ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヤーコプ・ミヒャエル・
ラインホルト・レンツ
誕生 1751年1月23日
リヴォニア、ゼスヴェーゲン
 ラトビア、ツェスヴァイネ
死没 (1792-06-04) 1792年6月4日(41歳没)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国、モスクワ
職業 著作家、劇作家、詩人
文学活動 シュトゥルム・ウント・ドラング
代表作 『家庭教師』(1774年)
『軍人たち』(1776年)
署名
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツJakob Michael Reinhold Lenz, 1751年1月23日 ユリウス暦1月12日 - 1792年6月4日 ユリウス暦5月2日)は、シュトゥルム・ウント・ドラング運動に関わったバルト・ドイツ人著作家(詩人劇作家)。

生涯[編集]

レンツはリヴォニアのゼスヴェーゲン(現ラトビアのツェスヴァイネ Cesvaine)に、キリスト教敬虔主義の牧師ダーフィト・レンツ(1720年 - 1798年)の息子として生まれた。1760年、レンツ9歳の時、家族はドルパートに移った。15歳で最初の詩を発表。1768年から1770年まで、最初はドルパートで、続いてケーニヒスベルクで神学を学んだ。ケーニヒスベルクではイマヌエル・カントの講義に出席し、ジャン=ジャック・ルソーを読むことを勧められた。それから次第に文学への興味が増し、神学の勉強はおろそかになっていった。1769年に長詩『Die Landplagen』を出版。音楽も学び、(おそらく)ウクライナ人ヴィルトゥオーソリュート奏者ティモフェイ・ベログラツキーと、ケーニヒスベルクに行ってからはその弟子ヨハン・フリードリヒ・ライヒャルトの指導を受けた。

1771年、レンツはケーニヒスベルクでの勉学を放棄した。父親の意志にさからって、レンツはクーラント出身の男爵で士官候補生として軍歴をスタートさせようとしていたフリードリヒ・ゲオルク・フォン・クライストおよびエルンスト・ニコラウス・フォン・クライスト兄弟[1]の従者となって、ストラスブールに同行した。そこでレンツはアクチュアリーのヨハン・ダニエル・サルツマンと知り合った。サルツマンが開いていたSociété de philosophie et de belles lettres(哲学および美しい文学協会)には、当時その地にいたヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテやヨハン・ハインリヒ・ユンク(Johann Heinrich Jung)が入り浸っていて、レンツは知己を得た。レンツはゲーテを崇拝し、ゲーテを通してヨハン・ゴットフリート・ヘルダーヨハン・カスパー・ラヴァーターとも知り合った。

1772年、レンツは主人らとランダウ・イン・デア・プファルツde:Landau in der Pfalz)、フォール=ルイヴィサンブールの駐留地に同行した。レンツはゲーテの昔の愛人フリデリーケ・ブリオンに恋をしたが、その思いは報われなかった。

1773年、レンツはストラスブールに戻って勉強を再開した。翌年、フォン・クライスト兄弟の元を離れ、フリーランスの著作家、個人教師として生計を立てだした。ゲーテとの関係はより親密なものになった。一緒にエメンディンゲンde:Emmendingen)を訪問した際には、ゲーテから妹のコルネーリアとその夫ヨハン・ゲオルグ・シュロッサーを紹介された。

1776年4月、レンツはゲーテを追ってヴァイマル宮廷に行った。最初は歓迎されたものの、12月のはじめ、ゲーテの教唆で追い出された。詳細は知られていない。以後レンツとの交際を絶ったゲーテも、日記の中で「Lenzens Eseley(レンツの愚行)」と曖昧に言及しているだけである。

レンツはエメンディンゲンに戻ると、シュロッサー家に身を寄せて、そこからアルザススイスに何度も旅をした。1777年5月、チューリッヒのラバターの元を訪ね、6月、コルネリア・シュロッサーde:Cornelia Schlosser)の死の報せを受け取った。この事件はレンツに大きな影響を及ぼした。レンツはエメンディンゲンに戻って、それからラバターのところに戻った。11月、クリストフ・カウフマンとヴィンタートゥーアに滞在していた時、レンツは妄想型統合失調症の発作に見舞われた。1778年1月、カウフマンはレンツをアルザスのヴァルダースバッハfr:Waldersbach)に住む慈善家・社会改革者・聖職者のヨハン・フリードリヒ・オーベルリーンのところに送り、1月20日から2月8日まで滞在した。オーベルリーン夫妻の献身的な看護にかかわらず、レンツの精神状態は悪化していった。レンツはエメンディンゲンのシュロッサー家に戻り、靴職人、さらに森林監督の下に預けられた。

1779年6月、ヘルティンゲンde:Hertingen im Markgräflerland)にいた弟のカールに引き取られて医者の治療を受けた。それから、父親が教区総監督をしていたリガに連れて行かれた。

リガでは職業として身を立てることができなかった。カテドラル・スクールの監督になろうとする試みはヘルダーが推薦状を断ったため実現しなかった。1780年の2月から9月にはサンクトペテルブルクにいたが、そこでも結果は同じだった。ドルパート近郊で何とか家庭教師の仕事を見つけた。その後、サンクトペテルブルクにしばらく滞在し、1781年9月、レンツはモスクワに行き、歴史家フリードリヒ・ミューラーらについて勉強した。

レンツは家庭教師として働きながら、ロシアフリーメイソン・作家たちのサークルと交わり、改革主義者の陰謀を手伝った。ロシア史の本をドイツ語に翻訳することもした。しかし、レンツの精神状態は着実に悪化する一方で、最後には、生きる術としてロシアのパトロンたちの慈善にすがるような状態だった。

1792年6月4日(ユリウス暦の5月24日)の早朝、レンツはモスクワの通りで遺体となって発見された。レンツの埋葬場所は知られていない。

レンツを題材とした作品[編集]

ゲオルク・ビューヒナー中編小説レンツ』は、レンツのオーベルリーン訪問を扱っている。ビューヒナーはオーベルリーンの手記からこの小説を執筆した。ヴォルフガング・リームの室内オペラ『ヤーコプ・レンツ』は、このビューヒナーの本を基にしたものである。

レンツを題材にした作品では他に、ペーター・シュナイダーde:Peter Schneider (Schriftsteller))の『Lenz』(1973年)、ゲルト・ホフマンde:Gert Hofmann)の『Die Rückkehr des verlorenen J.M.R. Lenz nach Riga』(1984年)がある。また、Marc Buhlの『Der rote Domino』(2002年)はゲーテとレンツの友情とその終焉から着想された推理小説である。

代表作[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • Damm, Sigrid, 1992. Vögel, die verkünden Land. Das Leben des Jakob Michael Reinhold Lenz. Frankfurt am Main: Insel Verlag. ISBN 3-458-33099-2
  • Hohoff, Curt, 1977. J. M. R. Lenz. Reinbek bei Hamburg: Rowohlt. ISBN 3-499-50259-3
  • Luserke, Matthias, 1993. Jakob Michael Reinhold Lenz: Der Hofmeister - Der neue Menoza - Die Soldaten. Munich: W. Fink. ISBN 3-8252-1728-0
  • Meier, Andreas, 2001. Jakob Michael Reinhold Lenz: Vom Sturm und Drang zur Moderne. Heidelberg: Universitätsverlag C.Winter. ISBN 3-8253-1238-0
  • Winter, Hans-Gerd Winter, 2000. Jakob Michael Reinhold Lenz (2nd ed). Stuttgart and Weimar: Verlag J. B. Metzler (=Sammlung Metzler, vol. 233). ISBN 3-476-12233-6
  • Lenz-Jahrbuch. Sturm-und-Drang-Studien. St. Ingbert: Röhrig Verlag.
  • Damm, Sigrid (ed.), 1987. Werke und Briefe, 3 vols. Leipzig [München/Wien]: Insel Verlag [Lizenzausgabe im Hanser Verlag]. ISBN 3-446-14665-2
  • Lauer, Karin (ed.), 1992. Werke. Hanser Verlag, München/Wien: Hanser Verlag. ISBN 3-446-16338-7
  • Voit, Friedrich, (ed.), 1997. Werke [selection]. Stuttgart: Reclam Verlag. ISBN 3-15-008755-4
  • Weiss, Christoph (ed.), 2001. Werke: Faksimiles der Erstausgaben seiner zu Lebzeiten selbständig erschienenen Texte, 12 vols. St. Ingbert: Röhrig Verlag. ISBN 3-86110-071-1
  • Weiss, Christoph (ed.), 2003. Als Sr. Hochedelgebohrnen der Herr Professor Kant den 21sten August 1770 für die Professor-Würde disputierte (facsimile of the first edition, Königsberg 1770. Laatzen: Wehrhahn Verlag. ISBN 3-932324-68-4
  • 佐藤研一『劇作家J.M.R.レンツの研究』(未來社

外部リンク[編集]