唐才常

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唐才常

唐 才常(とう さいじょう、Tang Caichang1867年 - 1900年)は、末の思想家・革命家。字は伯平または仏塵、号は絨丞

経歴[編集]

湖南省長沙府瀏陽県の人。譚嗣同と同郷。長沙の校経書院・嶽麓書院武昌の両湖書院で学ぶ。

1897年熊希齢・譚嗣同・陳三立蔣徳鈞らとともに時務学堂を創設した[1]1898年には譚嗣同らとともに南学会を結成した。同年の戊戌の変法の際には譚嗣同の招きで北京に赴こうとするが、途中の漢口戊戌の政変がおこって譚嗣同が処刑されたことを知った。そのため上海から逃れて亡命し、香港シンガポール日本等を転々とした。

1899年に上海に戻り、『亜東時報』を発行した。同年秋には再び香港・東南アジア・日本を回り、康有為梁啓超孫文らの革命派と接触し、武装勤王を図るようになった。

1900年義和団の乱が発生すると唐才常は沈藎畢永年らと正気会(後に自立会と改称)を結成し、総司令を自任した[1]7月1日、上海張園で維新派の人物が集まり「中国国会」が開かれた。ここで容閎を会長に、厳復を副会長に、唐才常を総幹事に選び、さらに、哥老会や革命派知識人とも提携し、義和団の乱に乗じて同年8月挙兵して光緒帝を救出・擁立して南東部数省に改革派の政権を樹立する計画を立てた[1]。しかし、改革派を糾合するために満州人の支配を認めないにもかかわらず、皇帝に忠誠を誓う条項があるなど決議は混乱していた[1]。参加者は孫宝瑄汪康年章炳麟・畢永年など80人余りであった。

会後、自立軍が漢口・漢陽安徽省江西省・湖南省で同時に蜂起することが計画された。この計画は、日本アジア主義者たち、特に東亜同文会幹事の井上雅二の援助を受けていた。しかし、これらの動きは清朝に知られ、長江沿岸では厳戒態勢が敷かれていた。湖広総督張之洞のもとに密告があり、7月27日に唐才常らは逮捕され、翌日に処刑された[1]

著作[編集]

遺稿に『覚顛冥斎内言』『瀏陽二傑遺文』があり、後に『唐才常集』としてまとめられた。

親族[編集]

子の唐蟒は、中国同盟会にも参加した革命派の人士で、中華民国の軍人としても活動している。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 小野川秀美 『清末政治思想研究』みすず書房1969年
    • 第六章「義和団時期における勤王と革命」
  • 翟進 『東亜同文会と中国:近代日本における対外理念とその実践』 慶應義塾大学出版会、2001年 ISBN 476640825X
    • 第四章「義和団事変期の「連邦保全」工作」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]