女学雑誌

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女学雑誌
創刊号の表紙
ジャンル 婦人啓蒙・文芸
読者対象 女性・男性
刊行頻度 月2回、月3回、週刊、月刊、
末期は不定。
発売国 日本の旗 日本
言語 日本語
定価 五銭 - 十銭
出版社 万春堂、女学雑誌社
編集人 近藤賢三
編集人 巌本善治
刊行期間 1885年7月20日 - 1904年2月15日
発行部数 2500部(1885年12月)
姉妹誌 評論(1893年4月 - 1894年11月)
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女学雑誌(じょがくざっし)は、1885年(明治18年)7月から1904年(明治37年)2月まで、526号、計548冊刊行された、日本初の本格的女性誌。巌本善治が長く編集人を務めた。

歴史[編集]

近藤賢三を編集人に、1885年7月20日、創刊された。『日本の婦女をしてその至るべきに至らしめんことを希図す』と創刊号の『発行の主旨』にある[1]。『女学』とは、『女性の地位向上・権利伸張・幸福増進のための学問』と理解される。

翌1886年5月近藤が急逝し、巌本善治が継いだ。巌本は津田仙学農社で近藤の2年後輩の、同志だった。

初期は菊判(152 × 218mm) の20ページ、発行は万春堂。第11号から最終号までは四六倍判(188 × 254mm) の16 - 40ページ、発行は女学雑誌社。同社は1889年、本郷弓町(現・東京都文京区本郷)から京橋区日吉町(現・中央区銀座8丁目6番周辺)へ、さらに麹町富士見町(現・千代田区富士見)へ移転した。売れ行きはよかった。男性の読者も多かった。

ワンマン編集だったから、巌本の意向のままに雑誌は変わり、発行の頻度は、月2回、月3回、週刊、月刊と変遷した。内容も、1889年(明治22年)前半までは啓蒙的で、内村鑑三植村正久加藤弘之小崎弘道井深梶之助田村直臣、津田仙、津田梅子らの記事を載せ、巌本は社説のほか、信念・主義の論文を書きまくり、それらの陰に中島湘煙山田美妙らの文芸が載った。

1889年後半から文芸作品が増えた。7月に巌本と結婚した若松賤子が毎号のように翻訳・創作を載せ、清水豊子田辺花圃北村透谷も書いた。啓蒙主義からロマン主義へ文芸が舵を取った、その波が女学雑誌に及んだのである。この時期の若松賤子の小公子が歴史に残る。

1890年11月巌本は、自分が社説、清水豊子が主筆、若松と田辺が小説、荻野吟子が衛生など担当を定め、家政・救急手当・相場などの欄を設け、従来の『子供のはなし』欄を『児籃』と改めた。

巌本は、明治女学校の教頭、次に校長だった。同校で教える星野天知北村透谷らの若者が女学雑誌に書くのは自然の成り行きで、1892年6月から、雑誌を文芸記事の『甲の巻』と女学記事の『乙の巻』とに分け、第1週に甲なら第2週に乙と、交互に発行した。甲は白い表紙、乙は赤い表紙だったので、『白おもて』『赤おもて』と呼ばれたが、翌年4月から『白おもて』を『評論』と改題し、『赤おもて』を『女学雑誌』に戻し、さらに1894年11月、女学雑誌が評論を吸収合併した。この吸収は、折からの日清戦争に協力する事業のための、雑誌業の整理だった。一過性だったが、巌本は9月29日号の社説『時勢観』で、戦争協力を熱弁した。

目まぐるしい変遷の中で、若松、北村、豊子、桜井鴎村、戸川残花(戸川安宅)らが書く雑誌は売れていたが、1893年、星野天知戸川秋骨島崎藤村平田禿木らが離れて、浪漫主義の文学界を創刊した。1894年、北村透谷が自殺し、若松賤子が病んで筆が止まり、結婚後の三宅花圃、古在紫琴が戻り、成瀬仁蔵大和田建樹金子薫園青柳有美らが支えたけれども、戦後の巌本の社説は威勢を失った。

1900年(明治33年)3月、田中正造の『鉱毒文学』を載せた廉で雑誌は没収され、巌本は告訴された。それ以降、女学雑誌の発行は不規則に間遠になった。1902年中は発行せず、1903年12月、524号以降は青柳有美が編集人となり、日露戦争勃発の1904年2月、526号を出して終わった。

復刻版が、1966年 - 1967年と1984年の2回、臨川書店から発行されている。

参考文献[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]