会によって審議され決定された。地方衛生会は県長官(県令)の監督下に管内の公衆衛生、獣畜衛生に関する事項を審議し、県長官の諮問にこたえる機関であり、委員は書記官、参事官、警部長、県庁所在地の郡長、県参事会員4人、医師3〜5人、獣医1人、化学家1人、書記(県属)から構成される。産婆営業規則は1883年10月の会議において審議され、翌年6月に改正案が可決されている(註6)。投薬や手術の禁止は医制の内容を加味し、年齢20歳以上の条件は他県の例をふまえつつ、長野県の実状に合わせてつくられたものと考えるが、履歴上の要請は何もなく、試験は2、3問の口頭試験のみで非常に緩やかなものと言える。

3.産婆取締規則、産婆試験規則、産婆試験受験人心得
 1899年(明治32)に全国統一の産婆規則、産婆試験規則、産婆名簿規則が制定される2年前、1897年長野県は産婆取締規則(長野県令第四十一号)、産婆試験規則(長野県令第四十二号)、産婆試験受験人心得(長野県告示第百五十三号)を定めた。<資料7、8、9>
 産婆取締規則は9カ条からなり、産婆営業規則と比較すると、産婆の業務として、死産取扱時の届出の項がなくなり、新たに第六条に堕胎の疑いのあるときは警察官に申告することが加わった。転居、死亡、免状の紛失時には5日以内に届けること、さらに第九条には無免許、無届けの産婆および医術の実施や第六条の内容に従わなかったときには、拘留または科料の罰則が加えられている。
 産婆試験規則は6カ条からなっている。受験資格の満20歳以上は変わっていない。試験科目が、(1)妊娠中摂生法の大意、(2)産婦取扱法の大意、(3)初生児取扱法の大意、(4)蓐婦摂生法の大意の4科目に整理された。第五条には「試験ハ筆記又ハ口答ノ二種トシ出願者ノ撰擇ニ任ス」とある。産婆試験は年2回挙行された。2カ月前に告示され、1カ月前に願書・履歴書を県庁に提出することとなっている。そして、受験地にはその1日前に到着し、市役所に届け出る旨が産婆試験受験人心得に規定された。
 1893年(明治26)、地方官官制の改正により、日本の衛生行政は警察部の事務となり、警部長の監督下に置かれた。長野県でも警察部保安課衛生係が衛生に関する諸般の取締を担当するようになった(註7)。
 1897年の長野県産婆取締規則は、文面やその内容から、取締規則の名の如く、より取締的要素が強くなっている。また、産婆営業規則では口頭試験2、3問のみであったものが、産婆試験規則では、筆記試験または口頭試験の2種類を設け、受験者の選択制とした。これは一方で筆記試験を導入し、より学術の素養ある新産婆をつくるという中央の意図を盛り込みながら、しかし一方で県内にはまだ産婆養成機関がなく、実際の受験者には筆記のできない程度のものも少なくなく、また鑑札を受けている産婆もわずかであった県下の実状に対応した規則であったと思われる。

4.産婆規則制定後
 全国に統一された法規としての産婆規則が1899年(明治32)7月制定されたが、産婆試験の挙行と産婆名簿の管理は地方長官(知事)に任された(産婆規則第二、四条)。また、産婆試験規則(同年9月)第八条には地方長官は受験人心得その他試験場の整理に関する条規を定めることが義務づけられ、これにしたがって長野県では1899年10月6日長野県令第六十一号産婆試験受験人心得<資料10>、つづいて1900年11月2日県令第七十五号産婆名簿登録出願手続<資料11>を定めた。長野県の産婆試験は、3カ月前に告示された後に挙行された。年間の挙行回数は定められていない。第四条として学説試験は原則として筆記であるが、「時宜ニヨリ」口述試験に変わることもあり得ることが引き続き条項として残された。この時点においてもなお、県内には産婆養成機関はなく、読み書きのできない従来開業の旧産婆でも受験を認める県下の実状が伺われる。
 産婆名簿登録出願手続きでは、産婆名簿登録をする者は規定の書式による願書と履歴書を知事に提出する、願書の提出、登録の停止や取消、謄本下附願はすべて所轄警察署を経て知事に提出することとなっている。

註1 『乙号長野県布告綴(1)長野県明治十一年自一月至六月』長野県庁所蔵
   (『長野県史』近代資料編第八巻二衛生・災害、1987)
   『県報』明11 3−1、長野県立歴史館所蔵
 2 『公務日誌第四号 明治十一年』依田家文書、早稲田大学図書館所蔵
   (長野県立歴史館資料)
 3 『郡役所布達留自明治十三年十一月ヨリ明治十四年』南安曇郡堀金村、堀金村図書館所蔵
   (長野県立歴史館資料)
 4 『上田医師会史』上田市医師会史編集委員会、1969.109頁
 5 『長野県布達月報八月之部明治九年明治十六年』上田市野倉 野倉共有
   (『長野県史』近代資料編第八巻二衛生・災害、1987)
 6 『長野県史』近代資料編第八巻二衛生・災害、1987.23-24頁
 7 『長野県警察史概説編』長野県警察本部警務部警務課、1958.158-159頁


第2節 長野県の産婆数の推移と新・旧産婆の交代

 明治期以後1940年(昭和15)までの全国および長野県の産婆数を表4に示した。
 長野県における最も古い統計と思われる1881年における産婆数は83であった。その後1899年までは、年間数名から10数名の増加に過ぎない。1899年の産婆数は192人で20年近い期間に100人余増えただけであった。特に、これを資格別に見ると(表5参照)、「本免許」あるいは「内務省免許」もしくは1895年の「本県免許」を含む、試験に合格し産婆資格を得た新しい産婆の数は1883年に1人から1898年には17人となっただけである。ほとんどはその履歴のみで「仮免許」を与えられた従来の開業者(「鑑札産婆」)の増加であった。1895年の統計のみが「内務省免許」「本県免許」「本県鑑札」の3種類で示されている。このうち「本県免許」が1884年(明治17)産婆営業規則(第2章第1節参照)に基づく長野県の産婆試験合格者を示すと考えられるが、その数は0であった。翌年の統計は「内務省免許」と「本県免許」の2種類の分類で示され、産婆数は24人増加している。「本県免許」は22人の増加だが、長野県の産婆試験合格者の数字であるのか、従来開業のみの増加なのかは不明である。1897年には「本県免許」は7人減少し、前節で述べた1897年(明治30)8月に制定された長野県産婆試験規則から 1899年の全国統一の産婆規則制定までの2年間に増加は見られない。産婆規則以前の長野県の県産婆試験については資料が不十分であり、県の試験による新産婆の増加数については明確にできない。
 1900年の産婆数は121人に減少する。これは1899(明治32)年産婆規則制定によって登録された数のみが示されているためであると思われる。1902年までの『長野県統計書』の産婆数は「試験合格」「試験及第」「履歴」「限地開業」と分類されている。その数から推察すると、「試験合格」が内務省免許の産婆を示し、「試験及第」によって示された数が、長野県産婆試験に合格し新産婆となった産婆数に相当すると考えられる。1903年から1921(大正10)年までは『長野県統計書』からは産婆総数のみ知ることができる。産婆規則制定後も長野県の産婆総数はしばらくの間僅かの増加にとどまっている。明治末期までの長野県における産婆数はほんの僅か増加したに過ぎない。これは全国の産婆総数が、1878(明治11)年12,009人から1883年には20,805人、1888年には30,860人、1898年には35,945人(註1)と飛躍的に増加していくのに比べると大きく遅れをとっていたと言わざるを得ない。県下で産婆数が増え始めるのは、信濃衛生会による産婆養成が始まってから3年後の1910年(明治43)からである。人口1万人に対する産婆数は1910年において全国平均5.46人に比し、長野県は1.52人であり、これは山梨県に次いで最も産婆数の少ない県の一つであった。
 すなわち長野県においては明治期末期まで積極的な産婆養成の機運はみられなかった。統計上に現れる産婆数の増加はわずかであり、しかもそのほとんどが従来開業の者であった。産婆1人当たりの産児数は統計上に示される産婆数だけでは長野県の出産を介助することは不可能であり、統計上に示されない無資格のいわゆる取上婆や、近隣、親類の者たちによる出産介助が多かったことが容易に推測される。1907年の第30回長野県会において「産婆ハ本縣ニハ極メテ尠ナ」く、「名簿ニ登録ノナイ所ノ所謂従来ノ産婆ナル者ガ其事業ニ従事シツヽ」あるが、「サウ云フ者ヲ非常ニ嚴重ナ取締ヲシタラ此出産ニ非常ニ迷惑ヲ来タスダラウト思ヒマスカラシテ、先ヅ以テ其方ハ甚シキ營業的ノ者デナイ限リハ黙認ヲシテ置クト云フ有様」であると述べられている(註2)。このような県下の事情から、信濃衛生会設立後、1907年(明治40)からの産婆養成が当会の大きな事業の一つとなり、県の補助も受けた本格的な産婆養成につながっていった。これについては次節に詳述する。
 信濃衛生会による産婆養成が始まった後、長野県の産婆数は次第に増加しはじめ、1910年には218人となり、年間20から30人の増加となった。注目すべき事は、1912年(大正1)において、資格別産婆数は産婆総数254人中、試験合格産婆186人、従来開業産婆68人で、新産婆と旧産婆の数が入れ替わって新産婆が旧産婆の約2.7倍となっていることである(註3)。この数値が正しいとすれば、1906年の産婆総数186人中試験合格69人、従来開業113人(註4)から6年の間に新旧の交代が起こっていることになる。しかし、1906年から1909年までの産婆総数はほとんど変化していないこと、従来開業産婆数が45人減少していることから、1912年186人の試験合格産婆には、信濃衛生会や県外の産婆養成所を卒業し受験した若い新産婆の他に、従来の開業者が『産婆試験規則』第五條に基づく医師2名の証明によって長野県産婆試験資格を得て受験し、筆記または長野県『産婆試験受験人心得』第4条の「時宜ニ」よる口頭試験を受け、試験合格産婆となった者も含まれていたと考えてよいのではないだろうか。
 1914年(大正3)には産婆総数は320人、1922年には524人となる。試験合格産婆も確実に増え、従来開業数は33人のみとなった。その後特に1925年(大正14)から1929年(昭和4)までは産婆試験受験者数の急増(表6参照)と共に、年間70から90人の多数の増加を示し、1931年には990人、翌年には1026人となった。そのうち従来開業産婆数は15人であり、1935(昭和10)年にはわずか4人となり、ほとんど姿を消している。

註1 「助産婦の歴史(6)」『ペリネイタル・ケア』第2巻第5号、1983年.92-    99頁.
 2 『明治四十年自十一月二十六日至十二月二十五日長野縣第三十回通常縣會議事   日誌全』長野県議会図書室、長野県立歴史館)
 3 長野県統計書には1903(明治36)年から1921(大正10)年まで、資格別の   産婆数は記載されていない。
   緒方正清『日本産科學史』1723頁によった。
 4 『月刊 信濃衛生』第八號、明治40年2月25日


第3節 長野県下における産婆養成

 長野県下の産婆たちは、実際にはどこで知識、技術を習得していたのであろうか。長野県における本格的な産婆養成の始まりは、信濃衛生会による産婆講習である。それ以前では開業医師、医師組合、病医院などでの見習い修業が主なものであったと思われる。1907年(明治40)より信濃衛生会が県の補助を受けて本格的な産婆養成をはじめ、前節に述べた如く、以後産婆数も増加していった。以下に長野県下の産婆養成について信濃衛生会以前と信濃衛生会による産婆養成とに分け記述した。

1.信濃衛生会成立以前における産婆
 1878年(明治11)の北村まつ(佐久郡八幡村)の鑑札下附願と1884年(明治17)の佐々木婦の(小県郡和田村)の産婆営業願とが、それぞれの履歴書と共に残されている(註1)、(註2)。
 北村まつは1878年乙第九号布達の雛形に倣い、次のような願書と履歴書を提出し、鑑札下附を願い出た。

  私義従来産婆営業罷在候處乙第九号御布達之通鑑札御下附相成度履歴書相添  此段奉願候也
                北第七大区小区 八幡村八番地住
   明治十一年二月廿五日       平民  北 村 ま つ
                    用掛  工藤九郎右衛門
                    副戸長 依 田 源四郎
  長野県権令 楢崎寛直殿

                北第七大区小区 八幡村八番地住
                        北 村 ま つ
                         五八年三ヶ月
  一安政五年四月ヨリ文久二年八月迄長野県信濃国佐久郡八幡村春原荒市ニ従   ヒ産科修業
  一文久三年三月ヨリ同県同国同郡同八番地ニ於テ開業
  右之通相違無御座候也
  明治十一年二月廿五日             北 村 ま つ

 即ち、北村まつは、春原荒市(産科医かどうかの記載はない)のもとで38歳から4年間産科修行をした後、43歳の時から15年間開業していた。
 次に、佐々木婦乃の限地開業産婆として願出である。1884年に出された産婆営業規則第六条は、「産婆営業者の乏しき地方にして、自然其技術に習熟せし者」を限地開業として特に認めている。

   産婆営業願
  今般産婆営業仕リ度候間鑑札御下付相成リ度履歴書相添ヘ此段奉願候
              小県郡和田村三百六拾壱番地
  明治壱拾七年十二月十五日   願人  平民 佐々木婦乃  印
                         六十七年一月
                 衛生委員    河西栄蔵 印                       戸長      武重敬吾 印
  長野県令木梨精一郎殿代理
   長野県大書記官   鳥山重信殿
             履歴書
                 長野県信濃国小県郡和田村
                   三百六拾壱番地屋敷居住平民農
                      三村林七母
                         佐 々 木 婦 乃
                          六拾七年一月
  一 実ハ当村農佐々木文右エ門亡長女ニテ天保五年十月十二日三村林七父嘉    六妻ニ嫁シ長女よう長男三村林七ヲ産ム
  一 幼ヨリ農事ヲ以テ職トナス
  一 慶応三年四月九日長女よう之長男三村亀吉ヲ分娩ノ際其産難見ルニ忍ヒ    ス産婆ヲ雇ハントスルモ当村ニ無之偶々仝郡長窪古町ニ伊勢国桑名産医    松岡喜齊在リト聞キ迎ヘテ治療相受ケシニ忽チ分娩母子強壮ナリ依リテ    該医ニ附キ産婆ノ術ヲ受ケ以后今日ニ至ル迄親族知己ノ依頼ヲ得産児ヲ    取扱フ茲ニ壱百有廿名余ニ至レリ
  右ノ通相違無之候也
  明治十七年十二月十五日         佐々木婦乃  印
      副願
  本年四月十四日本県甲第三十一号ヲ以テ産婆規則御達ニ基キ精々試験志願奨  励仕リ候共未タ志願者無之実ニ本村之如キハ戸数五百有余ニシテ一ノ産婆営  業者ナク加之ナラス隣町村ニ至リテモ猶如此其不便云フ可カラス候附テハ別  紙産婆営業願人ノ義ハ其技術モ自然老練習熟仕リ候者ニ御座候間何卆特別之  御詮儀ヲ以テ・・・・・・・・・・此段奉願上候也  (・・部解読不可)
                 小県郡和田村
  明治十七年十二月十五日       衛生委員
                          河西栄蔵  印
                小県郡和田村戸長  武重敬吾  印
  長野県令木梨精一郎代理
   長野県大書記官鳥山重信殿

 これによれば、佐々木婦乃は17歳にて結婚し、一女一男を出産した。そして彼女は長女の出産が難産であったため、産婆を呼ぼうとしたが村には産婆は居らず、別の町の医師によって治療を受け、母児共に事なきを得た。これを機会に、その産科医より産婆術を習い、以後依頼に応じて助産を始めている。婦乃40歳の時である。以来27年間で120例以上の出産を介助している。
 北村まつと佐々木婦乃に共通しているのは、共に農民で、産婆業を開始したのは40歳過ぎてからであること、医師のもとで産婆の修業をしていることである。北村まつについては4年間を医師(産科医である確証はない)のもとで修業し、佐々木婦乃についてはその期間は定かではないが、産科医のもとで産婆術の教授を受けている。
 『長野県統計書』によると、1884年(明治17)の産婆97人中、「本免許(内務省免許)」を受けている者は1人のみで、あとは上記2人のように「従来営業ノ者」に与えられた「仮免許」の産婆であった。新潟の例として知られる産婆の如く、姑から産婆術を伝授されたり、自分自身が安産したので産婦の取扱を自得したという産婆(註3)に比べると、旧来の産婆が単なる経験のみで助産を行っていたのでなく、医師からの助産の伝習を受けていた者があったことは特記すべきであろう。
 明治期における長野県下の産婆は、1899年(明治32)産婆規則以前では、他府県において教育を受け内務省免許を受けた産婆であるか、あるいは県下の医師のもとで知識と技術を吸収したのち開業したものか、また中には旧来の取上婆、姑から産婆術を伝授された者もいたと思われる。
 産婆規則以降の長野県下では、「内務省免許」と、「従来開業」の産婆に加えて、他府県の試験に合格した者、県内で開業医師や病院のもとで修行したり、医師会の講習会などで講習を受けた後、県の産婆試験に合格した「試験合格」産婆が、新産婆として加わることになる。1910年(明治43)に発行された『諏訪人名録』(註4)には、産婆看護婦の項に13人の産婆名がある。その卒業産婆学校を見ると、10名が他府県の産婆学校卒業であった。東京醫科大學婦人科、東京産婆講習所、日本産婆学校、新潟県高田病院産婆、山梨県病院産婆などである。このうち東京産婆講習所は1912年(明治45)の私立産婆学校産婆講習所指定規則制定後、指定校となっており、この卒業生は内務省免許産婆である。3名は長野県内の看護婦または産婆養成所卒業であり、南佐久看護婦養成所、南安看護婦養成所、松本病院で養成された産婆であった(表7)。この南佐久郡と南安曇郡の看護婦養成所は、後述する信濃衛生会の南佐久支会と南安支会によるものと思われる。

表7 諏訪郡における産婆一覧                     
│○平野村                               │
│東京醫科大學婦人科卒業34年4月免許  義澤浦子(神奈川縣高野郡大野村上鶴間)│
│36年4月東京産婆講習所卒業37年4月免許 山田わか(長池村)       │
│39年4月日本産婆學校卒業39年5月免許  小口きぬ(平野村)       │
│ 上諏訪町                              │
│39年11月醫科大學産婆卒業30年3月免許 柳澤よし(上諏訪町)      │
│新潟縣高田病院産婆卒業        高波はる(新潟縣中頸城郡高田町)│
│34年6月南佐久看護婦養成所卒業35年5月免許 篠原佐代(南佐久郡岸野村) │
│山梨縣病院産婆卒業          松田登代(上諏訪町)      │
│日本看護婦學校卒業          小池とみの(本郷村)      │
│日本病院産婆卒業           吉江たえ(東筑摩郡鹽尻町)   │
│31年12月南安看護婦養成所卒業     二木久江(南安曇郡三田村)   │
│○湖東村                               │
│38年3月東京産婆講習所卒業38年4月免許 藤森かる(湖東村)       │
│○豊平村                               │
│30年東京産婆學校卒業42年7月免許    永田きみよ(豊平村)      │
│○中川村                               │
│30年3月日本産婆學校卒業        笠原さい(中洲村)       │
│                  岩波たま             │
濱惣重『諏訪人名録』1910年より作成

 産婆規則制定以降の産婆養成に関して、『上田医師会史』(註5)では、1901年(明治34)小県郡医士組合時代に郡の事業として産婆講習会を建議開催する案が議決されているとある。これが実際に開催されたのかどうか記録はない。1907年に小県郡医士組合から小県郡医師会となって後、1916年(大正5)に1回産婆講習を実施し、その後1921年(大正10)に偶数日のみ、夜間に産婆講習会が開始されている。
 『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』(註6)には1905年(明治38)看護婦会の事業として産婆教習所が設けられた記載があった。これら以外の地域でも医師会や病院が産婆教育にあたっていたとも考えられるが、講習時間は限られ、その内容は非常に簡易なものであったのではないかと推察される。今後の研究課題として残しておきたい。長野県下における本格的な産婆養成所は1904年(明治37)創立の信濃衛生会によるものが初めてであったといってよいであろう。
 次に信濃衛生会とその産婆および看護婦の養成を明らかにしたい。

2.信濃衛生会による産婆・看護婦養成
 1)信濃衛生会の目的と事業
 緒方正清は、1914年(大正3)全国各府県における産婆教育機関を調査し(註7)、37道府県127カ所の産婆養成機関とその設立の種類、設立年月日、卒業生総数を明らかにし、1914年(大正3)12月における内務省令指定規則により許可を受けた産婆学校10校を併記している。長野県の産婆養成機関は信濃衛生會産婆養成所一カ所のみで、設立種類は私立、1907年(明治40)4月設立、卒業生総数 155人と記載されている。
 信濃衛生会は1904年(明治37)8月計画され、翌年6月に発会した。会員を募り、県下一円の衛生思想の普及とその向上をはかるため多くの事業を展開し、県民の健康の向上のために重要な役割を果たした半官半民的私設団体の一つである。県知事が会頭、県警部長が副会頭、また各郡長が支會頭、警察部長が支會副頭に就き、1908年(明治41)度から衛生補助費を県補助金から受け事業を展開した。官民共同機関といってよい性格を持った団体である。
 その設立の趣意書<資料12>によると、日露戦争中の「我國勢ハ一ニ身神ノ健康ヲ保持シ、以テ益國富ヲ充實シ、兵力ヲ養成シ進デ戦后ノ経營ヲ為サヾルベカラザル」時局において、この会は計画された。富国強兵を実現させる根本は、衛生の確立なくしては成り立たないという基本信念のもとに、衛生施政上の一翼を担うことを目的としてつくられた。特に会の特色は、知識階級や一部の階級の人々のための利益ではなく、「一般多衆ニ對シ健康保持ノ必要ヲ普及セシムル機関」として「衛生理論研究ノ如キハ之ヲ第二トシ、貴賤貧富ノ差別ナク均一平等ニ利益ヲ享ケ」られる「実践的組織」を目標とした。
 会活動の具体的な方法・手段は、@衛生幻燈機による衛生談話、A看護婦養成と有事における伝染病院や隔離病棟への配属、B産婆養成および旧来産婆への簡易教習、C地方病の予防と治療方法の講究、D伝染病・風土病の発生地ならびに家屋の浸水その他天災等の予防上の注意を周知徹底すること、E伝染病発生の場合市町村および会員の求めに対する医師、看護婦、消毒施行人夫の周旋、F衛生上必要事項を平易に解説した印刷物の発行と、会員への配布が掲げられている。
 上記の3番目にある産婆養成のため、長野県下唯一の組織的養成機関がつくられた。開設以来多くの近代産婆を輩出し、その活動は第二次世界大戦中まで続いた(註8)。
 2)信濃衛生会の産婆・看護婦養成の始まり
 『月刊信濃衛生』第一号(1906年<明治39>7月25日)(註9)によると、1905年(明治38)7月10日、信濃衛生会は先ず看護婦養成所を開所した。翌 1906年7月現在の第四期生徒は17人であった(『月刊信濃衛生』第三号記載では18人)。開所以来の卒業生は54人で、各郡市に1〜4人存在していた。また1906年では9月1日より第五回の22人を養成中であり、看護婦の養成は同年度で一先ず休止し、 1907年1月頃より産婆の養成のみを為す計画であることが記載されている(『月刊信濃衛生』第三號、1906年<明治39>9月25日)。なお、南安支会では看護婦養成を始めており、南佐久支会においても看護婦養成を始める予定であった(月刊信濃衛生』第八號、1907年<明治40>2月25日)。
 信濃衛生会における看護婦養成開始から産婆養成に至る経緯は、1907年(明治40)第30回通常県会第一読会において、信濃衛生会への産婆養成に対する県補助の提案のさいに警部福田富蔵が、次のような主旨の説明をしている<資料13>。
 信濃衛生会の事業として緊急に始めなければならない事業は何であるかを調査した結果、至る所において看護婦が不足しており、特に伝染病発生時には困難を生じていた。よって先ず第一の事業として看護婦養成をめざし、これまでに5回計95名を養成した。自費での養成者を募集したが、希望者は極めて少なかったので、やむを得ず会の費用で養成した。この95名の養成によって看護婦の居ない郡はなくなった。一方、第二として産婆の養成を始めた。産婆は長野県下に極めて少なく、登録者は199名であった。これに対し県下の出産は死産4,729人、生産41,719人にのぼっていた。産婆が非常に少ないために名簿に登録されていない所謂「従来の産婆」が従事しており、これを厳重に取り締まれば出産に非常に迷惑を来すと思われるので、これらの産婆を黙認している有様である。よって信濃衛生会として産婆養成をめざし、第1回は23名を養成した。しかし自費での養成希望はほとんどなく、会の費用の多くを費やし養成した。この事業は非常に効果のあるものなので県からも幾分の補助を願いたい。
 これが県費補助の提案理由であった。
 信濃衛生会の第二の事業として開始した産婆事業の具体的内容をみると、第五回の事例では半年間に学説のみの講習で、23名を養成した。費用は講習場所、寄宿舎、講師の報酬を含み、1,000円あまりを要した。予算案は1郡1人として都合16人、1カ月3円宛の補助を見込み、計576円を請求した<前掲資料13>。
 長野県会はこの議案を可決し、翌1908年(明治41)度県予算に「衛生補助費」が新設され、産婆養成の事業に要する信濃衛生会費補助のために576円が計上された。翌年は新たにトラホーム予防事業の開始のため300円増額され876円となった(註10)。その後も県の補助を受け、信濃衛生会は主要事業のひとつとして産婆養成を継続していく。

 3)信濃衛生会における産婆養成の推移
 看護婦養成を一端打ち切り、産婆養成に切り替えた信濃衛生会では、『月刊信濃衛生』第五号(1906年<明治39>11月25日)に次のような広告を出した。

    産婆講習生募集廣告
  一、募集人員  二十名
  二、年齢    満十九年以上
  三、身体    強健にして身幹四尺九寸(約148.5cm)以上の者
  四、學術    高等小學校卒業以上の者
  五、期間    講習六ヶ月
  六、費用    往復旅費の外總て給與
  希望者は本年十二月末日迄に履歴書を添へ志願書を差出すへし試驗の上採用  す
但し試験の期日及場所は別に之を通知す
信 濃 衛 生 會

 募集の旨は県下各郡役所にも通知され、郡役所より各町村に通達された。北佐久郡三井村は郡役所第一課より次のような達を受け取っている(註11)。

  号外
 本縣信濃衛生会ニ於テ産婆講習生募集ノ趣(信濃衛生会雑誌第五号一頁ニ廣告 シアリ)右ハ衛生上尤モ必要ノ事ト被認候殊ニ本郡ノ如キ産婆ノ少数ナル地方 ニ於テハ尤モ必要ナル事業ナルノミナラズ講習生ニ於テモ又有望ノ業務ナラン ト相認メ候条希望者御勧誘ノ上願出直接信濃衛生會ヘ提出セシメラレ度此段及 照会候也
  明治三十九年十二月二十一日
               北佐久郡役所第一課 印
     各町村長殿

 その結果、募集人員20人に対し40人の応募があり、試験の結果22人を採用し、翌年1月18日より6カ月間の講習を開始した。卒業生は20人であった(註12)。表8に第1回から第26回までの産婆、看護婦養成人員数を示した。1909年(明治42)第3回の産婆・看護婦養成人員は38人にのぼっているが、この数は産婆と看護婦の合計養成数であろう。
 1912年(大正1)第6回養成では産婆講習終了生として17人の氏名が『月刊信濃衛生』第七十六号に掲載されている。『月刊信濃衛生』第六十三號(1911年<明治44>9月15日)にはすでに看護婦養成の広告が掲載されていた。1907年に一旦                     中止された看護婦養成が1909年                     (明治42)より再開され、以降は産                     婆と看護婦の養成が平行して継続                     されるようになったと考えられる。
                      1918年(大正7)の募集では、
                     産婆養成の年齢条件が、「本縣内
                     ニ本籍ヲ有シ年齢満十九歳以上ノ
                     者但本縣ニ本籍ヲ有セス年齢十九
                     歳未満ノ者ト雖試験ノ上私費ヲ以
                     テ採用スルコトアルヘシ」となり、
                     対象が広げられた。さらに産婆お
                     よび看護婦の講習が平行して行わ
                     れ、講習生がいずれかの1科目を
                     選択していた講習は、1920年(大
                     正9)第14回より、両科同時に併
                     せて行うこととなった。その講習
は、「非常なる好評をもって迎えられ、結果は想像以上の好成績を収め」、翌年には「産婆看護婦として堪能なる専任講師一名を置き、其の他講師としては、外部に之を赤十字病院及市内在住の開業専門醫に求め、内部には之れを衛生課に於ける新進技術者に求めて、鋭意講習の實を擧げんことに努め」ることとなった(註13)。実際第14回産婆講習生は50人の募集に対し、110人の応募があり、採用試験の結果80人を採用している(註14)。1923年(大正12)には募集人員100人と増加した。また県補助費も1919年(大正8)から1,000円に増額されている(註15)。増額理由について記述はないが、物価高騰と産婆養成の拡張に伴うものと推測される。これらのことは、第一次世界大戦を機に、さらに産婆・看護婦の養成拡充が図られ、事業が推進されたことを伺わせる。
 以後、信濃衛生会は毎年100人近い産婆・看護婦養成を継続した。1931年(昭和6)には、日赤長野支部病院の旧本館に新たに信濃衛生会館を設立し(註16)、 112人に講習を受けさせた。翌1932年には信濃衛生会助産看護学講習所と名称も変わり、信濃衛生会助産看護学講習所規程が作られ<資料14>、 150人を募集し、110人を採用するに至った。さらに、開設以来25年を経、卒業生は1,600余人に達し、同年4月29日第1回信濃衛生会講習所同窓会が開催されるはこびとなっている(註17)。

註1 『公務日誌 第四号 明治十一年』依田家文書、早稲田大学図書館所蔵
 2 『自明治十七年至十八年御指令留』小県郡和田村、小県郡和田村役場所蔵 3 蒲原宏『新潟県助産婦看護婦保健婦史』新潟県助産婦看護婦保健婦史刊行委員会、1967年.26頁.新潟県は明治9年に管下の産婆履歴調査を行っているが、産科医からの伝習は全くなく、ほとんどが経験的自然発生的に近い状態で存在していた「トリアゲバサ」そのものであったという。
 4 濱惣重編『諏訪人名録』諏訪人名録発行所、1910年.178頁.これは南信日々新聞記者である編者によって、諏訪郡在住ないし諏訪郡人にして郡外在住で一つの社会的位置を有する者の人名を職業階級別に列挙したものである。このうち「婦人」の項に愛国婦人会員の次に産婆看護婦名が掲載されている。
 5 『上田市医師会史』上田市医師会史編集員会、1969年.120頁
 6 『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』第三巻現代上、1962年.1984復刊.414頁
 7 緒方正清『日本産科學史』1919年.石原力解題、科学書院、1980.第十二編明治後期の助産學 日本産婆制度論1703~1739頁.
 8 『長野県警察史 概説編』長野県、1958年.343頁.第二次世界大戦中にも100名前後の看護婦、保健婦、産婆を養成しており、その講師はこの衛生課員がほとんど専任したと記載されているが、その後どの時点で中止或いは解散となったかの記述は不明。
 9 『月刊 信濃衛生』は、信濃衛生会創立趣意書において目的事業の7つ目に掲げられた「衛生上必要事項を平易に解説した印刷物」のひとつとして実現したものである。1924年(大正13)には読者が約8,200人いた(『秘書雑件大正15』)。
   県内に残存し所蔵されている同誌は、1906年(明治39)7月25日発行第一号から1939年(昭和14)9月1日発行第三百九十九号までのうち、117号分であり三分の一に満たない。特に1908年(明治41)から1917年(大正6)まで、1925年(大正14)から1931年(昭和6)までのものはほとんど残っていない。
 10 『長野県会沿革史』第四編、1910年.593頁.
 11 『明治三十九年郡衙諸達綴』北佐久郡三井村役場、佐久市役所所蔵
 12 『公文編冊 事務引継書 知事官房 昭和六年』長野県庁所蔵、『長野県史』近代資料編第八巻(二)衛生・災害、1987年.408頁
 13 『月刊 信濃衛生』第百八十六號(1921年<大正10>12月15日)
 14 『月刊 信濃衛生』第百六十六號(1920年<大正9>4月15日)
 15 『長野県会沿革史』第六編、1920年.498頁
 16 『文書編冊 長野市医師会 昭和6年』長野市医師会所蔵、『長野県史』近代資料編第八巻(二)衛生・災害、1987年.423頁
 17 『月刊 信濃衛生』第三百十号(1932年<昭和7>4月15日)

第4節 長野県産婆試験
 ここでは長野県産婆試験がどのようなものであったかを、1899年(明治32)の産婆規則以前と以後に分けて検討する。

1.産婆規則以前 
 1878年(明治11)鑑札交付についての県布達には、但し書きとして「本文日限ヲ過ギ願出候者ハ、従来営業ノ者ト雖ドモ新規開業者ト同一試験ヲ受ケ候儀ト可相心得事」とある。つまりこの布達によって3月20日までに手続きを終了したものはそのまま開業を続けられるが、これ以降は新規のものと、従来開業であっても以後の願出には試験を受けなければならないとするものである。しかしながら実際に試験が実施されたか、どんな試験であったか、資料がなく不明である。
 また、1884年(明治17)の産婆営業規則による試験についても、資料を見いだすことが出来なかった。長野県の産婆数は1884年97人から1899年192人まで、15年間にその増加は100人に満たず、その資格別内訳はそのほとんどが、鑑札を受けただけの「仮免許」(「鑑札産婆」)であった(本章第2節表2参照)。特に  1895年の『長野県統計書』は「内務省免許」、「本県免許」、「本県鑑札」の3種に産婆の資格を区別しているが、このうち「本県免許」が長野県の試験を受けた産婆と考えられる。しかし、その数は0である。翌年の記録は内務省免許と本県免許の2種となった。本県免許は前年に比し22人増加し、183人となっている。この増加数が長野県の試験に合格した産婆数とも考えられる。しかし、長野県の産婆営業規則に基づく長野県の産婆試験の実施については、今回明らかにできなかった。産婆取締規則ができた1897年には7人減少し、1898年、1899年は増減がないことから、産婆規則以前の長野県独自の産婆試験は、事実上機能しなかった可能性も大きい。今後究明すべき課題である。

2.産婆規則以降
 1899年(明治32)の産婆試験規則および産婆試験規則による産婆試験は各地方長官によって施行された。試験科目は学説と実地からなっていた(資料2参照)。

   學説
  第一 正規姙娠分娩及其ノ取扱法
  第二 産褥ノ経過及褥婦生児ノ看護法
  第三 異常ノ姙娠分娩及其ノ取扱法
  第四 姙婦産婦褥婦生児ノ疾病消毒ノ方法及産婆心得
實地
  第一 實地試験若ハ模型試験

 また、産婆試験問題数と採点法に関して、次の文書が残っている。

  甲第八三一号
  産婆試験ニ関スル義ニ付調査方本月七日甲第八三一号ヲ以テ及御照会置候處  本試験問題数并ニ採點法ハ別紙通リニ候条為御参考此段及通達候也
  明治三十三年六月□□
         下高井郡役所
  各町邨役場御中
  一産婆試験問題并ニ採點法但学説試験ハ筆答ニ限ル
   (学説)
  第一 正規妊娠分娩及其取扱法      二問
  第二 正規産褥ノ経過及褥婦生児看護法  二問
  第三 異常ノ妊娠分娩及其取扱法     二問
  第四 妊婦産婦褥婦生児ノ疾病消毒ノ方法及産婆心得 二問
   (実地)
  第一 実地試験若クハ模型試験      二問
    採點法
  学説試験ハ一問ノ満点ヲ拾点トシ毎項点数五點以上ヲ得而シテ各項ノ点数ヲ  合算シ其合点数四十点以上ヲ得タル者ヲ合格トス
  実地試験ハ一問ノ満点ヲ拾点トシ一問ノ点数□□以上ニシテ合点□拾点以上  ヲ得タル者ヲ合格トス
  (『衛生関係 書類明治三十三年度』下高井郡穂波村役場、下高井郡山ノ内   町役場所蔵)□部分は資料不鮮明にて解読不可

 産婆試験規則に定められた4科目の各科目に付き、2問ずつ計8問が出題され、
半分得点できれば合格となる。
 長野県における産婆試験問題は『月刊信濃衛生』の記事からいくつか見つけることができた。<資料15>
 これらの試験を見ると、学説試験では4科目各科目2問計8問ではなく、その中から6問が出題されている。実地試験は1問または2問がおこなわれた。学説試験については、どれも基本的問題と思われるが、解答は記述式であり、記述内容によって合否が判断された。『長野県統計書』による産婆試験成績(本章第2節表6)を見ると、学説実地共の合格率は20%から40%台であり、受験者にとって決して容易な試験ではなかった。特に昭和初年は急激な受験者数増加もあり、学説実地共の合格率は2割強に過ぎず、全体の合格率も低下傾向にあった。


 


第3章 長野県下における近代産婆の確立


第1節 1900年代前半における母子保健状況

1.統計からみた母子保健状況
 日清戦後、日露戦争を経てつくられた我が国の近代的衛生行政の基盤は、大正、昭和の時代に入り、新たな分野を開拓しつつ、戦時体制の進行とも関連して変容していく。この中の一つに、国民体位向上への関心が高まるのに伴って、国民の保健指導をはじめとする、より積極的衛生分野が開拓されていったことが挙げられる。この中心となったのが結核予防対策と乳幼児死亡低下をめざす母子衛生対策であった(註1)。
 日本では特に第一次世界大戦前後より、この乳幼児死亡の問題が社会の脚光を浴びるようになった。その原因としては国勢調査の始まり、人口動態統計の整備によって、諸外国との比較が可能になったことがある(註2)。欧州では出生率の低下減少が問題になっていたが、乳幼児死亡率も漸減傾向にあった。これに対し我が国は出生率は高くなお上昇傾向にあったが、一方乳児死亡率も非常に高率で増加傾向にあったのである。乳幼児死亡は乳幼児独自の医学的問題もさることながら、母親の妊娠・分娩・産褥期における臨床医学的問題や母親を含む家族の社会、経済、文化的問題を含み、乳幼児死亡率は社会の衛生発達を知る上に重要な指標の一つであった。富国強兵策をとり続ける日本においては非常に大きな問題であった。
 母子衛生状況の指標となる出生、死産、乳児死亡、妊産婦死亡について、1900年から1940年までの5年ごとの全国統計を表9に示した。出生率(人口千対)は日露戦争後より増加し、第一次世界大戦後にさらに増えて最高潮に達した。全国では1920年の34.9が最高値である。1900年初頭90近かった死産率(出産千対)は1910年頃より減少し始め、1940年には半分近くまで減少している。乳児死亡率は出生率に同調して日露戦争後から第一次世界大戦後まで増加し、1920年には出生1000に対し165.7となった。「コロコロ死亡する赤ちゃん」といわれる所以である。一方妊産婦死亡も非常に高率であった。1900年以降漸次減少はしているが、第一次世界大戦を含む1910年から1920年までと、満州事変を含む1930年から1935年の間は減少の勾配がやや緩やかになる傾向が認められる。20世紀前半期をかけて半減するものの、毎年出産で5,000人から7,000人の母親が死亡していたのである。
 次に長野県における母子保健統計(表10)を見てみると、出産率は全国よりやや低値を示しているが、全国と同様1920年の35.3が最高値であった。乳児死亡、妊産婦死亡率は全国平均より低いが、死産率が高いのが長野県の特徴であった。死産率は全国の傾向同様、1900年代より減少傾向にあり、100を超えていた死産率は1911年に99.8となり、その後も減少を続けた。1940年には全国平均を下回っている。乳児死亡率は乳児死亡は全国より低率にあったとはいえ、出生1,000に対し130から150の高率で、特に1910年代後半は高値が続いており、1916年には 154.4と最高値を示した。1920年過ぎより減少し始め、1930年には99.2、1940年には75.3まで減少した。妊婦死亡も1920年代より減少し、死亡原因のうち1910年全妊婦死亡の半数以上を占めていた産褥熱は1935年には約5分の1に減少した。この産褥熱の割合は出産時の衛生状態を反映する。
 以上のように1920年頃までの全国、長野県共に母子保健状況は厳しいものであった。『長野県政史』に記述されている『自大正四年至八年生産・死産・死亡統計書』についての報告(註3)では、長野県は出生率は全国平均よりやや低率であり、人口1,000対32.8で全国21位であった。死産が全国的にみても高い県であり、特に諏訪郡生産100に対し14.9、北安曇郡11.6で高い郡として挙げられ、低い郡は上高井郡6.6、長野市6.7であった。非常に地域差が大きかったと思われる。乳児死亡は上水内が死亡100に対し26.3と極端に高く、松本市がこれに続いたと述べられている。1920年における長野県の母子保健統計は死産率(出生千対)79.4、乳児死亡率(出生千対)138.7、妊産婦死亡率(出生十万対)364.1である。
 こうした状況に対して、県当局は「本県民ノ保健状態ハ各府県ト同ジク憂フベキ点亦不尠、就中乳児幼児ノ死亡及発育上考慮スベキモノ多ク、県民ノ体質改善ヲ要スルコトハ最モ重要ナルニ鑑ミ、衛生行政ノ基調ヲ茲ニ需メ」、1919年(大正8)以降、要目に基づいて保健衛生の実地調査を行い、問題点に対しては郡市長、警察官署長に改善を促進させた(『秘書雑件』)。また、乳幼児の死亡、発育不良の原因と愛護についての知識啓発のため、県当局は婦人に対し簡易な育児、看護、哺乳、分娩その他一般衛生上の講習講話会を開いた。1923年には県下郡市の44カ所で、県主催の短期婦人衛生講習会を開き、聴講者26,671人に及んだ(『秘書雑件』註4)。
 1921年(大正10)の郡市衛生主任会議では「児童及妊産婦ノ保健増進ニ関シ、保健衛生調査会長ヨリ左記ノ決議事項内務大臣ヘ提出相成リタルニ付テハ、各地ノ実況ニ稽ヘ各機関協力之レガ施設ノ実現ニ努メラレンコトヲ望ム」として、
 「(一)郡市ニ於テハ貧困ナル産婦ヲ収容スル為産院ヲ設置スルコト
    産院ニハ巡回産婆及巡回看護婦ヲ附置シ収容スルコト能ハザル貧困ナル    妊産婦ノ助産及看護ニ従事セシムルコト
    産婆補修養成機関ヲ産院ニ附設スルコト
    産院ニ妊婦相談所ヲ附設シ妊婦ノ相談若クハ健康診断ニ応スルコト」
が指示事項として郡市に伝えられた(註5)。
 翌1922年の衛生主任会議では、医師、薬剤師、産婆、看護婦、鍼灸按摩術営業者に関する事項として、「産婆ノ分布、看護婦ノ供給ハ常ニ苦心スル所ニシテ、殊ニ産婆ナキ山間ノ地ニアリテハ、依然トシテ無免許産婆ノ公然是等ノ業務ヲ為スモノアリト聞ク。就テハ地方婦人會員又ハ補習ノ生徒等ニ対シ産婆看護婦ノ講習ヲ受ケシメ、進ンテ産婆看護婦ノ普及奨励方取計ハレタシ」と述べられている(註6)。
 こうして「民族の発展政策上、刻下の急務」である死産、乳幼児死亡の低減と優良なる子女の保育をめざす女性たちへの衛生思想の啓発(註7)と、母子保護に関する事業施設、そして産婆・看護婦の普及が、1920年代以降勢いをもって推し進められていった。
 1920年代になると、長野県下の産婆数も増え、試験合格の新産婆が確実に増加していた。特に1920年代後半には急増した(第2章第3節参照)。1910年、人口1万に対する産婆数が1.52人と、山梨に次いで全国で最も産婆数の少ない県であった長野県が、1920年では3.11人で最下位より5位に、1930年では5.56人で最下位より12位となった。しかし全国平均の7.81人には、まだ及んでいない。産婆一人の出産数は、1920年128.3人で全国平均60.2人の2倍以上であったが、1930年には61.5人となり、全国平均43.8人に近づいている。
 このように、統計上の産婆数では着実に新産婆が増えていくのだが、しかし出産の近代化の実態は、産婆数の増加に平行して起こっていたわけではない。1920年代から1930年代前半にあっても、都市部以外は町から少し離れれば、まだまだ旧態依然の出産風景が繰り広げられていたことが、先行研究や調査によって明らかにされている(註8)。以下に長野県の状況を見てみたい。

2.1920年代の出産状況
 1924年(大正13)、『月刊 信濃衛生』第二百十八号に、県内のある産婆が匿名で投書している。一部を以下に抜粋する。

  僻地の産婆より     無 名 氏

 市は勿論一寸した町でも住まれる方は分娩に際しても衛生に注意しよく準備される様ですが、町を離れた僻地へ行きますと随分野蠻的な於産をして居る人があります。私の住む村は長野市を距る事二十餘里近い町へも二里餘を隔る僻地ですが、近頃隣村へ行けば汽車電車があり、交通便利な為町の女學校へ行く人も多くなり、従って幾分進んだ教育を受け新しい智識を持つ婦人もありますが、衛生に付いては無頓着な人が澤山あります。
 昔話に藁の上から取上げたなどと聞きますが其習慣がありまして、疊を上げ藁を敷き又は薄い敷物の下に灰を置きどうせ汚れるからと古い物の洗濯もせずに使ふ人が時々あります。之では産婆の消毒も何もなりませぬ。私は婦人会合の席や診察を受けに来る人に、「於産蒲團の作り方其時使ふ物は古くともよいが煮るとか熱湯に漬けるとか、よく洗濯して充分日光に當て子供の着物ムツキ脱脂綿等取揃へ一定の箱か行李に入れて置く事など呉々も話しますが、扨於産に行って見ると實行して居る人は半分もありませぬ。餘り六カ敷く申すと新しい産婆は面倒臭い、昔の取上婆さんなら何も云はずに汚い物でも洗濯して呉れる。目藥などさヽなくもろう病みもしないだろうなど申します。
 又近所の於産に經驗ある人を頼んで置いて長時間痛んでも産れぬ時、胎盤が下りないで困るとき、初めて産婆を頼みに来ると云ふ人もあり、或は産婆が異常と診て醫師の来診を乞へば役に立たぬ産婆だなどと種々宜くない蔭口を申したりします。産婆ならどんな難産でも取り扱へる者だと思ふのでありませう。そして稀に開かれる講話會にも出席者は極少ないと云ふ状態であります。殊に遺憾なのは近くに産科醫のない事であります。生活程度の低い僻地の純農家には平常百圓に近い金をもって居る人は滅多にありませんが、異常ある時、町の醫師を頼めば往診料十五圓、手術に依っては二十五圓乃至五六十円、俥賃三四圓、自動車は五圓一時間の待料二圓と云ふ様に掛ります為、家人が思惱んで居る中徒らに長時間苦しみ、或は助かるべき命を失ふ事があります。場合と時間の都合により銀行も間に合はず近所の産婆其他の雑費は待って貰へるが町の醫師にはそれもならぬと、これでは思惱むも無理はありませぬ。斯う云ふ地方は私の方ばかりではないでありませう。

        (『月刊 信濃衛生』第二百十八号、大正十三年八月十五日)
                                    
 若い近代産婆にとっては「昔話」のはずである古い出産習慣であった藁の上の出産がまだなされているのであり、近代産婆の指導や注意は人々になかなか聞き入れられず、その上文句を言われた。また、異常の場合に連絡をとりたい医師の不在と住民の経済的困難から、救えるものも救えず、僻地の産婆が苦心している姿がよくわかる。
 1927年(昭和2)、長野市の若穂綿内地区で開業した山崎キヨの証言をもとにした報告からも古いお産の習慣が伺われる(註9)。

 長野地方では、仲人のことを「親分」といい、縁を取り持ってもらった夫婦はその「子分」といって、一生の間親密なおつきあいをする。お産が迫ると家人が提灯を下げて、親分宅へ奥さんを迎えに行った。つまり、仲人の奥さんが、トリアゲバアサンの役目を果たす習慣になっていた。
 産室はたいてい、納戸か、薄暗い北の間である。布団の上に油紙を敷いて、古布、ボロ布、麦のわらしべぶとん等を用意した。それを産婦はクッション代わりにおしりの下にあてがい、うしろだきにしたトリアゲバアサンに寄り掛かって、赤ちゃんを娩出した。初産婦だと、親分が後ろからお腹をさすってやり、背中、腰もさすりながら、いきみの呼吸を教えてやる。いよいよとなると気合いをかけて、タイミングよく産ませてやる。

 また、

 お産を「けがれごと」とする習俗は根強く残っていた。とくに、産婦と赤ちゃんのために使う火は、「けがれがかかる」といって忌む家が多く、産湯は、かまどの火を使わずに、庭先でわざわざたき火をしてわかした。トリアゲバアサンも、手伝いの家族たちも、のびた爪を真っ黒にしたまま、手など洗うこともなく、お産の世話をしていた。
 後産の娩出がすむと、産婦には産ぼろをあてがうだけで休ませ、三日目に、初めて「三日湯」と称して腰湯をつかわせた。えな(胞衣=胎児を包んでいる膜・胎盤・臍帯)の始末は、その年その年によって方角を決め、庭先や畑などに、穴を掘って埋めた。
                          (註9、101-103頁)

 「あのころの、農家のお産ときたら、ま、ブタの子のお産と、何にも変わりなくて」、「お産は汚いもの、と相場がきまってたもんで、清潔に扱おうなんて気はさらさら」ないお産だったのである。
 1931年(昭和6)年、長野市鶴賀に開業した小林ミツノは、資格のないトリアゲバアサンが取り上げていた分娩が難産になると、依頼されて闇路を自転車で転びながら駆け付けた。つくと、家の中で一番悪い部屋で畳を上げて汚いふとんの上に木灰とボロを敷き、その上で座ったままお産をさせていたのであった。家族を説得し、明るい部屋に清潔な布団を敷いてから助産したという(註10)。
 下伊那郡下条村に1937年(昭和12)開業した産婆も、初めてのお産にいってみると、畳を上げ、むしろを敷き、藁を置いて、その上にぼろを敷いて出産し、赤子の後の処理が大変だった(註11)。
 このような状況のなかで、近代産婆たちの地道な出産改革が始まっていく。藁と灰とボロの産床から、産布団に変えた。綿や油紙を使い、あるいは新聞紙を使用したり、ボロでもいいから洗濯し日光消毒するように指導した。妊婦訪問では解剖生理や、お産について説明し、産後も訪問し、食事の指導や過ごし方を指導した。その土地に開業してから数年から10年の月日をかけて、出産を変えていったのである。
 以上のように、新しく教育を受け試験に合格した産婆の開業者の数は確実に増えてはいったものの、特に村落部における出産の実態は、1920年代、1930年代になってもなお、旧来の産婆による出産があり、旧習にならったままのものがなかなか消えずに残り続けていた。一人くらいの新産婆が村にはいったとしても、実際に新しい近代の産婆として身につけた知識や技術を発揮して、地域に根付くためには時間を要した。出産を改革していくにはゆっくりと歳月をかけるしかなかったのである。

註1 『医制百年史』厚生省医務局、1976年
 2 川上武『現代日本病人史ー病人処遇の変遷』勁草書房、1982年
 3 『長野県県政史』第二巻、1971年.270頁
 4 『長野県県政史』第二巻、1971年.273頁
 5 『月刊 信濃衛生』第百七十六、大正十年二月十五日.第百七十七号、三月十五日
 6 『自大正八年至大正十一年衛生に関する書類 衛生組合』新村役場史料、松本市文書館所蔵
 7 『月刊 信濃衛生』第百八十八号、大正十一年二月十五日
 8 主に、1920年代後半から1930年代前半にかけて各地で開業した産婆への 聞き取り調査による証言から当時の出産の様子を知ることができる。
   序章第3節、註5,6,7,8参照。
   その他に、次のような自伝によるものもある。
   駒井秀子『助産婦さんに聞いたいのちにやさしいお産』自然食通信社、 1996年.
   永沢寿美『産婆のおスミちゃん一代記』草思社、1995年.
 9 藤田真一『お産革命』朝日新聞社、1979年 
 10 梅原康嗣、『長野県近代史研究だより』54号、長野県近代史研究会、1999年
 11 青木孝寿『信州・女の昭和史<戦前編>』信濃毎日新聞社、1987年


第2節 巡回産婆制度の成立と普及

 前述(本章第1節)したように、第一次世界大戦後、母子保健状況の深刻さが社会問題として認識され、ますますクローズアップされて、公衆衛生面からの母子保護事業の発達がみられるようになる。妊産婦に対する巡回産婆、妊産婦相談所、産院等の事業、乳幼児に対する乳幼児院、乳幼児相談所等の事業が年とともに急速に普及していった。しかしながら、当時の母子保護事業は概ね民間の手に委ねられており、その後もしばらくはその状態が続いていた。
 巡回産婆制度は、母子保護事業のうち、地域の妊産褥婦および新生児に対して、無料または低額で巡回診察や助産活動を行う事業である。わが国の巡回産婆制度は、1918年(大正7)、東京府巡回看護婦会が設立したのが初めとされる。その後市町村、公益団体、産婆組合などによって各地に設置されていく(註1)。
 日本赤十字社においては、1920年(大正9)に開催された第1回赤十字連盟総会の決議に基づいた妊産婦と児童保護事業の一環として、翌年日赤産院の建設が決定され、1922年(大正11)に竣工している。これに伴って、京都、和歌山、愛媛支部に妊産婦保護所がつくられ、長崎・兵庫支部で巡回産婆事業に着手している(註2)。
 長野県下では、第一次世界大戦後においてもまだ無医村や産婆のいない村が非常に多かった。1926年(大正15)『秘書雑件』(註3)では、県は「市街地ニアリテハ医師・歯科医師・薬剤師・産婆・看護婦等ノ分布充実シ居リテ、之レガ療属機関ニ不便ヲ感ズルコトナキ状態ニアリト雖モ、本県ノ如ク山間僻陬ノ地ニ散在セル村落等ニ於テハ、開業医ヲ欠キ隣村開業医迄数里ヲ隔テ居ル如キ処稀ナラズ。産婆・看護婦亦同様ニシテ、延テ県民保健上遺憾ノ点不尠、生前医師ノ診察ヲ受ケズシテ死亡スル如キ例ニ乏シカラズ。又産婆ノ不足ハ、乳幼児ノ発育不良及死亡ニ原因スル処甚大ナルモノ」があると論じている。1927年10月23日、27日の『信濃毎日新聞』によれば、無医村数107、産婆のいない村186が報告されている。東筑摩郡を例にとると、1918年に郡内37村中、産婆の開業していない村は19村あった(註4)が、上記『信濃毎日新聞』の報告でも1927年にまだ16村あり、産婆の普及はなかなか進まず、産婆不足の村の多かったことを物語っている。このような状況に対し、県は「各地ニ対シ村医ノ設置及公設産婆ノ督励ニ努メツツア」った(註5)。
 長野県下における巡回産婆は、1925年(大正14)4月南佐久郡南相木村に始まった(註6)。1926年6月9日の『信濃毎日新聞』には更級郡信田村に巡回産婆を設置した記事が掲載され、その他に上水内郡大豆島村、同郡津和村にもあり、「漸次普及の傾向にある」と述べられている。同年5月15日『信濃婦女新聞』には巡回産婆の組織のあるところは上水内郡津和村、棚村、芋井村、大豆島村、朝陽村、上伊那郡宮田村、東箕輪村、更級郡上山田村等と記載されている。県下における巡回産婆の設置は各地に広がり始めていた。その後毎年増加して、1936年(昭和11)には97カ村で実施するに至っている。1935年、財源は村費が多かったが、県費等の補助は97カ村中72カ所にあり、郡別では東筑摩郡17、上伊那郡15、更級13、上水内11などが多い(註7)。
 なお町村によって、「巡回産婆」、「公設産婆」、「常設産婆」と名称が異なっているが、役割や業務は同一のものと見てよい。
 長野県の町村における産婆設置の事例として、町の婦人会によって産婆を設置した上伊那郡高遠町、郡連合組合と日赤の補助により設置した東筑摩郡新村、県費補助によって設置した東筑摩郡今井村の例を以下に述べる。

1.町婦人会による独自な開業産婆の設置−上伊那郡高遠町
 高遠婦人会は、もともと1902年(明治35)頃から報国婦人会と称し、各種慈善事業を行ってきたが、一度も集会を持ったことがなかった。1907年、「此五月廿八日なる地久節の佳辰を卜して第一回の総会を開」き、この機会に会員の拡充を図り高遠婦人会として新たに発足した。会則ではその目的を、「当町婦人ノ親睦ヲ厚クシ婦徳ヲ養ヒ品位ヲ高尚ニシ、兼テ知能ヲ啓発シテ家庭ノ改善社会ノ進歩ヲ図ル」こととし、この目的を達するために、「1.名士の演説、談話,2.学術ノ講演及理化実験,3.料理法実習,4.各種の慈善事業,5.余興」の事業を行うとしている。会員は15歳以上の婦人であり、会費を凡そ10銭以下として、その都度幹事会にて決定することと定めている(註8)。
 高遠婦人会は1920年(大正9)3月27日、幹事会において、「産婆の開業者の当町になきを憂ひ、相当技倆ある産婆を迎へ、当町に開業せらるヽを望み、之が実現をみるべく」、同会が発起して、産婆の高遠町への招致事業を開始することを決定した(註9)。
 高遠婦人会長伊沢たけを総代として、以下副会長2名、特別賛助員6名および高遠町長、高遠小学校長、高遠警察分署長の12名を発起人として趣意書を作った。事業にあたる委員は14名の会員が各地区を担当している。開業経費として器械・材料設備費のほか、家賃および生活費半年分、自炊道具等を含み総額400円を見積もっている。以下は産婆招致事業の趣意書である。

   趣 意 書
  分娩は婦人の最も重んずべき事で御座いまして之を果たしますには各自が第  一に重きを置き安産を期待せねばなりません 我が町の有様をみますのに近  年文明の進運に伴ふ各方面の計畫も漸次其の歩を進め衛生などのことも人々  其の必要を感じ完全なる設備の要求を為しつゝありますことは私共のよく知  る所で御座います 然るに独婦人の姙娠時分娩時に於ける衛生を委托すべき  相當の助産婦の我が町に開業せらるゝものゝありませんのはたゞに我が町婦  人の不幸なるのみならず我が町の躰面上否實際上に於いて悲しむべき缺点と  存じます 私共は深く之を憂ひ相當技倆ある助産婦の當町に開業せられんこ  とを熱望するもので御座います
   この趣意により茲に本會が発起となり本部東部醫師方及町内有力者の御賛  助を得之が實現を期し度う御座います
   大正九年三月
      発起者総代
  高遠婦人会長  伊 澤 た け
          同  副会長  黒河内 ゆ う
同    上 沼 て つ
          特別賛助会員
                  豊 島 怒 平
                  矢 島   渉
                  山 浦 貞 三
                  北 原 政 司
   切 刀 於兎朔
   原   義 次
          高 遠 町 長 野 口 伝兵衛
          高遠小学校長  黒河内 大 門
          高遠警察分署長 池 垣 弥市郎
             (高遠婦人会関係書類、上伊那郡高遠小学校所蔵)

 委員は担当地区に会員を募り、寄付金を集めた。『高遠町助産婦開業賛助会員名簿』(上伊那郡高遠町高遠小学校所蔵)には、28地区、総勢225人の賛助会員名があり、寄附金総額は842円20銭であった。
 1921年4月11日には産婆井沢貞枝(記録によっては伊沢貞江の記載あり。年齢、出身等記載なし)より開業承諾の報を受け、婦人会は開業の準備を進めた。9月 29日には総会において約100名の出席のもと、井沢産婆が会員に紹介され、警察分署長の祝辞、医師による産褥中の衛生注意についての講演がもたれた。ここに高遠町の母子衛生の向上と幸福を願った開業産婆招致の目的を達成したのである。
 しかし、婦人会が当初願ったようにすべての出産が新しく招いた産婆によって取り扱われるようになるには時間を要した。1922年5月16日の婦人会では、「助産婦井沢氏の手にかゝる生児は、町内出産者の凡1/3のみ也。いかにかして全部を井沢氏の手にかくべきやら尽力すべき事」が協議されている。残る三分の二のほとんどは、まだ旧来の取上婆や親族による出産、あるいは無介助出産であったと考えられる。
 その後同婦人会では、1923年(大正12)になって出産組合の創立を検討している。これに先立って、同年1月の幹事会で、『週刊朝日』に掲載されていた滋賀県彦根公立病院産婦人科医長の計画による出産組合の記事を紹介し、同出産組合に対し細則照会状を出している。これを参考に検討したであろうと思われる創立趣意書の下書きとみられるものが残っている。<資料16>
 趣意書では、出産は「婦人にとって大切なもので、然も社會問題としても國家問題としても最も重視しなければならぬもの」であり、出産の無事は母親の健康、子供の健康、ひいては国民の健康を増すことであること、そしてこの問題は「婦人計りの問題でなく、男子の方も責任上対岸の火災視さるゝ」訳には行かず、また、「お産を天運視して何等衛生的の取扱をなさず、所謂取上婆さんの様な非現代的、非科学的の者の手にこの大切なお産を任せることはとうてい出来ない時代」であるとし、「妊産時の衛生改善」「相互救済」を目的とするこの「文化的組合」に、女性はもとより男性たちにも賛同、加入するよう訴えている。きわめて注目される趣意書である。
 なお、この趣意書は正式文書ではなく草案と思われる書類であり、その後の記録が残っていないため、出産組合が実際成立に及んだのか、その後の経緯はわかっていない。
 1920年に起こったこの高遠婦人会による産婆招致運動は、後に長野県下に広がっていく巡回産婆設置制度の先駆的な動きとして位置づけられるであろう。高遠婦人会では新産婆のことを「産婆」でなく、「助産婦」という名称を使用している。また、出産組合の創立趣意書にみられる男性への呼びかけ、取上婆への批判や「文化的組合」と称するなど、当時にあっては非常にリベラルな考えに立ち、活動の情熱が伺われる。発起人の一人である婦人会副会長上沼てつは、薬種販売業で高遠町会議員も勤めた上沼米太郎の妻で、長男は東京にて医院を開業している(註10)。1913年(大正2)高遠美以教会において受洗を受けている人物である(註11)。また事業担当委員の一人、馬島すゞ(註12)も教会関係者と親交の深かった一人であり、信者となるべきものとして名が挙げられている(金子家所蔵文書)。その夫は高遠小学校の眼科医を勤め、また東部各町村のトラホーム治療医を嘱託されその任を全うした。開業以来業務のかたわら患者の家を訪問して直接指導を行い、あるいは機会を捉えて講演会を開く等、衛生思想の普及向上に尽力した(註13)。このような推進者達の背景や、高遠町自体の文化的素地が、県下において先駆けて、このような進歩的な産婆招致活動が起こり得た要因として考えることができる。
 高遠婦人会による産婆招致や出産組合設立の計画は、民間の組織が自助努力として独自に始めた母子保護事業の一つとして価値のあるものである。
 今後もその他の人々の背景などの調査や、産婆の具体的活動、出産組合関連資料の発掘が課題である。

2.郡連合衛生会・日赤村分区の共同事業による巡回産婆設置−東筑摩郡新村
 東筑摩郡新村では、新村連合衛生会と日本赤十字社新村分区の共同の事業として、1926年(大正15)7月に巡回産婆を設置した。
 同村では、1926年4月東筑摩郡連合衛生会から産婆設置奨励の文書を受け取った。

  第四號
  大正十五年四月拾日
               東筑摩郡聯合衛生會
    各村長
    各村聯合衛生組合長殿
  産婆設置奨励ノ件
  本會事業トシテ産婆設置ヲ奨励シ左記ニ依リ奨励金交付可致候條之カ設置方  御配慮相成度及照会候也

  一、奨励金ハ一ヶ村分 金弐拾圓トス
  一、産婆設置ノ方法
    村各聯合衛生組合事業トシテ産婆ヲ設置シ(開業産婆ヲ可成嘱託セラレ    タシ)無料ヲ以テ一般妊産婦ノ診察、相談ニ應スルヲ目的トスルモノト    ス(事情ニヨリ三ヶ月毎ニ一回、雇入レ巡回又ハ妊婦ヲシテ数カ所ニ集    合セシメ一カ年四回ノ見込即チ妊婦ノ診察ハ分娩マデ平均三回ノ見込)    一回ハ一日乃至三日間ノ予定
    診察デー及場所ハ公示シ且ツ報告スルコト
  一、奨励金交付申請手続
    奨励金交付ヲ受クヘキモノハ予算書ニ産婆氏名ヲ附記シ来ル二十五日迄    ニ申請書ヲ提出スルコト但シ奨励金ハ申請書到着順ニヨリ五ヶ村ニ止ム    ルヲ以テ速ニ計画ノ上提出ヲ要ス到着順同日ノモノハ抽籖ヲ以テ定ム
                                 以上
      (『大正十二年衛生之部雑書類』旧新村役場史料、松本文書館所蔵)

 郡連合衛生会は各村に衛生組合の事業として産婆を置き、妊産婦に対する無料診療および相談事業を奨励した。設置に際しては、郡連合衛生会より1カ村に対し20円の補助を申込めば、先着順5カ村に対して行うというものである。
 ここで町村衛生組合および郡連合衛生会について説明しておく。
 1890年(明治23)内務省訓令「伝染病予防心得書」がそのまま県の訓令として伝達された。各町村の衛生組合は、この第1条「市町村ニ於テハ便宜衛生組合ヲ設ケ、清潔法、摂取法其他伝染病予防ノ事ニ就キ規約ヲ立テ、之ヲ履行スルヲ要ス」に基づき、市町村が衛生組合設立に踏み出したのが始まりである。しかし設置は遅々たるもので、1895年末では県内161町村設置、214町村未設置であった。1897年4月法律第36号伝染予防法第二十三条によりさらに進められ、長野県では 1900年に警部長通牒によって衛生組合規約表を示し、ほぼ強制的な督励が行われた。その結果1906年末には、全市町村において3,064組合の設立をみた。1908年(明治41)12月県令41号「衛生組合規程」の改正によって、市街地では約30戸、部落では15戸を一つの単位として組織され、清潔法、伝染病予防法、種痘の普及、規約違反者の処分などを目的に、地域における衛生活動実践の中心となった。各地区の衛生組合は町村連合組合に統一され、さらに郡連合衛生組合に統括されることとなる。連合衛生組合は郡長、警察部長、市町村長の監督下にあり、県衛生行政の枠内にあり、多分に上意下達機関という性格を持っていたことは否めない(註14)。
 東筑摩郡からの産婆奨励の達しに対し、新村は同年7月から産婆設置を実施し、翌1927年2月に産婆設置奨励金交付申請書を提出した。<資料17>
 この時巡回産婆となった山下ちづ古は29歳。1917年12月1日(当時20歳)に産婆登録をし、1925年4月東筑摩郡芳川村から新村に嫁し(旧姓渡辺)、開業していた産婆である(註15)。
 妊産婦診療の内容は、出産前2回、出産時、および出産後2回の計5回を計画した。消毒薬、脱脂綿、油紙等の材料費は公費負担であり、受益者の負担はない。また村内医師を嘱託とし、臨時には松本産婆会(註16)との連携により診療することとしている。
 産婆給料は1カ年360円、1カ月30円であった。その他、協議費、需用費、雑費等細かい予算が建てられた。消耗品は、年間の出産100人を見込んで予算を組んでいる。収入には、連合衛生会からの補助金はまだ計上されず、日赤補助金と指定寄付金となっている。この指定寄付金について村役場史料として『巡回産婆寄付金未納者調・昭和参年拾月参日調査』(『大正十二年衛生之部雑書類』新村役場史料、松本市文書館所蔵)が残されており、150名の氏名が連署されている。これによると1926年寄付金額の記載があるものは62名で、最高額17円、最低額20銭、総額86円75銭であった。1927年では126名、総額190円15銭である。予算総額からみると、東筑摩郡連合衛生会からの補助金20円は僅かであり、日赤の補助と、殆どが地域住民からの寄付によってまかなわれた。
 以前より衛生事務に対して民間からの献金は絶えず行われており、特に伝染病防疫の際は多額の寄付金が献金された(註17)。巡回産婆の事業も多くの民間寄付によって支えられていたと言える。
 なお、東筑摩郡連合衛生会の産婆設置奨励金は、1926年には「一カ村弐拾圓五カ村」「申請書到着順ニヨリ五カ村」であったものが、1927年連合会の予算によると、「十カ村ニ対シテ一カ村十五円宛補助」として10カ村分150円が計上されている。
 1929年(昭和4)年、新村における巡回産婆の実績は表11の如くである。
表11 新村妊産婦産児取扱成績                     
│妊婦実数 │同上延数│産児実数 │同上延数 │死産  │異常産  │   
│  149│  298│   89│  265│   1 │   2 │   
    (『昭和4年新村事務報告書』新村役場史料より作成、松本市文書館所蔵)
 妊娠中平均2回、産児平均約3回(出産時および産後2回とすると)は、ほぼ実施計画に従って診療が行われていると考えられる。経費は総額612円66銭であり、産児1人当たり、金6円88銭強と報告されている。また、日本赤十字社長野支部からの交付金は1929年度限りで1930年には打ち切られている。

3.県告示に基づく巡回産婆設置−東筑摩郡今井村
 長野県では1928年(昭和3)年5月24日県告示第282号により医師産婆設置費補助規程を定め、無医村無産婆の村に対して補助を開始した<資料18>。
 東筑摩郡今井村は、1930年3月5日今井村常設産婆設置規程による産婆設置を決議し、同月25日に県に対し産婆設置費補助申請を提出し、県費補助によって産婆を設置している。産婆給料1カ月35円、1カ年420円を設定し、補助規程に従い、その三分の一の額140円を県費補助金として予算案を提出している。産婆給料は 1932年には1カ月40円と値上げされている。
 今井村の常設産婆設置規程では、妊娠中2回、産後2回および助産料と分娩時の脱脂綿、消毒薬については無料である。4回以上の往診の要請、また分娩時使用の脱脂綿1包以上の使用については、実費を産家が負担することになっている。
 また今井村では、議決後直ぐに日本赤十字社長野支部東筑摩郡委員部宛に巡回産婆補助申請を行っている。日赤からは脱脂綿19包、ガーゼ30反が補助として送付された。日赤による巡回産婆補助は、今井村では1930年度を以て打ち切られている。
 産婆として着任した稲垣亀代は、1907年(明治40)生まれの23歳で、地元今井村出身者である。1923年弱冠16歳で信濃衛生会産婆看護婦講習所にて6カ月の講習を終了し、同年12月長野県看護婦試験に合格後、長野日赤に就職。翌年長野県産婆検定試験に合格した。1926年長野日赤病院を退職の後、群馬県佐波郡看護婦会に属し、1928年1月より東京府北豊島郡の産婆について実地研究していた。  1929年5月4日22歳にて東京府に産婆登録し開業の後、翌年4月1日より今井村に戻り、常設産婆となった。稲垣は1933年7月6日までの3年間余を勤め、北安曇郡大町より移転してきた清水安子(25歳)に交替している。何れも20歳代の若い近代産婆である。1935年に清水は上伊那郡赤穂村に移転し、東筑摩郡洗馬村から移転した竹内八重子が今井村常設産婆となった(註18)。
 今井村役場では次のような印刷物を村内全世帯へ1枚宛配布し、設置趣旨の徹底を図り、巡回産婆の利用を呼びかけている。

       巡 回 産 婆 設 置 に 就 い て
  今回今井村の事業で巡回産婆を設置し左の仕事を開始致しました
一、妊婦の巡回診察
一、分娩の世話
一、産後の巡回診察
       一、診察について
  若し妊婦とお気付きになられたら各区の衛生組合長又は産婆さんへ御申込下  さいそうすれば産婆が往診して胎児の様子や其の他詳しく診察しその後臨月  にも診察します、それから産気づかれたら役場へ御知らせになれば産婆さん  は出産に必要な脱脂綿と消毒薬品を以て駆け付け懇切に産婦や出生児のお世  話を致します、更に産後も往診して嬰児や産婦の手當を致します
二、分娩の用意は
  産前に伺いました時に分娩の用意はご相談を願う事にして産婆は脱脂綿と消  毒用の薬品を持って参ります
       三、回数と材料
  診察と消毒薬品や脱脂綿は無料でありますから謝儀の心配はいりません然し  診察は四回以上を請求した場合は一回ごとに金五十銭、脱脂綿一包以上を要  した場合は實費御支拂を願います
       四、相談と聞き合せ
  妊産婦は今井村の御方で有る無しにかヽはらず今井村地籍の内で御産をなさ  る御方や現在居住し居られる人は皆診察いたします。然し今井村の御方でも  他町村の地籍場合はこの限りではありますん、御若い御婦人の中には未だ妊  娠を衛生組合役員や産婆に打ちあけて御相談なさることを厭ふ御方がありま  すから特に家庭に於いてもご注意を願います。それから産婆さんの方を訪問  して妊娠か否かの診察を受けたり衛生方面の相談を致しましても親切にお世  話いたします。尚詳しい事わからない事は本村役場衛生係にお聞き合わせ下  さい
産 婆   本村下新田   稲 垣 亀 代
    五、特にご注意
  特にご注意申し上げて置きたい事は産婆がいろいろ親切に仕事を致しました  からとて謝礼の意味又は祝の意味で金品を送るとか出産祝に招待するとか云  ふ様なことをしてはいけません若しなされてもお断り致します
        六、勤務は
  自午前八時 至午後四時   役場
  日曜祝祭日及朝晩は     自宅
    (『昭和五年産婆ニ関スル書類』旧今井村役場史料、松本市文書館所蔵)

 この頃の女性たちの間では、まだ「御若い御婦人の中には未だ妊娠を衛生組合役員や産婆に打ちあけて御相談なさることを厭ふ」状況があった。若い新しい産婆の出産介助には、抵抗を持っている人々も少なくなかった。見知らぬ新しい産婆より、妊産婦にとっては遠慮なく相談できる身内や、旧来の産婆でよく事情のわかった者によって介助される方がよいにちがいない。新産婆によって近代的で衛生的な出産を広め、それによって母子保健衛生の向上を計るには、こうして役場からあえて注意を促す必要があり、それによって巡回産婆の利用への抵抗が緩和され、少しずつ新しい産婆による出産が浸透していくようになっていった。
 1930年度から1935年度までの巡回産婆事業成績は、表12の通りである。
 この制度は、1954年(昭和29)、今井村が松本市に合併されるまで継続された(註19)。

 表12 今井村常設産婆事業実績                    
│  年 │妊婦実数│同上延数│産児実数│ 同上延数│ 死産数│異常産数│
│ 1930年│ 163│ 275│ 146│  480│  6 │   1│
│ 1931 │ 116│ 230│  94│  208│  3 │   6│
│ 1932 │ 162│ 399│ 136│  207│  7 │   9│
│ 1933 │ 156│ 294│ 132│  311│  4 │   9│
│ 1934 │ 186│ 558│ 136│  272│  2 │   2│
│ 1935 │ 161│ 472│  99│  297│  4 │   2│
                       (今井村役場史料より作成)

 県告示による産婆設置は、その他に1928年(昭和3)南佐久郡平賀村の例がある。南佐久郡平賀村は、同年7月14日村会において可決し、7月20日県に対し申請を行った(註20)。平賀村産婆設置規程および産婆執務規程によると、産婆の診療を受けようとするものは、先ず村長に申し出る。申込後は出産後までは、日を決めて産婆が巡回診療をするが、その回数についての規定はない。また村内何カ所かに産婦を集め、産婦に慰安を与えるよう出産・育児に関する講話を行うとしている。診療、助産、材料については無料であるが、薬品のみは各自が負担することになっている。産婆の給料は月額60円であり、入手した資料の中では1936年に産婆を設置した上伊那郡伊那村(註21)とともに県内最高額であった。
 1935年、県費等の補助による巡回産婆設置は、巡回産婆設置村97カ村中72カ所であった(前述)。しかしどの村に県の補助があったかすべては明らかにしえていない。

4.その他の援助主体による巡回産婆事業
 諏訪郡平野村では1925年8月、平野村連合衛生会が個人家屋を借り、済生岡谷産院の経営を開始した。翌年、平野村方面助成会が設立されこれを引き継ぎ、無報酬で嘱託医師、産婆・産婆見習い生を職員として、妊産婦の無料診療、製糸工場の妊婦無料診療・相談を行っている。1928年、岡谷地方社会事業協会にこの事業は移行されたが、翌年産院の経営は廃止された。以後貧困妊婦の給料を岡谷産婆の会が行った(註22)。
 社会事業協会の事業として巡回産婆事業を行った例として、上伊那郡東春近村が挙げられる。東春近村社会事業協会は、1923年関東大震災救援のための義捐金を募る方法として、寺が行う托鉢という形で実施した。その他の宗教、教育関係のいくつかの団体が協力し、被災地に義捐金を送るとともに、村内貧困者に対しても救援を行ったのが前身となり、1925年12月10日皇太子降誕記念事業として「社会事業協会」が設立された。協会の事業として巡回産婆事業は、1928年(昭和3)4月1日よりはじまった。妊産婦は診察回数にかかわらず、出生または死産届の際に1円を会に納めることとなっている。また出産の際には脱脂綿1包が進呈された。他町村からの依頼は5円であった。1929年の予算によると産婆給料444円、産婆手数料115円となっている。当時村内には年間に140〜150の出産があり、その半数が巡回産婆を利用し、半数はその他の産婆あるいは取上婆によって処理されていたと見ていたようである(註23、24)。
 また、愛国婦人会長野県支部は、1921年に児童健康相談所を附設以来、母子保健事業を推進してきたが、巡回産婆事業は御大礼記念行事として1928年(昭和3)にはじめ、1934年まで継続した(註25)。
 1933年(昭和8)12月8日『信濃毎日新聞』によると、日本赤十字社長野県支部では、産婆施設の希薄な方面20カ所くらいに公設産婆設営を促した。1カ所 200円内外の奨励金を交付するとともに、県社会課の肝煎りで既設46カ町村へも補助金を出す方針で予算3,500円を計上した。また、事業としてどこの産婆にかかっても、一人当たり10円程度の費用を補助することとなった。

5.巡回産婆の事業内容
 巡回産婆の診療内容や受益者の負担については、各地域の事情に応じて、標準診療内容や使用料、巡回産婆規程の適応範囲などに差違があった。
 東筑摩郡塩尻町は、1932年(昭和7)4月1日より開始した。町内に開業していた産婆の中から町長が巡回産婆を任命した。産前2回、産後2〜5回、分娩往診は無料であるが、それ以上の往診について1回につき50銭を産婦の負担とした。産婆給料は助産1人につき2円である。産婆は4人おり、産家の希望によって選択された。また産婆は、毎月25日現在で産家の認印をもらったものを巡回動静の報告として町長に提出することが義務づけられている(註26)。
 諏訪郡境村では、1934年(昭和9)4月より常設産婆を設置していた。1936年ノ住民向けの配布物によると、区長あるいはその親族と思われる個人宅を借用して村内に2カ所の産婆所を設けた。日割を決め、各所に月3回ずつ産婆が出張し診療を行っている。診察や材料費については一定の回数、分量までは無料と記されている。境村の住人のみに適用され、境村出身者でも他町村に出る場合は適用されないこととなっている。村内には、「御婦人方ノ中ニハ、未ダウラ若イ中ハオ姑ヤオ舅又ハ小姑ナドノ氣兼ヲシテ、オ産婆ニカヽルコトヲ遠慮シタリ又産婆ニ相談シタリスルコトヲ厭フオ方ガアル」と聞いているが、「御家庭デ特ニ氣ヲ利カシ産婆ヲ利用スル様オ勧メスル様願ヒマス」と常設産婆の利用を勧めている(註27)。
 下高井郡延徳村では1936年(昭和11)から始まった(註28)。これには延徳村婦人会の協力があったものと思われる。巡回産婆使用料は生産1円、死産80銭で、死産証明書についても80銭を徴収した。分娩介助はせず診察のみの場合は3回以上50銭、2回以下30銭とした。他町村民の使用料は分娩1回につき3円、診察は1回につき50銭である。同村住民で他町村で分娩する際の産婆出張の場合は、郡内、郡外、県外と分け交通費、宿泊費、日当について規定した。使用料は、毎月15日締めで25日に徴収することとなっていた。産婆は「助産出張報告」として各妊産婦について出張の月日を報告した。ここでは住民向けの印刷物で、産婆の使用を勧めると同時に、妊娠したら5カ月目からは月1回の診察が必要であることや、また「産婦ノ未ダ肥立タナイ時ニ産見舞ニ行クノハ遠慮シテ、三日カ五日后ニ行ク様ニシテ下サイ。産子ノ力ニナルト称シテ、無暗ニオ粉ヲ御馳走ニナル習慣ガアリマスガ、之レモ遠慮シタ方ガ宜シイト思イマス。取上婆サント称シテ半年モ前カラ頼ンデ置ク習慣モアリマスガ、之モ遠慮シタ方ガ宜シイト思イマス」といった出産習慣上の注意を載せ、「産婆ノ方カラモ色々御相談申上ゲタイコトモアリマスカラ、蚕上リノ頃オ集リヲ願ツテ各部落毎ニ懇談會ヲ開」くなど啓蒙をはかっている。因みに、北信濃地方や小県郡には、子供が産まれると近親者が米の粉をもって産見舞いに行く習慣があった(註29)。
 上水内郡神郷村は、1937年5月から巡回産婆を設けた。妊婦が適当な手當なく種々の事故に遭う事もたくさんあった模様で、「衛生上且経済上重大ナル社會問題」であるので、遠慮なく申込み、利用するよう呼びかけている。神郷村では3人の巡回産婆を嘱託し、使用料は戸数割賦課額別に5等級に分け、等級によって使用料1円から6円に区別した。巡回産婆設置規程4条には、「妊娠五ヶ月ヨリ必ズ申込ベシ。出生ノ時ノミ来診ヲ受ケントスル時ハ、支障アリテ應診不可能ノ場合アルベシ」と規定し、妊娠期からの受診の促進を図ろうとしている。妊婦からの申込み後、毎月1回の訪問と、出産介助、出産後3日間の手当が診療内容である(註30)。
 上高井郡瑞穂村では1938年5月8日に巡回産婆設置を決議している(註31)。瑞穂村巡回産婆規則では「法規ノ定ムル資格ヲ具備シ相當経験アル者ノ中ヨリ」村長が定め、給料は毎年度予算額の範囲内で村費より支給された。診療内容は、分娩前4回、分娩後5回の診察および助産を標準とし、生産1円、死産80銭を徴収した。また本村出身者の実家での出産も同様の料金であり、他町村民の出産取扱は3円であった。同村住民の他町村への出張は実費を徴収した。また、規則第4条には、産婆は「産婦名簿」を備えて妊産婦取扱に関する事項を診療の度に記入し、村長の検閲を受けることが定められていた。第8条には産婆の診察を受けた産家の世帯主が「巡回産婆台帳」に捺印することが定められた。巡回産婆の行った診療について記録が残され、村の管理下に置かれた。既に1930年産婆規則施行細則第5条<資料19>において、産婆は規定の様式に従って名簿(産取扱簿)に必要事項を記入し、10年間保存することが義務づけられている。巡回産婆の記録は、産婆個人としての記録とともに、村の記録でもあった。
 診療内容の違いは、妊娠中の診察、助産、産後の手当が主たるものである。妊娠中の診療回数に規定がないもの(平賀村)、妊娠中2回、出産時産後2回計5回を標準とするというもの(新村、今井村)、その他に日程を決め出診したり(境村)、産婦たちへの講話、講演(平賀村、延徳村)を行ったりしている。
 産婦の負担については、診察、材料費すべて無料とするもの(境村、伊那村,新村)、一定回数,量以上の診療や材料に対し負担させるもの(今井村、塩尻町)、一定料金を一括納入とするもの(中沢村)がある。
 延徳村、瑞穂村では生産1円、死産80銭と規定している。また神郷村は戸数割り賦課額別に五等級に分類し、等級により使用料を区別している。
 規程適応の範囲については、出身を問わず村内居住者のみに適応するもの(境村)、里帰り分娩は村民と同等の扱いとし、他町村住民の依頼や村住民の他町村への出張などに規定を設けている(延徳村、瑞穂村)など様々である。
 産婆の給料は一カ月30円から60円であった。
 多くの村で、村役場あるいは衛生組合長や産婆を通して妊娠5カ月頃に届出をするようになっている。また実際の取扱について、産婆は町村長に報告を行っており、妊産婦の取扱については町村が管理していた。塩尻町では巡回動静に関して、産家の捺印の上、町長に報告した。延徳村では、書式にしたがって助産出張報告をしている。瑞穂村でも「産婆名簿」に妊産婦取扱に関する事項を記載して、村長の検閲を受け、さらに様式を規程に定め、それにしたがって「巡回産婆台帳」に巡回、助産の記載をし、産家世帯主は捺印をすることが規定されている。
 巡回産婆による妊産婦の取扱に関する記録は、今井村役場に『自昭和十年三月三十日至昭和十一年十二月三十一日 姙産婦臺帳』として残っている。次節で、この中の事例から、当時の巡回産婆による出産取扱の状況等を検討する。

註1 『医制百年史 記述編』厚生省医務局、1976年.244-247頁
 2 亀山美知子『近代日本看護史 T日本赤十字社と看護』ドメス出版、1984   年.192頁
 3 『長野県史』近代資料編第八巻(二)衛生・災害、1987年.67-68頁
 4 『大正三年衛生之部 衛生組合ニ関スル件』旧新村役場史料、松本市文書   館所蔵
 5 註3に同じ。
 6 『長野県政史』第二巻、1972年.601頁
 7 註6に同じ。
 8 『会誌 高遠婦人会 明治四十一年五月創立』上伊那郡高遠町高遠小学校   所蔵.『長野県史』近代資料編第八巻(一)戸口・社会集団、1987年.    969-972頁
 9 『従大正四年五月 高遠婦人会会誌』上伊那郡高遠町高遠小学校所蔵.
   (『長野県史』近代資料編第八巻(一)戸口・社会集団、1987年. 969-   972頁)
   『長野県史』近代資料編第八巻(一)戸口・社会集団、1987年.973-976   頁
 11 『大正四年六月改ム受洗控 金子所有』(上伊那郡高遠町 金子文子氏所   有)による
 10 『高遠町誌人物篇』高遠町誌刊行会、1986年
 12  註9に同じ。馬島すゞは若宮、殿坂を担当した。
 13  註10に同じ。
 14 『長野県政史』第1巻、222-224頁.496-501頁.
 15 『大正十二年衛生之部衛生関係綴』旧新村役場史料、松本市文書館所蔵
   山下ちづ古の産婆名簿訂正願と産婆謄本下附願による。
 16 『月刊 信濃衛生』第二百二十二号(1924年(大正13)12月15日)に、松   本産婆会総会が開催され、会の規約一部改正された記事が掲載されている。
この記事によると松本市における産婆数は約40人であるが、実際に開業しているのはその約半数であった。
 17 『長野県政史』第1巻、224頁.
 18 『月刊 信濃衛生』第三百四十九号(1935年(昭和10)7月1日)
異動欄ー産婆の異動の記載による
 19 『今井地区誌』今井地区誌編纂会、1990年
 20 『長野県史』近代資料編第八巻(二)衛生・災害、1987年.343頁
 21 『駒ヶ根市誌』現代編上巻、1979年
 22 『復刻 岡谷市史』中巻、岡谷市、1984年
 23 『東春近村誌』東春近村誌編纂委員会、1972年
 24 『伊那市史 現代編』伊那市史編纂委員会、1982年
 25 『愛國婦人會長野縣支部沿革誌』愛國婦人會長野縣支部、1941年
 26 『昭和九年 庶務関係書類 塩尻町役場』塩尻市塩尻市役所所蔵
 27 『公文書綴 区長小林泉・平出亮 昭和十一年度』葛窪共有、諏訪富士見   町
 28 『雑書綴込 延徳村長 自昭和十一年二月至昭和十二年十二月』中野市中   野市役所所蔵
 29 『日本産育習俗資料集成』恩師財団母子愛育会、1975年.303頁
 30 『公文編冊 石区 昭和十一年二月末より同十四年二月末まで』石共有、   上水内郡豊野町石
 31 『村布達綴 昭和十三年』針田共有、飯山市瑞穂


第3節 『妊産婦台帳』に見る出産の実態と巡回産婆の活動

 今井村役場史料の中に1935年、1936年、1937年の『産取扱簿』(註1)と『姙産婦臺帳』(註2)が残されている。
 『産取扱簿』は、1935年(昭和10)1月3日分娩より翌年1月1日分娩までの 108人、1936年1月1日分娩(前年分に重複)から1937年3月6日分娩までの104人、1937年3月13日分娩より12月27日分娩までの76人の産婦の記録である。これは、今井村における出生数の約6割から7割を占めている。記載項目は本籍、住所、戸主との続柄、職業、氏名、生年月日、初診年月日、初産経産別、出産別、男女別、出産月日時、出産場所、医療の有無、備考欄である。これは1930年の県令第53号産婆規則施行細則第五条によって産婆に義務づけられた記録の保存によるもので、定められた様式に添ったものである。なお、1936年6月より1937年10月までは、およそ月に2回ずつ「永井」の押印があり、役場もしくは警察による検閲があったものと思われる。
 『自昭和十年三月三十日至同十一年十二月三十日 姙産婦臺帳』には、167人の記録がある。内容は、氏名、年齢、最終月経、孕妊回数、分娩予定、診察初回〜六回、使用材料、出産月日、陣痛開始(時刻)、破水(時刻)、胎児分娩(時刻)、胎盤娩出(時刻)、産褥経過、位置(分娩機転を示す)、性、生死、体重、身長、発育状態、頭囲、胸囲、臍脱、備考欄からなっている。このうち、身長、頭囲、胸囲には全く記入がない。発育状態にはまれに記入が見られるが、妊娠期の診察状況から分娩の状況はかなり詳細に記録されている。使用材料の項目には、「脱脂綿一包、油紙一組、ガーゼ三米」など記録され、村の巡回産婆が介助した出産の記録であることがわかる。これが産婆が直接記入たものか、産婆の報告により役場職員が記録したものかは定かではないが、巡回産婆の診療の実際を映し出す貴重な記録である(表13)。
 表13のすべての症例は今井村での出産である。前節で示したとおり、各町村の巡回産婆規程には諏訪郡境村、下高井郡延徳村等、本村住民と他町村住民の扱いを分けて規定しているものもあるが、今井村の常設産婆設置規程にはその規定条項はなく、『妊産婦台帳』『産取扱簿』の中に今井村以外の出産は見あたらなかった。
 今井村常設産婆設置規程では、「第五条 妊婦ハ姙娠五ヶ月迄ニ村長ニ届出スルモノトス」とされているが、初診の時期は、姙娠5カ月から診察を受けているものは僅か3人にすぎない。妊娠3カ月に受診しているものが1名あった。ほとんどの症例は妊娠期より診察を受けているが、妊娠10カ月および分娩時初診のものが約半数を占めている。分娩時が初診であったものは20人あった。初産婦においては65%が姙娠10カ月あるいは分娩時の初診となっており、「御若い御婦人の中には未だ妊娠を衛生組合役員や産婆に打ちあけて御相談なさることを厭ふ御方があ」った状況を裏付けている(本章第2節3参照)。
 診察回数は1、2回のもので3分の2を占める。診察が開始されてからは、月に1回、分娩間近では1カ月の間隔を置かずに診察している。また双胎や妊娠中毒症、その他異常所見が認められるなど、場合によっては頻繁に診察を行っていることがわかる。分娩時の使用材料は脱脂綿、油紙、ガーゼまたは臍包帯がセットとなっている。こうした衛生材料を使用した衛生的な出産の取扱が広まっていく様子が伺われる。破水時刻、分娩時刻、胎盤娩出時刻はかなり大ざっぱなものではある。産室に必ずしも時計があったとは限らないであろうし、すべての手当てが終わって記憶によって大体の時刻を記したものであろう。臍脱の日数がほとんどの例に記されており、4〜11日である。産後も少なくとも臍の緒が脱落するまでは訪問をしていたと思われる。
 167例のうち9例が死産であり、死産率に換算すると53.8であった。これは  1935年における長野県の平均的数値にほぼ同じである(第1節参照)。9例のうち5例は分娩時の難産による死産で、陣痛促進、鉗子分娩、穿顱術などすべて医師による機械的処置を受けている。このうち1例は分娩から14時間後に母親が死亡した妊産婦死亡例である。3例は子宮内胎児死亡、あるいは早産による分娩、1例は骨盤位であるが、この4例には医師の診療の記録はない。医師による医療処置の記録があるものは、全部で9例あった。上記死産に至った例を含め、他に微弱陣痛や弛緩出血に対する投薬、骨盤位による仮死分娩、過熟児のための鉗子分娩である。7例が同一医師名であるが、他に2名の医師がそれぞれ1例ずつに立ち会っている。
 今井村の規定には記述はないが、同郡の新村の規定にあったように、異常が起こった場合、異常の予測される場合は村内の嘱託医師を呼び対処していたとおもわれる。しかし、医師の診療がなくても、後陣痛が強い場合に巡回産婆が投薬している例がある。ごく簡単な対症療法的な薬は医師の了解のもとに、産婆の判断で処方していたことが考えられる。
 巡回産婆は昼は妊婦の健診や出産後の手当に出かけた。妊娠期から産褥期にかけては継続的に診療、世話を行い、夜間も待機して出産に呼ばれれば産家に赴いた。無料配布のガーゼ、脱脂綿、消毒薬等を使用し、清潔で衛生的な出産を行い、正常産に関してはごく軽い疼痛止めの処方なども行い、分娩介助や手当を行っていた。特に異常と疑われる場合には、継続して頻繁に巡回し、分娩または出産後の異常時には医師を呼び、医師によって鉗子分娩等が家庭分娩の中でも行われるようになっていった。村の後ろ盾もあって、巡回産婆の活動は徐々に村に浸透し、衛生的な近代の出産スタイルへと変革されていった。

註1  『昭和十年 産取扱簿』今井村役場史料、松本市文書館所蔵
    『昭和十一年 産取扱簿』今井村役場史料、松本市文書館所蔵
    『昭和十二年度 産取扱簿』今井村役場史料、松本市文書館所蔵
 2  『自昭和十年三月三十日至同十一年十二月三十日 姙産婦臺帳』今井村    役場史料、松本市文書館所蔵
    


 


終 章 本論文のまとめと残された課題


第1節 長野県における近代産婆の確立過程

 私は本論文において、長野県における近代産婆の確立過程を、1874年の医制以降、1907年に信濃衛生会が産婆養成を開始するまでを長野県近代産婆の成立期、1920年代から1935年頃までを近代産婆の実質的な確立期として考えた。1910年代は、産婆数が増加し、新・旧産婆が入れ替わっていく過渡期といえる。
 第2章において、長野県における近代産婆の成立について、町村役場史料から法的な整備のあとを辿り、『長野県統計書』から産婆数の推移を検討した。また、信濃衛生会発行雑誌『月刊 信濃衛生』の記事により、信濃衛生会における産婆養成と産婆試験の実態を検討した。長野県の産婆数は1910年代まで、全国的動向に比較すると極めて少なく、産婆の普及は最も遅れた県のひとつであったことが明らかとなった(第2章第2節参照)。
 1899年全国統一の産婆規則以前、各地方に管轄が任されていた時期の長野県独自の産婆は、ほとんどが、旧来の産婆がそのまま鑑札を下附されただけの「仮免許産婆」(「鑑札産婆」)として営業を続けていた状態にあり、産婆営業規則以降の県の試験に合格した「県免許産婆」の数の増加も微々たるものであった。試験資格が文言として謳われてはいても、実際にはその効力を発揮して、どの程度機能していたかを確認することができなかった。この間の産婆は、履歴では医師のもとでの修業を行っているものが確認されたが、どのような修業内容であったかはわからない。長野県下において、本格的な新しい産婆の養成は、信濃衛生会による産婆養成以前にはほとんど見られていなかった。
 長野県における近代産婆の養成の始まりは、1907年の信濃衛生会による。県下の産婆数が増加するのは、日露戦争中に設立されたこの信濃衛生会による産婆講習開設以後からで、その後は教育を受け、試験に合格し、資格を持つ新産婆が増加していく。
 新・旧資格別の産婆数を見ると、1912年には既に新旧の入れ替わりが起こっており、新産婆は旧産婆の2.7倍となっていた。1920年代にはほとんどが新産婆となっている。信濃衛生会の新産婆養成に果たした貢献は大きかった。
 しかし、産婆の数が増え、各町村に近代の産婆が存在するようになっても、地域の実体として、近代産婆の介助による近代の出産が県下に普及し、近代産婆の活動が確立するのは1935年頃である。
 第一次世界大戦後、全国的に母子保健事業が推進されていく中で、県下でも 1920年後半より各町村において巡回産婆事業が始まっていく。この巡回産婆事業は、県下の産婆のいなかった村落部へも広く近代の産婆を普及させていった。本論文の第3章では長野県の巡回産婆の事業の展開を中心に述べ、さらに巡回産婆によって介助された症例の分娩記録から、近代産婆確立期の出産の実体と産婆の活動について検討した。
 1920年、高遠町婦人会による産婆招致治運動は、県下において先駆け、民間から始まった、町への産婆設置事業として意義深いものであった。その後、連合衛生会や日赤、社会事業協会などの公益団体による巡回産婆事業が展開されはじめ、徐々に県下に普及していった。1928年には県告示による医師産婆設置費補助規程が制定された。これによって、県下の産婆のいない村への産婆の設置がさらに進んでいった。
 巡回産婆による出産介助例の記録からは、産婆は妊娠期から継続的に診察を行っていた。しかし出産直前に診察を受ける例、あるいは出産時が初診という例も少なくなかった。出産においてはガーゼ、綿花、油紙等、衛生用品を使用して出産を介助していたこと、産後も少なくともへその緒が脱落するまでは訪問をしていたことがわかった。また、異常の際には医師によって医療処置が施されていたこと、疼痛に対する処方といった簡単な投薬は産婆によって行われていたことが明らかとなった。医師による鉗子分娩や陣痛促進などの医療技術の実践が、家庭の中において披露され、人々の生活の中に広がっていく様子がわかる。
 また、第3章第1節にみた、開業産婆たちの活動から、藁や灰の上での坐産や、三日湯などの不衛生な出産の旧習が、ひとつひとつ取り除かれ、新しい近代の出産スタイルに変えられていく様子も伺われる。
 産婆規則ができ、長野県に本格的な産婆養成が始まった近代産婆制度の成立期から、約30年の月日をかけてようやく近代産婆の活動は地域に根付いたと言える。
 それでは、長野県が、全国でも最も産婆数の少ない県のひとつであり、産婆の普及が遅れ、近代産婆の確立に時間を要した要因は何であったのであろうか。
 まず、行政側に、新産婆を作り出そうとする積極的姿勢はみられていない。成立期における長野県の産婆の規制(鑑札下附、産婆営業規則)を見ても、適用は非常に緩やかであった。地方行政にとって新しい産婆を養成し、県下に普及させることは、お金と時間、労力のかかることであった。広い長野県の隅々にまで充分な新しい産婆数を確保するのは容易なことではなかったであろう。質よりも量をとりあえず確保しておくためには、旧産婆を利用し続けるしか方法はなかったというのが県の事情であったと考える。1908年の通常県会における警部長の答弁の「若モ産婆ノ名簿ニ登録ガナイカラト云ッテ、サウ云フ者ヲ非常ニ嚴重ナ取締ヲシタラ此出産ニ非常ニ迷惑ヲ来タスダラウト思ヒマスカラシテ、先ヅ以テ其方ハ甚シキ營業的ノ者デナイ限リハ黙認ヲシテ置クト云フ有様デス」によってそのことが示される。出産介助者を確保する必要性はあっても、行政側から積極的に規制を設け、新しい産婆を作り出し、普及させていこうとする姿勢は、1907年(明治40)に始まる産婆養成まではほとんど見られなかった。旧来の産婆に対し鑑札を与えるのみ、あるいは簡易な試験を施すのみで、何とか産婆数を確保し続けようとしていた。
 ふたつめには、新潟県の例のような具体的、直接的に産婆養成を提唱し推進していく医師やそれに続く産婆の不在があげられる。いまのところ、そのような医師、産婆は見いだせていない。ただし、長野県医師会は、1909年に看護婦規則の発布についてを、1910年には看護婦検定試験制度を設けることを県知事に建議している。1911年には医師会において、産婆および看護婦簡易養成の方法如何という知事諮問に対し、「各郡医師会ヲシテ当該郡都市ト協同シ適宜是ガ養成ノ方法ヲ講ゼシムルヲ可トス」とし、看護婦については「女医学校、産婆学校、看護婦養成所及ビ之ニ該当スル場所ニ於テ満1カ年以上修学シタル証明ノアルモノ」「病院及ビ医家ニ在リテ満1カ年ノ修学ノ後、半年以上実地練習ヲ為シ其証明ヲ得タル者」という資格を掲げている。医師会では産婆よりむしろ看護婦養成に力を入れていったと考えられた。
 1910年代以降、産婆数は増えていったものの、産婆たち自身が自律的に充分力を発揮するための産婆会といった職能組織を結成することもなかなかできなかったと思われる。産婆に関する医師および医師会の動き、産婆組合などの職能団体の活動については今後の研究課題としたい。
 また、長野県の広く、山間僻地が多いという地理的条件も挙げられる。産婆数が増加しても、都会に集中する傾向がある。農村部や僻地まで浸透するのは難しかったであろう。
 次に住民側の要因として、経済的理由があげられる。第3章第1節でみた、『月刊 信濃衛生』への僻地の産婆による投書(57-59頁)には、異常の際、町の医師にかかるお金に悩んでいるうちに時間が経ち、助かるべき命を落としてしまう例があることが述べられている。経済的な余裕ができなければ、現金を支払わねばならない、新産婆や医師にはなかなかかかろうとしなかった。ごくわずかな謝礼ですんでしまうトリアゲババを頼む方が当然とされた。
 開業した新しい産婆たちも、開業当初は、診察や出産介助料金にはかなり融通を利かせていた。貧しい家庭からはもらわない場合もあった。産家の方から、お金の代わりに芋や大根、お米などを持ってくる場合もあった(註1)。
 さらに、地域の人々の中に古い出産慣習が根強く残り、新産婆の出産介助が根付くのを阻害していた別の要因として、地域住民の新しいものへの強い抵抗感がある。
 1910年代は産婆が増加し、新旧交代の過渡期であった。1910年の年間産婆一人当たりの出産数は統計上は236.4人であるが、現実的には産婆一人が介助するには無理な数値と思われる。長野県の出産数を統計上に現れた産婆のみが介助していたとしたら、到底まかないきれない数である。よって多くの出産は、統計に現れない、つまり登録を受けない無資格の旧産婆や、親類縁者、近隣の人々によって介助されていたであろうことは容易に推測される。
 高遠町婦人会の例のような一部の地域では、1920年頃より出産や出産介助に対する意識の高まりをみせている。しかし高遠町でも実際に招致した新産婆による出産は、招致から半年後で同町の出産児の約3分の1を介助できるに過ぎなかった。一般的には東筑摩郡今井村巡回産婆についての村の広告に見るように、1930年頃においてもまだ、新しい産婆を嫌う風潮があり、旧式の出産が残っていた。1927年(昭和2)、長野市の若穂綿内地区で開業した山崎キヨの証言(註2)でも、「お産にゼニなどかけることはない、産婆を頼むと、脱脂綿を買えのどうのと面倒臭い、赤ん坊を産むのに他人を頼むなど恥である、などの気風が根強かったため」に、開業初年はたったの10人しか取り上げることができなかった。それが翌年、キヨが旧・川田村の巡回産婆となると、産婦は1円を村に納めればよかったので、客はいっきに60人に増えた。しかしこの1円を払うのが惜しく、経済的貧しさからトリアゲバアサンを必要とする人々がまだあったのである。キヨが「産婆に赤ん坊を出してもらえば安心」という評判を定着させるのには、開業から約10年かかったという。
 ずっと昔から続いてきて、自分の母親も周りの人も同じに行なってきた習慣を、わざわざ変えようなどとは、簡単には思わないであろう。
 村上(註3)は、旧産婆が長く残り続け、新しい産婆が地方にまで行き渡って一般に利用されるのに時間を要した大きな理由として、「新産婆の多くは若い娘だったから、子供を産んだこともない未経験者に何がわかるという気持ちが強く、自らも子を産み他人の子を取り上げた経験の多い年寄りの産婆を信頼したのは一応無理のない話だった」と述べ、また新産婆は脱脂綿や晒しが必要であるといって金がかかるという苦情、新産婆が従来の慣習を無視することに対する心理的抵抗を挙げている。
 根強く残る出産への不浄観やそれに基づく古い習慣を取り除き、近代産婆による衛生的な出産への変革は、産婆たちの努力だけでは無理であったに違いない。巡回産婆制度のように、連合衛生会や町村などの上からの後押しがなければ、広く普及していくことは不可能であったであろうと思われる。県下における新産婆の活動の確立は、行政的なバックアップと、産婆たちの熱心で地道な活動によってなされたといえるのではないだろうか。

註1  藤田真一『お産革命』朝日新聞社、1979年
    西川麦子『ある近代産婆の物語 能登・竹島みいの語りより』桂書房、    1997年
    落合恵美子「ある産婆の日本近代−ライフヒストリーから社会史へ−」    『制度としての<女>−生・産・家族の比較社会史』平凡社、1990年
など、1910年代後半から1920年代に開業した近代産婆たちの聞き取りから、証言されている。
 2  藤田真一『お産革命』(前掲書)103-105頁
 3  村上信彦『明治女性史 中巻後編 女の職業』理論社、1971年.54-55    頁


第2節 近代産婆の地域に果たした役割

 長い年月をかけ、徐々に地域に受け入れられ浸透していった近代産婆が地域に果たした役割は何であったろうか。
 まず、近代日本政府が一貫して取ってきた大日本帝国主義にもとづく富国強兵策に対応し、「国家の尖兵」としての役割を果たしてきたことが指摘できる。信濃衛生会の発足した時期や目的にそれが伺える。
 しかし最も大きなこととして、地域のひとつひとつの家庭に入り込んで、今までの古い出産習慣の弊害を時間をかけて取り除きながら、妊娠中からの継続的な診療を行い、近代的衛生的な出産への改革をうながし、住民に衛生思想を広めていった、個々の産婆の地道な努力を見逃すわけにはいかない。その営みが結果として、近代産婆が地域に普及し定着していき、1920年以降の乳児死亡や妊産婦死亡の減少へとつながっていったと考えられる。日本全体の栄養状態や経済状態の向上が背景にあるが、他の母子保健事業の普及と相俟って、近代産婆の活動が地域の母子保健向上の一翼を担ったといえる。
 近代産婆とその前史を担った産婆たちは、明治維新以来、特に第二次世界大戦の戦前、戦中を通して日本国家の人口政策を推進していくマンパワーとして利用されてきた。近代産婆に成長した女性たちの活動は、国家の富国強兵策に裏打ちされていたとはいえ、その個々の活動において、現代とほとんど差のないといってよい近代産科学に基づく教育・訓練に拠った知識・技術を携えて活躍した。その産婆たちの地道な活動によって、地域住民の中に衛生思想や衛生方法が浸透し、近世より続いてきた出産の旧習による弊害によって損なわれあるいは失われたいのちが救われ、母子の無事が守られてきたのであった。
 彼女たちは、各家庭での出産介助において衛生用品を使い、消毒を施し、会陰保護を行い、仰臥位出産をさせ、食事や産後の手当や療養のし方を指導し、衛生的で近代的スタイルの出産方法を普及させた。近代の医療政策の中で新しく作られた「近代産婆」は、地域に根付いて、直接且つ具体的に、人々の生活に変化を起こさせていった存在であった。
 近代産婆たちのもう一つの役割は、出産介助を通して医療技術を人々の中に浸透させていく媒体となっていることである。近代産婆は診察や出産の介助を地域や家庭に出かけて行った。妊娠や産褥の異常時や難産の場合には医師を呼び、それによって鉗子分娩や陣痛促進剤の使用などの専門的な医療処置が、家庭の分娩の中でも行われるようになっていった。その様子は『妊産婦台帳』の中に見て取ることができる。産婆自身が、「産科専門医の鉗子分娩術には目を見張」り(註1)、「専門でやってた先生は違うな」と実感した以上に(註2)、一般の人々の驚きはさらに大きかったであろう。彼女たちの活動は、近代医学の持つ技術を家庭の中にもたらし、その後の女性や周囲の人々の行動や意識に影響を及ぼしていく。

註1 藤田真一『お産革命』(前掲書)
 2 草野篤子、宮坂靖子「戦前期の産婆とお産−Nのライフヒストリーをもと   に−」『家族研究論叢』2号、奈良女子大学生活環境学部生活文化学研究   室(家族研究部門)、1996年.

第3節 今後の研究課題

 本論文では、長野県下において近代の産婆がどのように誕生し、普及していったのか、そのプロセスを概観することができた。特に成立期において信濃衛生会の産婆養成についてと、確立期における巡回産婆の展開を検討した。長野県の産婆の教育と活動の変遷をみていくことで、「出産」という「非日常的でありながら日常的な」人間の生活現象を通して、地域の近代化の中で人々の生活がどう変わっていったのか、その一端を知ることができたと考える。
 しかし、今回明らかにし得なかったこととして、長野県における産婆教育の具体的な内容や教育レベルの解明がある。産婆教育についての検討に使用した資料は、信濃衛生会発行の『月刊 信濃衛生』の記事からであり、産婆教育に関しての直接的資料には当たることができなかった。実際にはどのような人が産婆教育に携わったのか、どのような教育内容であったかを、今後明らかにしていく必要がある。信濃衛生会による産婆養成開始以前では、開業医師のもとで修業している産婆がおり、看護婦会の事業としての産婆教習所が設けられた記述もあった。信濃衛生会の養成が開始されてからも、医師会による産婆講習が開かれていた。医師会や看護婦会、産婆会がどの程度産婆教育に影響を及ぼしているのか、長野県下の産婆教育の実態を解明していく必要がある。
 また、産婆会に関する史料もまだ不十分である。県下各地の開業産婆の活動の様子と産婆会の成立やその後の推移、活動はどんなものであったかを解明することが、今後の検討課題である。
 産婆の教育と産婆会について究明していくことは、産婆という職業がいかに専門職として成り立っていたか、つまりどの程度「教育・訓練を通じて得られた、体系的な理論に基づく知識や技能」と「自律性」を持った職業であり得たかを考察する上で、必要不可欠な要素である。
 さらに今後、全国において各地方での産婆の歴史の解明が進んでいけば、長野県の産婆確立の独自性をもっと明確にしていくことができるであろう。
 本論文に使用した史料の多くは、長野県立歴史館の梅原康嗣氏のご協力によって閲覧することができた県内各地の旧村役場史料を使用している。松本市文書館において閲覧した、東筑摩郡新村および今井村役場史料も本論文の大きな部分を占めている。上伊那郡高遠小学校所蔵の高遠婦人会の記録も興味深い史料である。全国的にも、産婆自身の手による記録や著書はもとより、産婆や助産に関連する文献は決して多いとは言えないなかで、県下の具体的な状況を示す史料を手にすることができた。また信濃衛生会発刊の『月刊 信濃衛生』は、県下の衛生行政の推移や衛生思想、衛生状況を映し出す貴重な資料となっている。現在確認できたのは、1906年7月25日発行第一号より1939年9月1日発行第三百九十九号までのうち117号分である。県立長野図書館、市立松本中央図書館、上田市立図書館に所蔵されている。残念ながら1908〜1917年、1925〜1931年のものはほとんど欠けている。今後の発掘に期待したい。


謝 辞
 長野県立歴史館の梅原康嗣氏に深くお礼を申し上げます。多くの貴重な史料を快く見せていただきました。また、松本市文書館の小松芳郎館長はじめスタッフの皆様にもお心配りいただきました。その他ご協力下さった高遠小学校、上田市医師会、上田市立博物館の方々、高遠町塩原助産所の塩原冨美子助産婦、また研究途上にありながら発表の機会を与えて下さり、資料をご紹介下さった長野県近代史研究会の方々に感謝申し上げます。
 最後になりましたが、最初から最後まで懇切にご指導下さいました上條宏之教授に衷心からの感謝を申し上げます。

 なお、本論文は平成11年度松高科学研究助成を受けて行なった研究の一部である。

【表 一 覧】
表1  1914年(大正3)における全国産婆養成施設数
表2  内務省令指定規則による産婆学校(1914年12月現在)
表3  長野県管内産婆数(自明治14年至同12月)
表4  全国および長野県産婆数
表5  長野県資格別産婆数
表6  長野県累年産婆試験成績
表7  諏訪郡における産婆一覧
表8  信濃衛生会産婆・看護婦養成人員
表9  全国母子保健統計
表10  長野県母子保健統計
表11  新村妊産婦産児取扱成績
表12  今井村常設産婆事業成績
表13 『自昭和十年三月三十日至同十一年十二月三十日 妊産婦台帳』症例一覧


【資 料】
■1次資料
○『長野県乙号布達(1)』県報関係書類 明11、長野県立歴史館所蔵
○『公務日誌 第四号 明治十一年』依田家文書、早稲田大学図書館所蔵、長野 県立歴史館
○『郡役所布達留自明治十三年十一月ヨリ明治十四年』南安曇郡堀金村、堀金村図 書館所蔵、長野県立歴史館
○『自明治十七年至十八年御指令留』小県郡和田村、小県郡和田村役場所蔵、長 野県立歴史館
○『明治三十三年度衛生関係書類』下高井郡穂波村役場、下高井郡山ノ内町役場 所蔵、長野県立歴史館
○『医師関係書類 和田村役場 明治三十四年』和田村役場所蔵、長野県立歴史 館
○『自明治三十七年至同三十八年衛生之部雑書類』新村役場史料、松本市文書館 所蔵
○『明治三十九年郡衛諸達綴』北佐久郡三井村役場、佐久市役所所蔵、長野県立 歴史館
○『明治四十年自十一月二十六日至十二月二十五日長野縣第三十回通常縣會議事日誌 全』長野県議会図書室、長野県立歴史館
○『大正三年衛生之部 衛生組合ニ関スル件』旧新村役場史料、松本市文書館所 蔵
○『大正四年六月改ム受洗控 金子所有』(上伊那郡高遠町 金子文子氏所有)
○『自大正八年至大正十一年衛生に関する書類 衛生組合』新村役場史料、松本 市文書館所蔵
○『大正十二年衛生之部衛生関係綴』旧新村役場史料、松本市文書館所蔵
○『昭和九年 庶務関係書類 塩尻町役場』塩尻市塩尻市役所所蔵、長野県立歴 史館
○『公文書綴 区長小林泉・平出亮 昭和十一年度』葛窪共有、諏訪富士見町、 長野県立歴史館
○『雑書綴込 延徳村長 自昭和十一年二月至昭和十二年十二月』中野市中野市 役所所蔵、長野県立歴史館
○『公文編冊 石区 昭和十一年二月末より同十四年二月末まで』石共有、上水 内郡豊野町石、長野県立歴史館
○『村布達綴 昭和十三年』針田共有、飯山市瑞穂、長野県立歴史館
○『昭和十年 産取扱簿』今井村役場史料、松本市文書館所蔵
○『昭和十一年 産取扱簿』今井村役場史料、松本市文書館所蔵
○『昭和十二年度 産取扱簿』今井村役場史料、松本市文書館所蔵
○『自昭和十年三月三十日至同十一年十二月三十日 姙産婦臺帳』今井村役場史 料、松本市文書館所蔵
○高遠婦人会関係書類、上伊那郡高遠小学校所蔵
○『高遠町助産婦会業賛助会員名簿』上伊那郡高遠小学校所蔵

『月刊 信濃衛生』第一號、明治三十九年七月二十五日
『月刊 信濃衛生』第三號、明治三十九年九月二十五日
『月刊 信濃衛生』第五號、明治三十九年十一月二十五日
『月刊 信濃衛生』第八號、明治四十年二月二十五日
『月刊 信濃衛生』第六十三號、明治四十四年九月十五日
『月刊 信濃衛生』第七十六號、大正元年十一月十五日
『月刊 信濃衛生』第百三十九號、大正七年一月十五日
『月刊 信濃衛生』第百六十三號、大正九年一月十五日
『月刊 信濃衛生』第百六十六號、大正九年四月十五日
『月刊 信濃衛生』第百八十六號、大正十年十二月十五日
『月刊 信濃衛生』第百七十六號、大正十年二月十五日
『月刊 信濃衛生』第百七十七號、大正十年三月十五日
『月刊 信濃衛生』第百八十八號、大正十一年二月十五日
『月刊 信濃衛生』第二百十八號、大正十三年八月十五日
『月刊 信濃衛生』第二百二十二號、大正十三年十二月十五日
『月刊 信濃衛生』第三百十号、昭和七年四月十五日
『月刊 信濃衛生』第三百四十九号、昭和十年七月一日

『信濃毎日新聞』1926年6月9日
『信濃毎日新聞』1927年10月23日
『信濃毎日新聞』1927年10月27日
『信濃毎日新聞』1927年12月10日
『信濃婦女新聞』1927年5月15日

■二次資料
『医制百年史 記述編』、厚生省医務局編、1976年
『医制百年史 資料編』、厚生省医務局編、1976年
『昭和年間 法令全書』第七巻ノ二 昭和八年内閣官報局編、原書房
『大正年間 法令全書』第六巻ノ二 大正六年、内閣官報局編、原書房
『日本産育習俗資料集成』恩師財団母子愛育会、1975年
『明治年間 法令全書』第一巻 明治元年、内閣官報局編、原書房
『明治年間 法令全書』第三二巻ノ四 明治三十二年、内閣官報局編、原書房
『明治年間 法令全書』第三二巻ノ六 明治三十二年、内閣官報局編、原書房
『明治年間 法令全書』第三四巻ノ四 明治三十四年、内閣官報局編、原書房
『明治年間 法令全書』第四三巻ノ三 明治四十三年、内閣官報局編、原書房
『明治年間 法令全書』第四五巻ノ一一 明治四十五年、内閣官報局編、原書房

『長野県医師会史』長野県医師会、1966年
『長野県会沿革史』第三編、長野県、1905年
『長野県会沿革史』第四編、長野県、1910年
『長野県会沿革史』第五編、長野県、1915年
『長野県警察史 概説編』長野県警察本部警務部警務課、1958年
『長野県政史』第一巻、長野県、1971年
『長野県政史』第二巻、長野県、1971年
『長野県史』近代資料編別巻 統計(一)、1979年
『長野県史』近代資料編第八巻二 衛生・災害、1987年
『長野県統計書』明治6年(1863年)〜昭和13年(1938年)
『伊那市史 現代編』伊那市史編纂委員会、1982年
『今井地区誌』今井地区誌編纂会、1980年
『上田医師会史』上田市医師会史編集委員会、1969年
『駒ヶ根市誌』現代編上巻、1979年
『高遠町誌人物篇』高遠町誌刊行会、1986年
『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』第三巻現代上、1962年.1984復刊
『東春近村誌』東春近村誌編纂委員会、1972年
『復刻 岡谷市史』中巻、岡谷市、1984年
『松本医師会史八十年史』松本医師会史八十年史編集委員会、1990年
『松本市史』第二巻 歴史編V近代、1995年
『松本市史歴史編 近世部門 調査報告書第3集−松本藩の史料−』松本市史近 世部門編集委員会、1996年
『南安曇郡医師会史』南安曇郡医師会史編集委員会、1994年


【引用文献・参考文献】
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医療タイムス社編『長野県医療史〜信州の医療を支えた人たち〜』医療タイムス社、1987年
大林道子『助産婦の戦後』勁草書房
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小野眞孝『新潮選書 江戸の町医者』新潮社、1997年
川上武『現代日本病人史ー病人処遇の変遷』勁草書房、1982年
亀山美知子『近代日本看護史 T日本赤十字社と看護』ドメス出版、1984
蒲原宏『新潟県助産婦看護婦保健婦史』新潟県助産婦看護婦保健婦史刊行委員会、1967年.
國本恵吉『産育史 お産と子育ての歴史』盛岡タイムス社、1996年
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酒井シヅ『日本の医療史』東京書籍、1982年
新村拓『出産と生殖観の歴史』法政大学出版会、1996年
菅谷章『日本医療制度史』原書房、1976年
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西川勢津子『お産の知恵 伝えておきたい女の暮らし』講談社、1992年
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藤田真一『お産革命』朝日新聞社、1979年
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村上信彦『明治女性史』中巻後編 女の職業、理論社、1971年
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石原力「助産婦の歴史(2)」『ペリネイタル・ケア』第2巻第1号、1983年
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石原力「助産婦の歴史(4)」『ペリネイタル・ケア』第2巻第3号、1983年
石原力「助産婦の歴史(5)」『ペリネイタル・ケア』第2巻第4号、1983年
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落合恵美子「ある産婆の日本近代 ライフヒストリーから社会史へ」、荻野美穂他著『生・産・家族の比較社会史 制度としての<女>』平凡社、1990年
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田間惠實子他「最古の助産婦教育機関大阪大学医学部附属助産婦学校の閉校」『助産婦雑誌』第51巻第11号、1997年
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宮坂靖子「ある産婆の生活史」、『人間文化研究年報』第13巻、お茶の水女子大学人間文化研究科、1989年


……以上……



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