クンフタ・ウヘルスカー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クンフタ・ウヘルスカー
Kunhuta Uherská
ボヘミア王妃
クンフタ・ウヘルスカー(14世紀)
在位 1261年 - 1278年

出生 1246年
死去 1285年9月9日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ボヘミア王国プラハ
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ボヘミア王国プラハ、アネシュスキー修道院
結婚 1261年10月25日 プレスブルク
配偶者 ボヘミアオタカル2世
  サーヴィシュ・ズ・ファルクンシュテイナ
子女
家名 リューリク家
父親 ロスチスラフ・ミハイロヴィチ
母親 アンナ
宗教 キリスト教カトリック教会
テンプレートを表示

クンフタ・ウヘルスカーチェコ語: Kunhuta Uherská, 1246年 - 1285年9月9日)は、ボヘミアオタカル2世の2人目の王妃。ハンガリー語名はクニグンダKunigunda)、ドイツ語名はクニグンデ・フォン・ウンガルンKunigunde von Ungarn)。父方の家名をつけてクンフタ・ハリチスカーチェコ語: Kunhuta Haličskáハーリチのクンフタ)と呼ばれることもある。

生涯[編集]

ロスチスラフキエフ・ルーシの公族(キエフ大公ミハイル2世の子)で、母はハンガリーベーラ4世の長女アンナ英語版。ロスチスラフの一家は国を追われた後、外祖父ベーラ4世の宮廷に迎えられ、スラヴォニア公の地位を与えられた。このためクニグンダはハンガリー王族とみなされ、ウヘルスカー(チェコ語: Uherská、ハンガリーの)の家名で呼ばれている。

1261年にオタカル2世と結婚し、1男2女を儲けた。

1278年マルヒフェルトの戦いでオタカル2世がローマ王ルドルフ1世の軍に敗れて戦死すると、ボヘミアの領土は縮小し、プラハ周辺の州を保持するだけになった。幼少のヴァーツラフ2世を抱えて摂政となったクンフタは、ルドルフ1世の圧力と戦いながら国政の舵取りを迫られ、ヴァーツラフ2世とルドルフ1世の六女ユディトとの婚約を成立させた。

1284年、ボヘミアのマグナートであるザーヴィシュ・ズ・ファルケンシュテイナチェコ語版(1290年刑死)と再婚したが翌年に死去、アネシュスキー修道院チェコ語版に埋葬された。