北条盛房

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北条盛房
時代 鎌倉時代後期
生誕 仁治3年(1242年
死没 永仁5年7月9日1297年7月29日
別名 佐介盛房
官位 左近将監丹波、従五位上
幕府 鎌倉幕府
主君 惟康親王久明親王
氏族 佐介流北条氏
父母 父:北条政氏
宣房、貞尚、貞高
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北条 盛房(ほうじょう もりふさ)は鎌倉時代後期の武将、北条氏一門。佐介流北条政氏の子。佐介盛房とも。

生涯[編集]

盛房の家系である佐介流北条氏は、北条時房の直系でありながら、傍流の大仏流の隆盛と、佐介流北条時国北条時光らの凋落により大仏流の後塵を拝していたが、盛房の活躍によって地位を恢復した。

それでも佐介流の没落は盛房の出世の重石となったようで、要職に就き、幕府の中枢で活躍するのは40代を過ぎてからであった。弘安5年(1282年)に右近将監に叙任。弘安9年(1286年)、41歳で引付衆に選定され、翌年には評定衆にも名を連ねる。弘安11年(1288年)2月に六波羅探題南方に就任した。尚六波羅探題南方就任と間を置かずして左近将監に、同年8月には丹波に叙任されている。

六波羅探題南方の職は永仁5年(1297年)まで務め、同年5月16日に辞任した後は関東に下向し、7月8日に数え年56で没した。和歌にも堪能であり、新後撰和歌集に歌が収録されている。奈良の額安寺に墓塔が建立されている。

参考文献[編集]