ジーコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Zicoから転送)
ジーコ
イラク代表監督時代(2012年)
名前
本名 アルトゥール・アントゥネス・コインブラ
Arthur Antunes Coimbra
愛称 Galinho de Quintino(クインティーノのチキン)
白いペレ[1]
ラテン文字 Zico
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1953-03-03) 1953年3月3日(71歳)
出身地 リオデジャネイロ
身長 172cm[2]
体重 72kg[2]
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
ユース
1967-1971 ブラジルの旗 CRフラメンゴ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1971-1983 ブラジルの旗 CRフラメンゴ 635 (476)
1983-1985 イタリアの旗 ウディネーゼ 53 (30)
1985-1989 ブラジルの旗 CRフラメンゴ 97 (33)
1991-1994 日本の旗 住友金属 / 鹿島アントラーズ 64 (48)
代表歴
1976-1986[3] ブラジルの旗 ブラジル 71 (48)
監督歴
1999 日本の旗 鹿島アントラーズ(代行)
2000-2002 ブラジルの旗 CFZ
2002-2006  日本代表
2006-2008 トルコの旗 フェネルバフチェSK
2008 ウズベキスタンの旗 FCブニョドコル
2009 ロシアの旗 PFC CSKAモスクワ
2009-2010 ギリシャの旗 オリンピアコスFC
2011-2012  イラク代表
2013-2014 カタールの旗 アル・ガラファ
2014-2016 インドの旗 FCゴア
2018-2021 日本の旗 鹿島アントラーズ(テクニカルディレクター)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ジーコ(Zico、[ˈziku])ことアルトゥール・アントゥネス・コインブラ: Arthur Antunes Coimbra1953年3月3日 - )は、ブラジルリオデジャネイロ出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。2018年7月からJリーグ鹿島アントラーズのコーチ兼テクニカルディレクターを務める。

しばしば「白いペレ」と呼ばれることもあったが[4]、フリーキックの名手として知られ、多くの得点をフリーキックから挙げた[5]。最も技術のあるフィニッシャー、最も優れたパサーの一人、1980年代における世界最高の選手とも評される[6]。2004年3月には、ペレによる偉大な存命サッカー選手125人にも名を連ねた。サッカー史上最高の選手と評されるペレは、「今までの間、私に最も近づいたのはジーコだった」と述べた[7]。キャリア通算では、公式戦750試合516ゴール、親善試合などの非公式戦も含めれば、1180試合826ゴールを決めている[5]

うち、ブラジルで在籍したCRフラメンゴでは2度の在籍期間(1971-1983・1985-1989)を合わせて同クラブ史上最多の509ゴールを記録。また、同クラブ本拠地のマラカナンでは通算史上最多の435試合334ゴールを達成している。

ブラジル代表では、72試合に出場し52ゴールを挙げており、FIFAワールドカップでは1978年1982年1986年の3大会に出場した。これらの大会では優勝を逃したが、1982年のブラジル代表は最も優れたブラジル代表の一つと言われている[8]。1981年と1983年に、雑誌「ワールドサッカー」は、世界最優秀選手に選んだ。

日本代表監督として2006 FIFAワールドカップに出場し、AFCアジアカップ2004では優勝を果たした。また、フェネルバフチェSKを指揮し、UEFAチャンピオンズリーグ 2007-08で準々決勝に進出した。

選手経歴[編集]

幼少期[編集]

ポルトガルからの移民で厳格な家庭であったという[9]。祖母はイタリアのカターニャ出身[10]パン職人(後に洋服仕立て屋)で生計を立てていた父はフラメンゴとプロ契約寸前まで行ったGKであった[11]。ジョゼ・アントゥネス・コインブラとイタリア系の母マチウデの5男1女の末子として出生[12]。母親は息子アルトゥールをピアニストにさせたかったが[12]、彼の兄弟アンツネスとエドゥアルト(エドゥ)の影響もあり多くのブラジル人と同様に、サッカー選手を目指す様になる[12]。家業の仕立屋も多忙で父ジョゼの遅い息子だった事もあり実兄のゼッカとエドゥが両親の代わりにジーコの面倒を見ていた。

フラメンゴ[編集]

CRフラメンゴ時代(1971年)

1967年、14歳の時にブラジル・リオデジャネイロフラメンゴのユースチームのテストに合格し加入[5]。155センチ37キロと小柄で[5]、細身でフィジカルも弱かったが、ジムで身体を鍛え抜くなど、弱点を克服[5][13]、ユースチームで116試合81得点という記録を残すと1971年にジーコはフラメンゴのトップチームに昇格、17試合で2得点を挙げた[5]。1973-74シーズンには完全にレギュラーを掴んで、チームの10番を任された[5]。1975年に4年前に出会ったサンドラと結婚[11]。1980年、チームは初めて全国選手権での優勝を果たした[5]

フラメンゴでは、10年以上に渡って在籍し中心選手としてプレーし、コパ・リベルタドーレス1981トヨタカップ、4度のブラジレイロン(ブラジル全国選手権)1部リーグ(1980年、1982年、1983年、1987年)で優勝した。コパ・リベルタドーレス1981では、11ゴールと、ゴールを量産し、大会得点王に輝いた[5]。決勝のブレロア戦、1stレグで2ゴールを決めて勝利に貢献[5][9]、2ndレグを0-1と落としたが[9]、優勝決定戦となった3rdレグで2ゴールを決め[9]、優勝に大きく寄与した[5]。同年トヨタカップではリヴァプールを3-0と破り優勝、ヌネスの2ゴールをアシストし大会MVPに選ばれた[14][15]。また在籍時の28歳の頃、ACミランへの移籍が進んでいたが、破談になった[16]

CRフラメンゴの本拠地・エスタジオ・ド・マラカナンにおいて、ジーコはブラジレイロン1部リーグ・リオ州1部リーグ・ブラジル代表を含め333ゴールをマークし、同スタジアムの個人最多ゴール記録を2022年12月現在保持し続けている。

ウディネーゼ[編集]

ウディネーゼ時代 (左)(1984年)

1983年ACミランユヴェントスASローマなどが獲得に乗り出していたが[5]、当時は弱小クラブに過ぎなかった、ウディネーゼへ移籍した。この移籍はフリウーリ地区のみならず、イタリア国内でも大騒動となり[17]、イタリアサッカー協会により移籍が合法的に行われたかの調査が行われた[18]。8月21日のコッパ・イタリア、グループリーグのボローニャ戦で移籍後初ゴールを決め、9月12日、セリエA開幕節のジェノア戦で2ゴールを挙げ[5][19] 鮮烈なイタリアデビューを飾り、更に第2節のカターニャ戦でも2ゴールを決め[19][5]、その後、更に2試合連続ゴールとセリエA開幕戦から4試合連続ゴール(合計6ゴール)を決めた[19]フランコ・カウジオといいコンビネーションプレーを見せ、一時はリーグ第3位と優勝争いを演じた[20]。しかし、チームは後半失速し、UEFAカップ出場権も逃した。ジーコ個人はは24試合で19得点を挙げて[5]、得点ランキングの2位となった(怪我の影響で、得点王のミシェル・プラティニより試合出場が4試合少ない。プラティニは20得点)[21]。これらの活躍によってサポーターの人気を集めた。1984-85シーズンは怪我での離脱[22]、長期の出場停止があったが[18]、3月31日のインテルで約半年振りのゴールを決めると[22]、次節のユベントス戦でもゴールを決めたが[23]、契約の問題で、このシーズンを最後にイタリアを去ることとなった。また、インテルへの移籍話もあったが上手く交渉がまとまらず実現しなかった。ジーコ自身インテルへの移籍に非常に乗り気だったので残念だったと語っている。[要出典]

1989年にはブラジル代表としての引退試合をウディネーゼで開催した[11]。また2017年にチームを訪問すると、ファンから大きな歓迎を受けた[21]

短い引退[編集]

1988年には日本のトヨタ入りの話が出て、条件などが話し合われていたが[24]、交渉はまとまらず、トヨタが1部昇格を逃したこともあり、移籍は消滅した[25]1989年3月27日にイタリアのウーディネでブラジル代表引退試合(対世界選抜)が行われ、同年12月のブラジル全国選手権、フルミネンセ戦がブラジル国内の公式戦最後の試合となった。フラメンゴ在籍中に731試合に出場し508得点の記録を残したが、得点はクラブ史上最多記録である。

1990年のブラジル初の大統領選挙によって誕生したフェルナンド・コロール・デ・メロ大統領は、ジーコをスポーツ担当大臣に任命した。ジーコはおよそ1年間任務を務めていたが、ルイス・アントニオ高崎を通じ、1991年に将来のプロリーグ参加を表明していた日本サッカーリーグ2部住友金属工業蹴球団(現、鹿島アントラーズ)のオファーを受け[25]、サッカーでの町おこしという、これまでに無い挑戦に魅力を感じ、3年契約で入団した[26]

住友金属、鹿島アントラーズ[編集]

鹿島サッカースタジアムのジーコ像

ロッカールームには所属選手らの汚れたシューズが散らかっていた際は、「こんな汚い所では寛げないよ、次もこんな状態だったら僕が全部捨てるよ」と激怒するなど[27]、日本人のサッカーに対する姿勢の改善に苦心していた。1991年7月26日の磐田市長杯サマーサッカー、ヤマハ発動機戦で直接FKから住友金属移籍後初ゴールを決めると[28]、8月18日のJSL、三菱戦で公式戦初ゴールを決めた[28]。1991-92年の日本リーグ2部では21得点で得点王のタイトルを獲得する活躍で、チームの2部リーグ2位確保に貢献した[25]。1992年10月11日のJリーグカップ、サンフレッチェ広島戦ではハットトリックを決めるなど[29]、準決勝まで進出した。

1993年Jリーグが開幕前にして、サントスの他にもう一人外国人の戦力補強が必要だと考え、アルシンドを日本に呼び寄せた。イタリア遠征を行うが、セリエAのチームに次々敗北、クロアチア戦では1-8と大敗[30]、帰国後、カシマスタジアムのこけら落としとなった、フルミネンセFCとの親善試合で、ジーコはカシマスタジアム第1号となるゴールを決め[31](自身の現役通算800ゴール [32])、勝利した。迎えた開幕初戦、名古屋グランパス戦でいきなりJリーグ初のハットトリックを決め5-0で勝利した[33]。2節以降は怪我で欠場、6月23日ヴェルディ川崎戦で復帰したが、またも怪我で欠場したものの、アントラーズは1stステージ制覇。この年のJリーグオールスターサッカーのメンバーに選出されていたが、怪我で出場を辞退した。セカンドステージでは9月3日のジェフ市原戦での延長Vゴールなど[28]、13試合6ゴールの成績を残し[28]天皇杯の2回戦、東北電力戦ではヒールボレーでその後も称賛され続けるゴールを挙げた[34]。しかしチャンピオンシップ、ヴェルディ川崎戦の2ndレグでは退場処分となった[35]

1994年第1ステージは怪我の影響で5月14日のサンフレッチェ広島戦から復帰、6月1日のガンバ大阪戦でシーズン初ゴールを決め[28]、6月8日の浦和レッズ[28]、6月11日ベルマーレ平塚戦では2ゴールを決めた[28]。現役最後の公式戦となった6月15日のジュビロ磐田戦では直接FKを蹴り、これがバーに当たり1点目のゴールが生まれ[28]、前半21分に相馬直樹のパスからボレーシュートで、通算817ゴール目となる決勝ゴールを決めるなど[28][36] 怪我を押して後半11分までプレー[28] 、最後の3試合で3試合連続ゴールを決めたこととなった。試合後には磐田サポーターからもジーココールが続いた[28]。この日決めた41歳と3か月12日での得点は2023年5月の時点でJ1最年長ゴール記録である[10]。7月23日のJリーグオールスターサッカーに先発フル出場[37] したのを最後に、ブラジルへ帰国したが、1994年秋にはジーコカーニバル(引退記念イベント)の一つとして、カシマスタジアムで行われた、ロベルト・リベリーノ監督が率いたJリーグ選抜対アントラーズの試合に出場した。1995年に鹿島のテクニカル・アドバイザーに就任し、これ以降も日本との関係を維持し続けた。

プロとしての現役からは退いたものの、ビーチサッカーのブラジル代表ではプレーしており、ビーチサッカーチャンピオンシップ(後のFIFAビーチサッカーワールドカップ)では1995年と1996年の2大会で優勝し、1995年の大会ではMVPおよび得点王にも輝いていた。1996年にリオデジャネイロでCFZ(ジーコFootballセンター)を設立、ブラジル国内の選手育成や、かつては鹿島の若手選手育成の場として用いられていた。以降、このCFZ運営資金の為に、監督業に本格的に乗り出した。

ブラジル代表[編集]

1976年2月25日のウルグアイ代表との親善試合にブラジル代表として初選出され、その試合で得意のFKからゴールを決めるデビューを果たし[38]、次の29日アルゼンチン代表との親善試合でもゴールを決めた。FIFAワールドカップには1978年1982年1986年の3大会に出場した。

初のワールドカップ出場となった1978年のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会では、初戦のスウェーデン戦で先発出場(フル出場は同試合のみ)。終了間際のコーナーキックからの得点が取り消された(ウェールズ人主審のクライブ・トーマスはジーコがシュート体勢に入る直前、ボールが空中にある状態で試合終了の笛を吹いたと主張。)。2次リーグのペルー戦ではゴールを決めたが[39]、この2次リーグではいずれの試合でも僅かな出場時間しか得られず[39]、最終節のポーランド戦では先発するも、僅か7分で負傷交代、チームは3-1と勝利したが[39]、最終節でアルゼンチンが大勝したことで、逆転され決勝には進出出来ず、また3位決定戦となったイタリア戦でも出番を得られないなど[39]、不本意な大会となった。

1982年、FIFAワールドカップ・スペイン大会では名将テレ・サンタナ監督の下でソクラテスファルカントニーニョ・セレーゾと共に「黄金のカルテット」(クワトロ・オーメンジ・オロ)を形成。技巧的なパスワークと攻撃力で優勝候補の大本命と目された。1次リーグでは第2戦のスコットランド戦では直接FKから1ゴール[39]、第3戦のニュージーランド戦で2ゴールを決め[39]、2次リーグに進出、アルゼンチン戦では1ゴール[39] 2アシストの活躍で勝利に貢献[40]、最終戦でのイタリア戦では、クラウディオ・ジェンティーレの執拗なマンマークにあう。5分にイタリアのパオロ・ロッシに先制されたブラジルは12分、ハーフウェイラインを超えドリブルして来たソクラテスがジーコにスルーパスを出すと、ジーコはクラウディオ・ジェンティーレのマークをターンで外し、そのままゴールに走り込んだソクラテスにリターンのスルーパスを出し、同点ゴールをアシストした[41]、しかし2-2で迎えた75分、ブラジルはDFのミスからロッシに3点目を決められて敗戦し、準決勝には進めなかった(現在の規定でベスト8相当)、しかし、この時に披露したサッカーは「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられている。

1986年、FIFAワールドカップ・メキシコ大会直前のユーゴスラビアとの親善試合ではハットトリックを決めたが[39]、膝の負傷(国内リーグ戦の、対バングー戦で相手DFの悪質なタックルを受けた)によって数ヶ月間プレーを中断、膝の負傷は癒えず、控えに回った。最後のワールドカップは、グループリーグ最終戦の北アイルランド戦(カレッカのゴールをアシスト[42])、ラウンド16のポーランド戦でいずれも途中出場[39]、準々決勝のフランス戦では交代出場直後にみせたスルーパスによって獲得したPKを自らが蹴るが、これをバツに防がれ[43]、延長PKの末に敗れ、現役を通じてワールドカップ制覇を成し遂げることは出来なかった。

指導者経歴[編集]

1998年に鹿島のテクニカル・アドバイザー在任中に、ブラジルサッカー連盟の要請を受けブラジル代表のテクニカル・ディレクターに就任し、FIFAワールドカップ・フランス大会にスタッフとして参加した。準優勝に導いたザガロ監督を補佐した[44]

1999年シーズンでは鹿島アントラーズのゼ・マリオ監督が8月に解任されたことにより、ジーコは事実上の「監督」として残りのシーズンの現場の指揮を執った[45]

2002年~2006年(日本代表監督)[編集]

2002 FIFAワールドカップ終了後、フィリップ・トルシエの後任として2002年7月22日日本代表監督に就任。日本代表監督最高額の年俸だった。それまで監督経験は無かったものの、ブラジル代表のスタッフを務めた経験や、鹿島の選手やテクニカルディレクターとして同クラブの躍進に尽力した経験からの抜擢であり、日本サッカー協会会長の川淵三郎の意向でもあった。

ジーコはAFCアジアカップ2004に優勝。FIFAコンフェデレーションズカップ2005では初戦のメキシコには敗れたもののギリシャに勝利し、ブラジルとは2 - 2で引き分けた。またワールドカップ地区予選を世界中の国に先駆けて最も早く突破しW杯直前のドイツとの親善試合を引き分けるなどの結果を残した反面、細かな規律を設けない選手の自主性に任せた指導(後述)は様々な波紋を呼び議論の的となった。

日本代表監督での国際Aマッチ指揮試合(71試合)と勝利数(38勝)はいずれも歴代1位の記録であり、日本サッカー史において4年間通じて指揮を執りプレーオフも無くW杯地区予選突破を果たした最初の監督になった。成績等については下の諸項目を参照のこと。

2002年
10月16日ジャマイカに臨み、これが初試合となった。中田英寿、中村俊輔小野伸二稲本潤一の4人を初めて同時に起用し(黄金のカルテット)話題を呼んだが、結果は1-1の引き分け。
11月20日アルゼンチン戦で実母マチウデ訃報の連絡を受ける。本人はサッカー日本代表指揮を全うすることを優先して帰国を渋るも周囲の説得で翻意して母国へ緊急帰国、「僕個人の予定で他の人の手を煩わせたくない」との理由でジーコ帰国前日に葬儀。数日後に執り行われたミサに合流。ジーコ監督不在時は臨時で替わった山本昌邦コーチが監督代行を務めた。
2003年
4月16日ソウルワールドカップ競技場での韓国との日韓戦で試合終了間際FW永井雄一郎のゴールで勝利を挙げる。
6月8日キリンカップ2003でのアルゼンチン戦で1-4で完敗。これを機にディフェンスライン4人を全員入れ替えた。
6月18日からのFIFAコンフェデレーションズカップ2003のグループリーグ、1勝2敗の成績に終わり決勝トーナメント進出を逃した。
8月20日ナイジェリア戦でホームゲーム初勝利。
2004年
2月7日、ジーコの慣れ親しんだ鹿島にて、親善試合マレーシア戦を行う。このドイツW杯予選を控えた日本代表の鹿島合宿中に市内のキャバクラ久保竜彦奥大介小笠原満男山田卓也都築龍太茂庭照幸大久保嘉人山田暢久(但し山田暢久は入店せず)が無断外出して問題を起こし、スキャンダルとして取り上げられてしまい、ジーコは「信頼関係を失った」とコメント、(「裏切り行為と感じた」とも)代表チームへの一時招集を見送られることになった。
2月18日2006 FIFAワールドカップ・アジア予選(1次)初戦、オマーンと戦い、これを1-0で勝利。続くシンガポール戦も藤田俊哉の決勝点で勝利した。この内容を「苦戦」であるとした一部のサポーターが解任デモを行った。
4月に行われた欧州遠征で欧州の代表チームと相次いで親善試合を行った。初戦のハンガリー戦で敗れたものの、強豪チェコを1-0と破った。6月の欧州遠征ではイングランドと戦い小野伸二の同点ゴールで1-1のドローに持ち込んだ。
7月、中国で行われたAFCアジアカップ2004で優勝。大会2連覇を達成した。
9月、インド コルカタでW杯大会アジア1次予選第4戦でインドに4-0で勝利、ハーフタイム中にスタジアムの照明が停電するトラブルがあった。この時、ベンチにいたジーコは、多数の現地記者・カメラマンからサイン攻めに合う光景をテレビカメラがとらえ、インドでも、現役時代の名声が轟いていることを証明した。
10月、W杯大会アジア1次予選第5戦でオマーンに1-0で勝利、1次予選の突破を全試合勝利で決める。
2005年
W杯ドイツ大会最終予選において、テヘランイランに敗れた試合以外は全勝。1次予選との通算成績で11勝1敗で終え、B組1位通過を果たした。この結果により、世界最速で予選を突破し本大会への出場権(開催国のドイツは除く)を獲得することになった。
2005年FIFAコンフェデレーションズカップでは1勝1敗1分。メキシコには1-2で敗れたが、ギリシャに1-0で勝利、ブラジル戦でも2-2の引き分け。グループリーグ敗退に終わったものの、試合内容に対しては一部の現地メディアでも高い評価を得た。
7月から8月にかけての東アジアサッカー選手権2005では北朝鮮に0-1で敗戦。続く中国戦ではGKを含むスタメンを総入れ替えし若手選手を起用する采配をしたが、2-2の引き分けに終わる。韓国に1-0で勝して、2位という結果で終えた。
小泉純一郎と(2006年5月、内閣総理大臣官邸
2006年
親善試合を消化。W杯メンバー発表までの7試合は3勝2敗2分。
5月15日、ドイツW杯23人のメンバーを発表。
  • ジーコジャパンにおいて一番多く得点を決め(11得点)、本大会のエースとして期待された久保竜彦と、フランスリーグ・アンアシストランク3位だった松井大輔をメンバーから外し、ドイツブンデスリーガで1得点の高原、日本Jリーグで1得点の玉田を招集したことに物議をかもした。特に久保は、2006年に行われたW杯メンバー発表前の代表戦すべてに先発出場した上での落選だったが、腰痛から復帰したばかりではあった。また、一番若い年齢の選手が駒野友一の24歳で、アテネ五輪代表メンバーからの選出は駒野・茂庭照幸の2名だけだった(茂庭の招集は田中誠の怪我による追加招集。茂庭はバカンスに入っていたハワイから緊急帰国、代表に合流した)。
6月12日、W杯本大会初戦のオーストラリア戦では残り15分で3失点を喫し1-3の逆転負け。続くクロアチア戦は0-0で引き分け、最後のブラジル戦では前半に先制するも、後半で3点を入れられ逆転負け。2敗1分でグループリーグ最下位で敗退した。W杯後、日本代表監督を退任、15年間に及んだ自身と日本との直接的な関係はここで一度途切れることになった[46]。最後の会見で日本が取り組むべき課題として「身長差、体格差を乗り越え怪我をしないためのフィジカルトレーニングの模索」「安定した判断力の涵養」を挙げた[47][46]

2006年~2016年(日本代表監督退任後、各国でのクラブ・代表監督など)[編集]

2006 FIFAワールドカップ終了後、日本代表監督を契約満了により退任。2006年6月26日の退任会見では「チャンスがあれば、欧州で監督をしたいという気持ちもある」と話していたが[46]、直後の7月4日トルコシュペルリガフェネルバフチェの監督に就任。2006-07シーズンは、カップ戦は取れずに終わったが、リーグ戦では序盤で首位に立ってから一度もその座を譲ることなく2007年5月13日に優勝した。

2008年に行われたUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメントへ同クラブを初めて導いた。決勝トーナメントではセビージャにPK戦の末勝利し、ベスト8に進出。準々決勝では強豪チェルシーと対戦。圧倒的な不利の下馬評の中、ホームでは2-1で勝利した。しかし、続くアウェイでの試合では0-2と敗れ、ベスト4進出はならなかった。2007-08シーズンの国内リーグでは2位。シーズン終了後、任期満了に伴い延長交渉を受けたが、クラブとの条件が合わず退任。

2008シーズンはウズベキスタンの強豪チームブニョドコルでリーグ戦途中から指揮を執ることになった。就任直後に行われたAFCチャンピオンズリーグアデレード・ユナイテッドに敗退(1勝1敗・合計スコア 1-3)したが、ウズベキスタンカップとウズベキスタンリーグはともに優勝し、二冠に輝いた。また、ウズベキスタン代表のアドバイザーも兼任していた[48]2010 FIFAワールドカップ・アジア4次予選(最終予選)の対日本代表戦(10月15日・さいたまスタジアム)に自身が来日して視察するのは断念したものの[49]、日本代表対策をカシモフ監督に伝授し、アウエーでの1-1の引き分け(勝ち点1獲得)に貢献した[48][50]。ブニョドコルとの契約期間は2009年12月までだったが、ロシアプレミアリーグCSKAモスクワガザエフ監督の後任としてジーコに興味を示した為に、クラブとの話し合いの末、円満退団した。

2009年1月、CSKAモスクワの監督に就任。契約期間は3年間。UEFAカップ 2008-09ではラウンド16で敗退した。ロシア国内では国内カップ戦で優勝したものの、リーグ戦は首位に勝点を大きく引き離され4位と低迷していた。CSKAモスクワはジーコが来る前の過去6シーズンで優勝3回、準優勝2回のロシアリーグの強豪であり、2009年9月10日にジーコは成績不振で解任された。ジーコが率いた2009シーズンの成績は巨額スポンサーと契約を結び、黄金時代が到来した2003年以降の中でワースト記録となっている(2014年現在)。

2009年9月16日、ギリシャ・スーパーリーグオリンピアコスの監督に就任した。チャンピオンズリーグではベスト16に進出するも、国内カップ戦でフルメンバーを率いて2部チームに1回戦で敗退し、リーグ戦でも一時は勝ち点2差の2位に付けたもののその後勝ち点7差まで引き離されて解任された。

2010年1月28日、2022 FIFAワールドカップ日本開催招致アンバサダーに就任。

2010年6月にフラメンゴのテクニカルディレクターに就任したが、10月にはクラブ内での対立を理由に辞任を表明した[51][52]

2011年4月、同年3月に起こった東日本大震災の惨事を悼み日本でのチャリティーマッチとは別に南米でチャリティーマッチを行った。Jリーグで活躍したブラジル人を中心にアルシンドドゥンガロマーリオなどが参加した。なお、三浦知良にも参加を要請したが、「Jリーグに専念したい」と言う理由で辞退している。

2011年6月、5年ぶりに来日し、6月4日にカシマスタジアムで行われた慈善試合に出場し、決勝ゴールを決めた[53]

2011年7月、リオデジャネイロで行われた2014 FIFAワールドカップ・ブラジル大会の大陸別予選組み合わせ抽選会のくじ引きでアジアを担当した[54]

2011年8月、イラク代表監督就任の報道が出る。8月29日、正式にイラク代表監督に就任する。契約期間は、1年。元々イラクをW杯に出場させた経験を持つ、ジーコの兄エドゥに来たオファーだったが兄から譲られジーコがイラク代表監督に就任した。

2012年7月28日、ジーコ自身の公式HPで、ジーコは5か月間、スタッフは10か月間給料未払いであることや9月11日に予定されている2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選B組第4戦日本戦に出場予定のイラク代表選手7名の所属クラブが無く、練習が困難という状況に対してイラクサッカー協会が何ら手を打たないことを理由として、イラク代表監督辞任を示唆したが[55]、8月7日から弁護士を通じて、給与未払い問題については支払先の銀行口座を再確認するなどの条件のもと、2014年夏までの契約継続を確認した[56]。契約の細部の見直しなどを終えてからイラクでの監督活動を再開した。9月11日には予定通り対日本代表戦(埼玉スタジアム)を指揮した。試合後の会見では、1-0で勝利した日本代表を称賛し、(6年前の日本代表監督退任時に指摘した)フィジカルの問題は、日本の選手の多くが欧州に渡り問題なくプレーしていると評価した[57]。翌日午前中には古巣・鹿島アントラーズを訪問し、リーグ12位に苦しむチームを激励し、同日夜離日した[58][59][60]。しかし、11月27日イラク代表の監督を辞任した[61]

2013年8月、カタールアル・ガラファの監督に就任。しかしわずが5ヶ月後の2014年1月に成績不振により監督を解任された。ジーコは「結果がついてこなかった。残念だがサッカーとはこういうものだ」と自身のフェイスブックで語った。CSKAモスクワ、オリンピアコスに続きクラブチームの監督として3回連続で成績不振で解任となった[62]

2014年7月19日~24日まで来日し、23日にはJ1第16節・鹿島アントラーズ対大宮アルディージャ戦(鹿島スタジアム)を観戦した[63]

2014年9月、インディアン・スーパーリーグFCゴアの監督に就任[64]

2016年以降(日本サッカー殿堂入り、鹿島のテクニカルディレクター・クラブアドバイザー)[編集]

2016年8月、日本サッカー殿堂顕彰が日本サッカー協会より発表された[65]

2016年12月、FIFAクラブワールドカップ2016・決勝では、ヨーロッパ王者のレアル・マドリード(スペイン)を相手に延長戦の末2-4で敗れた古巣・鹿島アントラーズの健闘を称え、「鹿島のことを誇りに思う」とコメントした[66]。試合前に自身がデザインされたビッグフラッグが登場したことについては、「このような大きな試合の前に、スピリット オブ ジーコのフラッグを見た時は、ものすごく感動したよ。日本を離れてもう随分と日が経つが、まだこのような形で敬意を示してくれていることは、すごく嬉しい」と、コメントした[66]

2017年8月10日~17日まで来日して、8月15日にはさいたまスタジアムでのスルガ銀行チャンピオンシップ2017浦和レッズvsシャペコエンセ戦を観戦し[67]、その試合前には前年に掲額された日本サッカー殿堂の記念セレモニーが行われた[68]。8月17日には、鹿島アントラーズのクラブハウスを約5年ぶりに訪問した[69]

2018年7月、鹿島アントラーズのテクニカルディレクターに就任すると発表され[70]、8月にはコーチとして役員登録された[71]

2021年シーズン終了をもって、鹿島アントラーズのテクニカルディレクターを退任してブラジルに帰国[72]。2022年からは、クラブアドバイザーとしてブラジルから鹿島の側面支援を行う[73]

人物[編集]

学歴[編集]

カステロブランコ大学体育学科出身。

愛称[編集]

ブラジルサッカー界の英雄であるペレになぞらえ「白いペレ」とも呼ばれていた[4]また、長く選手として在籍したフラメンゴのホームスタジアムエスタジオ・ド・マラカナンの名称から「マラカナンの英雄」とも謳われた。[要出典]

幼少時代に兄が所属するチームが得点する度に雄鶏(galo ガーロ)の掛け声(cocorecoo!)をしていた事から愛称は「ガリーニョ・デ・キンチーノ」(キンチーノ地区の雄鶏小僧)[注釈 1] と呼ばれた。サッカーを目指した華奢で小柄なアルトゥール少年は周囲から「アルトゥルジーニョ」と呼ばれ、アルトゥールズィッコ(Arturzico)となり、最後は語尾の「ZICO」だけとなり以後定着している。フラメンゴ時代やブラジル代表時代、また鹿島アントラーズ時代の選手、親しい関係者間では「ガーロ」の愛称で呼ばれている。[要出典]

家族[編集]

1975年にサンドラ夫人と結婚。3人の息子をもうける。長男のジュニオールは元サッカー選手、サガン鳥栖でプレイしていた時にはジーコも鳥栖まで訪れた。なお、ジュニオールの妻は日系人である[74]。次男はブラジルで有名な歌手ブルーノ・コインブラ。実兄はエドゥ(元鹿島アントラーズ監督、元日本代表テクニカルディレクター)。

ジーコレーベルとサンバ[編集]

ブラジルは、サンバボサノヴァ、またブラジル音楽などで知られる音楽大国であるが、彼もまたブラジル音楽を好むことで知られる。[要出典]1994年には友人であるファギネルが来日した際のアルバムにコーラスで参加。ポニーキャニオンでは、ホベルト・メネスカルと組んでジーコレーベルと称して、何組かのアーティストのアルバムを発売、また息子であるブルーノもパゴージ(サンバの一形態)でCDデビューを果たした。エスコーラ・ジ・サンバ・ベイジャ・フロールの大ファンとして知られ、その一員としてパレード会場を行進する姿が日本のメディアでも紹介されている。[要出典]

退場処分など[編集]

人格者として知られているが、ウディネーゼでの2シーズン目には審判への暴言で長期出場禁止処分を受けた[18]。また1994年1月に国立霞ヶ丘競技場で行われたJリーグチャンピオンシップ第2戦では三浦知良PKの際にボールへつばを吐く非紳士的行為で退場(この日2枚目の警告)となった。のちにジーコ本人は「Jリーグ初年度の優勝決定戦という歴史的な記念試合であのような行為をした事を申し訳なく思う」と反省の弁を語っている。愚行に至った理由としては相手チームに有利な開催地に不満があったことと、ビハインドの展開での不利な判定に対する憤りがあったと振り返っている[35]。上記の様にプレー中は熱くなることもある。

その他[編集]

ロベルト・バッジオは幼少の頃ジーコに憧れ、フリーキックの蹴り方を真似ていた[75]。またバッジオから、自身のフリーキックの精度向上のため、フリーキックを蹴る映像を送って欲しいと依頼され、ジーコは自ら多くの時間を割いて、映像を編集したビデオを送付した[76]

毎年12月になると、ブラジルリーグのシーズンオフを利用してジーコ主催のチャリティーマッチを行なっている。チャリティーマッチにもかかわらず会場のマラカナンには5万人もの観客が集まり、歴代ブラジル代表の名選手たちが一堂に会する。また、試合の収益はリオの貧困にあえぐ子どもたちに経済的支援という形で寄付される[77]

日本とジーコ[編集]

初来日
  • 1990年に住友金属に入団する前からフラメンゴの選手として1981年のトヨタカップ、1986年のキリンカップで来日、1989年にも日本で開催されたワールドウドマスターズサッカーでもプレーするなど日本とは縁があった。
  • 2011年6月に来日した際、「長男の妻は日系人」であることを明かし[78]、自身の孫が日本人の血を引くことに「日本との関係がさらに深くなるのは嬉しいこと」と語っている[79]
愛車

1981年トヨタカップのMVP副賞で獲得した1983年型トヨタ・セリカ(セリカ2.0 GT)を、2020年代時点まで40年に渡り大切に保有している[80]。1981年型でないのは、当時不況が深刻なブラジルは外国製品に対して厳しい輸入制限を設けていて納車が1983年になったためである[81]

親善大使

2015年、日本とブラジルの外交関係が樹立して120周年を迎えるにあたり、在リオデジャネイロ日本総領事館より親善大使に任命された。

その他[編集]

  • ファミリーコンピュータソフト「キャプテン翼II スーパーストライカー」に「アルツール・アンチネス・コインブラ」という選手がゲームのラストボスとして登場する。また、スーパーファミコンで発売された続編「キャプテン翼V 覇者の称号カンピオーネ」ではクリア後に戦える隠しチーム「カナリアスターズ」の一員としてアンツネスの名で登場する。
  • 1994年、エレクトロニックアーツよりスーパーファミコンソフト「ジーコサッカー」が発売された。
  • 1994年6月22日、当時の総理大臣羽田孜より、日本サッカー界への貢献を評価して内閣総理大臣顕彰が贈られた。2022年現在でも外国人個人として唯一の受賞者である。
  • 嫌いな日本食は、きつねうどん[82]
  • 1998年のブラジル映画陽だまりのイレブン」(原題 Uma Aventura de Zico ズィッコの冒険)にジーコ本人役と、厳格なジーコと陽気なジーコに分裂した「ジーコピー」の3役で出演。なお、夫人と息子もカメオ出演している。
  • 茨城県鹿嶋市にあるショッピングセンターチェリオ1階には「ジーコ広場」があり、ジーコのブロンズ像が置かれている。2004年2月8日には直筆の特大サイン、アントラーズに在籍したブラジル人選手のサイン寄せ書きを壁面に配置し、「ジーコ・ミニ・ミュージアム」と呼称し、当時日本代表監督だったジーコ本人が除幕を行うイベントを行った[83]
  • 1991年の天皇杯予選では、当時日本大学1年生の岡野雅行(後に浦和レッズ加入)と対戦している。当時、日本大学サッカー部は大学リーグ二部であり、翌年からプロチームとなる住友金属としてはずっと格下であったため、ジーコはベンチスタートであった。しかし岡野雅行が2得点、他の選手も得点し前半終了時点で3-0で負けている状況に、ジーコが慌ててウォーミングアップを開始。後半最初からジーコ投入となった。岡野雅行の感想によると、「ジーコがピッチに出た途端、全ての空気が変わった。まずレフェリーの態度が変わった。明らかに相手(住金)のファウルでこちら(日大)のボールのはずなのに、判定は相手ボールだという。さあ、ジーコさん、フリーキックどうぞって。」結局、後半のジーコの活躍により住友金属が勝利したとのこと。結果は日大4-5住金(前半 日大3-0住金、後半 日大1-5住金))[84]
  • ジーコが加入した当時の住金サッカー部は選手たちのアマチュア意識が抜けなかった。そのため夕食後に寮を抜け出してスナック菓子などのジャンクフードを買いこんでくる選手たちが多かった。ジーコは彼らにプロ意識を叩きこむため、毎晩選手寮の出入りを見張り、「プロ選手のカラダ造りに菓子は必要ない」と激怒した[27]

統計[編集]

所属チーム ゴール数 試合数 ゴール確率
フラメンゴ 508 731 0.69
ウディネーゼ 56 79 0.69
住友金属鹿島アントラーズ 54 88 0.61
ブラジル代表 48 71 0.68
オリンピック 1 8 0.12
マスターエイジ 10 18 0.55
ティーンエイジ 81 116 0.69
その他 50 52 0.90
総合計 826 1180 0.70

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1971 フラメンゴ 全国1部 15 2
1972 6 0
1973 35 8
1974 50 32
1975 55 41
1976 47 32
1977 47 36
1978 22 19
1979 22 27
1980 45 21
1981 41 28
1982 36 20
1983 48 42
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1983-84 ウディネーゼ セリエA 24 19
1984-85 16 3
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1985 フラメンゴ 全国1部 3 2
1986 4 3
1987 17 6
1988 18 4
1989 19 4
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1991-92 住金 10 JSL2部 22 21 2 1 - 24 22
1992 鹿島 - J - 10 6 2 1 12 7
1993 16 9 3 1 4 2 23 12
1994 7 5 0 0 - 7 5
通算 ブラジル 全国1部 530 327
イタリア セリエA 40 22
日本 J 23 14 13 7 6 3 42 24
日本 JSL2部 22 21 2 1 - 24 22
総通算 615 384

その他の公式戦

主な監督成績[編集]

タイトル[編集]

選手時代[編集]

フラメンゴ

監督時代[編集]

フェネルバフチェ
ブニョドコル
CSKAモスクワ
日本代表

個人タイトル[編集]

エル・グラフィコ誌から表彰された(左から)ジーコ、ディエゴ・マラドーナウバルド・フィジョール(1981年)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 〜ニョ小さい可愛らしいの意、日本語の「〜ちゃん」に相当。

出典[編集]

  1. ^ 「偉大なジーコがもたらした」鹿島のクラブW杯躍進 礎を築いた“神様”の功績に欧州が再注目”. FOOTBALL ZONE.WEB (2016年12月16日). 2017年4月7日閲覧。
  2. ^ a b 『Jリーグオフィシャルガイド1994・サントリーシリーズ』p29
  3. ^ “Arthur Antunes Coimbra "Zico" - Goals in International Matches” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. http://www.rsssf.com/miscellaneous/zico-intlg.html 
  4. ^ a b トヨタカップ 1992年 大会公式パンフレット p.77
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Zico, la leggenda del 'Galinho': icona del Flamengo e del Brasile, eroe all'Udinese, stella in Giappone” (イタリア語). GOAL (2023年3月24日). 2023年7月27日閲覧。
  6. ^ John Brewin (2002年4月23日). “World Cup 1982 (Spain)”. Soccernet. http://worldcup.espnsoccernet.com/story?id=203639 2006年7月3日閲覧。 
  7. ^ Oswaldo Tinhorão Bot generated title
  8. ^ Daniel Pearl (2006年4月3日). “No flair please, he's Brazilian”. London: BBC. http://news.bbc.co.uk/1/hi/programmes/newsnight/4866312.stm 2006年7月3日閲覧。 
  9. ^ a b c d Final da Libertadores da América de 1981”. www.melhoresdabase.com. 2020年4月21日閲覧。
  10. ^ a b ジーコスピリットに込めた鹿島への溢れる想い”. サッカーダイジェストWEB (2023年5月20日). 2023年5月20日閲覧。
  11. ^ a b c ジーコのヒストリー”. ジーコ公式サイト. 2021年2月26日閲覧。
  12. ^ a b c 【ジーコの想い】兄・エドゥーの存在なくしてスーパースター誕生はなかった 母の希望はピアニスト”. zakzak. 2021年2月26日閲覧。
  13. ^ 「ジーコを崇拝する」ミラン移籍の新星。身体的ハンデを同じフラメンゴの特別サポートで”. サッカーダイジェスト. 2021年4月13日閲覧。
  14. ^ 神様”ジーコ、1981年製日本車と“お宝2ショット”公開”. news.yahoo.co.jp. 2020年5月21日閲覧。
  15. ^ FIFA CLUB WORLD CUP の歴史”. NTV. 2020年4月21日閲覧。
  16. ^ ジーコ氏、ミラン移籍破談の過去を語る「今のように望めば移籍できる時代ではなかった」”. web.gekisaka. 2020年10月21日閲覧。
  17. ^ 白いペレが、おらが町に来た 80年代のセリエA、ジーコ移籍の伝説”. number.bunshun. 2020年6月3日閲覧。
  18. ^ a b c 白いペレが、おらが町に来た 80年代のセリエA、ジーコ移籍の伝説 ページ3”. number.bunshun. 2020年6月3日閲覧。
  19. ^ a b c Zico 1983-84”. www.transfermarkt.com. 2020年6月3日閲覧。
  20. ^ Franco Causio, 'Il Barone' della fascia destra: dai successi con la Juventus a campione del Mondo con l'Italia”. GOAL (2022年2月1日). 2023年8月18日閲覧。
  21. ^ a b 白いペレが、おらが町に来た 80年代のセリエA、ジーコ移籍の伝説 ページ4”. number.bunshun. 2020年6月3日閲覧。
  22. ^ a b Quella volta che Zico incantò Miano e stregò tutti contro l’Inter”. www.mondoudinese.it. 2020年6月3日閲覧。
  23. ^ Zico 1984-85”. www.transfermarkt.com. 2020年6月3日閲覧。
  24. ^ ストライカー 1988年7月号 p.20-23
  25. ^ a b c 3得点は当たり前。伝説のゴールよりも大切だったのは…”. サッカーダイジェストWEB (2023年5月20日). 2023年5月20日閲覧。
  26. ^ ジーコインタビュー”. NIPPONCOM. 2023年5月20日閲覧。
  27. ^ a b “すべてはジーコから始まった 衝撃のJリーグ開幕戦ハットトリック”. sportiva.shueisha. (7 April 2020). https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2020/04/07/post_17/index_2.php 2020年3月26日閲覧。 
  28. ^ a b c d e f g h i j k スポーツ報知 1994年6月16日 第40630号 報知新聞社 7版 1面
  29. ^ Jリーグカップ ハットトリック一覧”. data.j-league. 2020年4月21日閲覧。
  30. ^ “神様ジーコが激怒した日――27年前の4月12日から“常勝鹿島“の歴史は始まった”. thedigestweb.com. (2020年4月7日). https://thedigestweb.com/football/detail/id=13394?open=on 2020年3月26日閲覧。 
  31. ^ [https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/202003290002-spnavi ““メルカリ会長”に聞くアントラーズ改革 Jリーグ新時代 令和の社長像 鹿島編”]. sports.yahoo=. (2020年3月31日). https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/202003290002-spnavi 2020年3月26日閲覧。 
  32. ^ サッカーストライカー 1993年6月13日 p.20-21 学研
  33. ^ “すべてはジーコから始まった 衝撃のJリーグ開幕戦ハットトリック3”. sportiva.shueisha. (2020年4月12日). https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2020/04/07/post_17/index_3.php 2020年5月2日閲覧。 
  34. ^ “神様”ジーコ、「最高の瞬間4選」を英メディア特集 伝説のFK、鹿島時代の芸術弾も紹介-Football Zone 2020年3月7日
  35. ^ a b “ボールにツバを吐きかけて退場 ジーコ氏がヴェルディ川崎戦でのPKを語る”. news.livedoor.com. (2018年3月3日). https://news.livedoor.com/article/detail/14380957/ 2020年6月1日閲覧。 
  36. ^ 94Jリーグサントリーシリーズ 第22節”. data.j-league. 2020年4月21日閲覧。
  37. ^ 94JリーグKodakオールスターサッカー”. data.j-league. 2020年4月21日閲覧。
  38. ^ Gabriel Jesus joins Pele, Zico, Rivaldo and Neymar as Brazil's goalscoring debutants”. www.goal.com. 2020年4月21日閲覧。
  39. ^ a b c d e f g h i Zico national team”. www.transfermarkt.com. 2020年6月3日閲覧。
  40. ^ ブラジル代表“伝説のチーム”10番。ジーコ氏の1982年大会スーパーゴール集W杯”. yahoo. 2021年3月7日閲覧。
  41. ^ 「ジーコの技は誰にも止められない」82W杯、ブラジル最高傑作のチームはなぜ敗れたのか?<後編>”. www.soccerdigestweb.com. 2020年4月21日閲覧。
  42. ^ 1986 World Cup Northern Ireland vs Brazil”. worldfootballnet. 2021年3月7日閲覧。
  43. ^ ジーコのPK失敗、夢のような90分間”. Number. 2021年3月7日閲覧。
  44. ^ 私のすべて、次世代へパス 68歳・ジーコ氏のサッカー魂 人生100年の羅針盤”. 日本経済新聞 (2021年5月27日). 2021年6月13日閲覧。 “1998年W杯ではブラジル代表のザガロ監督を補佐し準優勝”
  45. ^ 鹿島の降格危機救う!ジーコが「監督」就任/復刻1999年8月20日付紙面”. 日刊スポーツ. 2022年3月12日閲覧。
  46. ^ a b c 2006.6.26 日本代表監督退任会見”. ジーコ公式サイト:ライブラリ/ジーコジャパンレポート (2006年6月26日). 2022年6月25日閲覧。
  47. ^ 日本代表ジーコ監督 退任会見全文
  48. ^ a b ジーコ氏がウズベキスタン監督就任へ”. ゲキサカ (2008年11月20日). 2020年6月14日閲覧。
  49. ^ ジーコ氏来日断念…日本に追い風か”. スポニチ (2008年10月12日). 2020年6月14日閲覧。
  50. ^ ジーコ氏がウズベキスタン協会と契約延長へ”. ゲキサカ (2008年11月17日). 2020年6月14日閲覧。
  51. ^ サッカー=ジーコ氏、わずか4カ月でフラメンゴのディレクター辞任、ロイター、2010年10月2日。
  52. ^ ジーコ氏が4カ月でフラメンゴTDを辞任、クラブ内で確執、スポーツナビ、2010年10月2日。
  53. ^ 58歳ジーコ氏勇気のV弾!「少しでも笑顔を」、スポニチ、2011年6月5日。
  54. ^ W杯予選抽選会、ジーコ氏がアジア担当、スポニチ、2011年7月31日。
  55. ^ ジーコの主張 イラクのピッチだけに留まらぬ諸問題-ジーコ公式HP2012年7月28日
  56. ^ ジーコ氏がイラク代表監督続行へ-日刊スポーツ2012年8月11日
  57. ^ ジーコ監督「日本がグループ1位になるのは間違いない」:試合後、イラク代表監督会見”. スポーツナビ (2021年9月12日). 2021年6月13日閲覧。
  58. ^ ジーコは古巣鹿島訪問後に離日”. 日刊スポーツ (2012年9月13日). 2022年6月25日閲覧。
  59. ^ ジーコ 古巣・鹿島を訪問 低迷後輩にゲキ”. スポーツニッポン (2012年9月13日). 2022年6月25日閲覧。
  60. ^ ジーコ、鹿嶋で教え子達と再会”. ジーコ公式HP ダイアリー (2012年9月15日). 2021年6月13日閲覧。
  61. ^ イラク代表監督の契約解消 -ジーコ公式HP2012年11月28日
  62. ^ Zicoが監督として2年契約に署名と同時に業務開始 -ジーコ公式HP2013年8月6日
  63. ^ ジーコ氏、古巣鹿島戦を観戦 選手を鼓舞”. 日刊スポーツ (2014年7月23日). 2022年6月25日閲覧。
  64. ^ ジーコ氏、インドのクラブ指揮 ゴア監督に就任 -スポニチアネックス 2014年9月3日
  65. ^ “ジーコ元代表監督が選出、ベルリン五輪代表も 日本サッカー殿堂”. スポーツニッポン. (2016年8月1日). https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2016/08/01/kiji/K20160801013078450.html 2016年8月1日閲覧。 
  66. ^ a b ジーコ氏が古巣・鹿島の健闘を称える「鹿島のことを誇りに思う」”. サッカーキング (2016年12月19日). 2022年3月13日閲覧。
  67. ^ ジーコ氏が来日【スルガ銀行チャンピオンシップ】”. Jリーグ公式HP ニュース (2017年8月10日). 2021年6月13日閲覧。
  68. ^ 第13回日本サッカー殿堂 ジーコ氏の掲額記念セレモニーを実施~スルガ銀行チャンピオンシップ2017 SAITAMA 【8/15@埼玉】”. JFA.jp ニュース (2017年8月10日). 2021年6月13日閲覧。
  69. ^ ジーコ氏5年ぶり鹿島訪問、小笠原&曽ケ端とハグ”. 日刊スポーツ (2017年8月18日). 2021年6月13日閲覧。
  70. ^ ジーコ氏がテクニカルディレクター就任』(プレスリリース)鹿島アントラーズ、2018年7月17日http://www.so-net.ne.jp/antlers/news/release/664692018年7月17日閲覧 
  71. ^ お知らせ 登録役員追加・変更・抹消” (2018-08-14|J.League Data Site). 2018年8月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月14日閲覧。
  72. ^ 「私にとって特別な誇り」鹿島TDジーコ氏がブラジルに帰国「クラブとのつながりは永遠」”. 超ワールドサッカー (2021年12月7日). 2022年3月12日閲覧。
  73. ^ 小室功 (2022年2月11日). “ジーコ・インタビュー(下):「日本には、本当に感謝しかない」”. 公益財団法人ニッポンドットコム. 2022年3月12日閲覧。
  74. ^ “サッカー指導者・ジーコ(5)リオと東京五輪をつなぐ懸け橋に”. 産経新聞. (2016-07 -29). オリジナルの2016年9月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160903215753/http://www.sankei.com/sports/news/160729/spo1607290001-n2.html 
  75. ^ “第11回 ロベルト・バッジオ、“独占取材”の夜(後編)”. www.ninomiyasports.com. (2008年8月8日). https://www.ninomiyasports.com/archives/11279 2020年6月1日閲覧。 
  76. ^ “ジーコの想い出 バッジオ、プラティニ 素の魅力で築かれた華麗な人脈”. www.zakzak.co.jp. (2014年10月8日). http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20141008/soc1410081550001-n1.html 2020年6月1日閲覧。 
  77. ^ 藤原清美 (2021年12月31日). “パンデミックを乗り越えて。ジーコが第17回チャリティーマッチを開催”. footballista. 2022年1月15日閲覧。
  78. ^ “ジーコ元監督、5年ぶり来日 慈善試合でプレーへ”. 朝日新聞. (2011年6月2日). http://www.asahi.com/sports/fb/TKY201106020501.html 2011年6月5日閲覧。 
  79. ^ “ジーコ氏、日本に「神の手」約束…W杯アジア最終予選で抽選役”. スポーツ報知. (2011年6月3日). https://web.archive.org/web/20110604180657/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/world/news/20110602-OHT1T00283.htm 2011年6月5日閲覧。 
  80. ^ "【話の肖像画】サッカー指導者ジーコ(2)初来日の賞品は今でもガレージに(3/3ページ)". 産経ニュース. 産経新聞. 26 July 2016. 2020年4月26日閲覧
  81. ^ 「筋トレしないと運転できない!」神様ジーコが40年間も乗り続ける“セリカ”との秘話に英感動!「走行距離は驚きの…」”. サッカーダイジェストWeb (2021年12月11日). 2022年12月3日閲覧。
  82. ^ 1998年3月26日放送 とんねるずみなさんのおかげでした【新・食わず嫌い王決定戦】石井竜也×ジーコ
  83. ^ チェリオのHPのジーコ広場の紹介ページ
  84. ^ 新潮社刊「野人伝」著者:岡野雅行
  85. ^ 第13回日本サッカー殿堂 掲額者決定のお知らせ”. 日本サッカー協会 (2016年8月1日). 2016年8月1日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]