王羲之
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王 羲之(おう ぎし、拼音: 、303年 - 361年[注釈 1])は、中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれている。本貫は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市蘭山区)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族の琅邪王氏の出身である。
注釈
- ^ 王羲之の生没年には、303年 - 361年(『東観余論』の説)、306年 - 364年、321年 - 379年、303年 - 379年(姜亮夫の説)、307年 - 365年(清の魯一同(ろ いつどう、1804年? - 1863年)の説)など諸説あるが、303年 - 361年が比較的信頼性があるとされている[1][2]。
- ^ 初唐の三大家、三筆、三跡など。
- ^ しかし羲之自身は武人を志しており、中央政界での出世は、あまり望まなかったという。
- ^ 『晋書』王羲之伝によると、王羲之は前任の会稽内史であった王述を軽んじていた上、彼が母の喪に服していたときも、一度しか弔問に訪ねなかったことから、王述は王羲之を恨むようになったという。また『世説新語』仇隙篇によると、王羲之は王述の母の弔問に赴くといっては、たびたび取り下げ、ようやく訪れたときも、喪主の王述が哭礼している前に進み出ず、そのまま帰ってしまうなど、王述を大いに侮辱したという。
- ^ 『法書要録』(張彦遠編)第4巻に収録された『二王等書録』(張懐瓘撰)に、「右軍書大凡二千二百九十紙,裝為十三帙一百二十八卷:真書五十紙,一帙八卷,隨木長短為度;行書二百四十紙,四帙四十卷,四尺為度;草書二千紙,八帙八十卷,以一丈二尺為度。」とある(『二王等書録』の原文)。
- ^ 沙門(しゃもん)とは、僧のこと。
- ^ 顆(か)は印鑑を数える単位。
- ^ 『右軍書記』(ゆうぐんしょき)は、張彦遠が二王の書跡の全文を集録したもので、草書の尺牘が最も多い。『法書要録』第10巻に収録されている[17]。
- ^ 筆跡中、「遊目」と草書で書かれている。
- ^ 足下行穣九人還(改行)示應決不。大都當佳[24]。
- ^ 意味:王羲之の文字でなければ、文字ではない。
出典
- ^ 比田井南谷 P.108
- ^ 飯島春敬 P.56
- ^ 比田井南谷 P.110
- ^ 「王羲之書字勢雄逸,如龍跳天門,虎臥鳳闕」(『古今書人優劣評』の原文)。
- ^ 西林昭一 P.106
- ^ a b 飯島春敬 P.57
- ^ a b 鈴木洋保 PP..18-19
- ^ 中田勇次郎 P.10
- ^ 比田井南谷 P.115、PP..117 - 118
- ^ a b 内藤乾吉 PP..167-168
- ^ 飯島春敬 P.58
- ^ 中西慶爾 PP..279-280,515
- ^ 木村卜堂 P.115
- ^ 西林昭一 P.123
- ^ 藤原鶴来 P.64
- ^ 中西慶爾 P.99
- ^ 中西慶爾 P.792
- ^ 藤原楚水 P.418
- ^ 書論研究会 P.57
- ^ 内藤乾吉 PP..169-170
- ^ 中西慶爾 PP..479-480、P.929
- ^ 飯島春敬 P.61
- ^ 比田井南谷 P.118
- ^ 内藤乾吉 P.169
- ^ 内藤乾吉 PP..168-169
- ^ 比田井南谷 PP..117-118
- ^ 楊仁ガイ
- ^ 中田勇次郎 P.191
- ^ 西林昭一 P.133
- ^ 中田勇次郎 PP..190-191
- ^ 飯島春敬 P.59
- ^ 中西慶爾 P.407
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