シドニー・ローム

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Sydne Rome
シドニー・ローム
生年月日 (1951-03-17) 1951年3月17日(73歳)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 オハイオ州アクロン
身長 165cm
職業 俳優
活動期間 1969年 -
配偶者 エミリオ・ラーリ (離婚)
ロベルト・バルナベイ
著名な家族 2児
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シドニー・ロームSydne Rome, 1951年[注 1]3月17日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州アクロン生まれの女優である[1][3]イタリアでの映画出演が多い。彼女の名前はよく間違ってSydneyとかSidneyと表記される[要出典]瞳は深いブルー[2]

人物・来歴[編集]

1951年(昭和26年)3月17日、オハイオ州の裕福な家庭に生まれる[3]ロシア系ユダヤ系の血をひく[2]。13歳の頃より演劇に興味を持ち[1]、大学の演劇科に進学[1]。1968年のの合作映画『キャンディ』の主役に応募するため[2]オーディションを受けたが「あまりも美しすぎる」と理由で落とされた[1][注 2]。意を決したシドニーは帰国せず、当時マカロニ・ウェスタンに沸くイタリアに渡り、念願叶い1969年(昭和44年)、ジュリアーノ・ジェンマ主演の『荒野の大活劇』の端役で映画デビューした[2]。しかしはるばる大西洋を越えて外国に来たのに端役が悔しく、必死にイタリア語を覚えた[2]。この時期にアルバイトファッションモデルをやった[2]。1972年のロマン・ポランスキー監督のブラック・コメディChe?』は、日本では公開されなかったが[2]、イタリアの大スター・マルチェロ・マストロヤンニとともに主役に抜擢され[2]、公開と同時に大きなセンセーションを捲き起こし、以降出演オファーが殺到した[2]。この映画のスチル写真家だったエミリオ・ラーリと恋に落ち1973年(昭和48年)8月、結婚するが[2]、のちに離婚している[3][4]。離婚理由は「あまりに美男子なので、一緒にいるとコンプレックスを感じる」だった[4]。ラーリの撮ったポートレートが巡り巡ってアラン・ドロンの許に届き[2]、ドロンと共演した1974年の『個人生活』で日本でも知名度を上げた[2][4]。『個人生活』のキャンペーンで初来日した際、記者会見で聞かれてもいないのに、このような私生活から過去の恋愛までペラペラ喋り[2]、付き添いを慌てさせた[2]。離婚後はフランスパリに住み[4]、当時のフランスでは、ドロンやミレーユ・ダルクジャン・ギャバンなど、映画スタアのレコーディングが流行ったことから[4]、シドニーもシャンソンレコードを発売している[4]

モデル出身で[要出典]70年代中心に、アメリカ人ではあるがハリウッドよりもヨーロッパ方面で活躍をした。

1987年(昭和62年)5月20日、ロベルト・バルナベイと結婚、のちに2児をもうける[3]

1980年代前半はヨーロッパで歌手としても活躍。当時のエアロビ・ブームに乗り、エアロビックダンスのビデオ、レコードも発売した[5]

1988年(昭和63年)、『アナザーウェイ D機関情報』で日本映画にも出演した。

代表作[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『スタア』1975年4月号、1976年4月号には、1946年生まれと記載されている[1][2]
  2. ^ 2位。1位はエヴァ・オーリン[2]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 「華麗なるヴィーナス」『スタア』1975年4月号、平凡出版、42–43頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 渡辺祥子「洋画サロンSTAR STORY SYDNE ROME 『美女の中の美女はいま…』」『スタア』1976年4月号、平凡出版、190–193頁。 
  3. ^ a b c d Sydne Rome, インターネット・ムービー・データベース (英語), 2011年2月28日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 「洋画 シャンソンを吹きこんだシドニー・ローム」『スタア』1975年8月号、平凡出版、101頁。 
  5. ^ http://www.discogs.com/Sydne-Rome-Aerobic-Fitness-Dancing/release/1850862

関連事項[編集]

外部リンク[編集]