上杉憲政
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上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての上野国の大名。室町幕府の関東管領(1531年-1561年)。山内上杉家15代当主。北条氏康に敗北した後、長尾家の長尾景虎(のちの上杉謙信)を養子とし、上杉家の家督と関東管領職を譲った。謙信の死後、上杉家の家督相続をめぐり争われた御館の乱で戦死した。
注釈
- ^ 山内上杉家では15世紀後半以降に関東管領そのものが事実上の官途とみなされ、関東管領になった憲政には実際の官途はなく、「兵部少輔」は江戸時代の創作とされる[1]。
- ^ 武田氏は天文10年6月に晴信が家督を継承しており晴信初期には盟約関係にあった諏訪領への侵攻を行っているが、武田の諏訪侵攻には諏訪頼重と憲政との単独講和が要因になっているものと考えられている[6]。
- ^ 河越城の戦い直後の天文15年4月発給文書の署名は「憲政」であるが、同年7月の文書には「憲当」の署名になっているため、この間の時期に改名したと推定される[7]。
- ^ 憲政を支持する沼田顕泰が北条に属さんとする当主・朝憲を殺害、既に北条に帰属した厩橋長野氏が介入して顕泰を追い、北条綱成の次男・沼田康元が沼田を継ぐ。
- ^ 『安中市史』や黒田基樹などによれば、この時期安中氏は北条方と上杉方に分裂していたといい、安中氏全体が憲政に従ったわけではない。
- ^ 平井落城年は「鎌倉九代後記」「喜連川判鑑」「関八州古戦録」など江戸期以降の諸本で天文20年と記載される。しかし「武蔵国龍淵寺年代記」や同時代史料の「仁王経科注見聞私 奥書」に記載された天文21年が落城年とされる[10]。
- ^ 「上杉系図」に憲政-憲重-憲国-憲益とみえる、とある[17]。
出典
- ^ 木下聡「山内上杉氏における官途と関東管領職の問題」 『日本歴史』第685号、2005年。
- ^ 近藤瓶城 編「喜連川判鑑」『続史籍集覧 第4冊』近藤印刷部、1930年、240頁 。
- ^ 黒田基樹「関東享禄の内乱」『関東足利氏と東国社会』岩田書院〈中世東国論 5〉、2012年。
- ^ 「高白斎記」『山梨県史』資料編6上(県内記録)、「蓮華定院文書」『信濃史料』2所載
- ^ 「神使御頭之日記」『山資』6下(県外記録)
- ^ 平山優『川中島の戦い』
- ^ 冨田勝治 著「上杉憲政の発給文書について」、東国戦国史研究会 編『関東中心戦国史論集』名著出版、1980年。/所収:黒田基樹 編『山内上杉氏』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第一二巻〉、2014年。ISBN 978-4-86403-108-0。
- ^ 「高白斎記」「勝山記」『山資』6上所載
- ^ 森田真一 著「北条氏と山内・扇谷両上杉氏」、黒田基樹 編『北条氏康とその時代』戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年7月、236-237頁。ISBN 978-4-86403-391-6。
- ^ a b c d e 『群馬県史』
- ^ 久保田順一 『上野武士団の中世史』みやま文庫、1996年。
- ^ a b c d e 久保田順一『室町・戦国期上野の地域社会』岩田書院〈中世史研究叢書 6〉、2006年。
- ^ 高崎市市史編さん委員会編 『新編高崎市史』通史編2、高崎市、2000年。
- ^ 黒田基樹 著「関東管領上杉氏の研究」、黒田基樹 編『関東管領上杉氏』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻〉、2013年、13-14頁。ISBN 978-4-86403-084-7。
- ^ こちらより。
- ^ 『戦国大名系譜人名事典 東国編』
- ^ 太田亮「倉本」『姓氏家系大辞典』 第2巻、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2184頁 。
- 1 上杉憲政とは
- 2 上杉憲政の概要
- 3 偏諱を受けた人物
- 4 関連作品
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