伊丹万作
(Mansaku Itami から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/09 02:39 UTC 版)
伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2日 - 1946年(昭和21年)9月21日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。本名:池内 義豊(いけうち よしとよ)。
注釈
- ^ これらの時代劇は「髷をつけた現代劇」と呼ばれた
- ^ 『楽天』は現存しないが、中村草田男の回想によると、中判の罫用紙に文章を書き、木炭紙に口絵を描いて綴じた簡素な雑誌であったという[8]
- ^ 「根津須賀町のその家は、よく建てこんだ狭い街にいくらでもあるような平凡な格子戸のある家であつたが、ただ変つた点は入口の格子戸の上に飛行機のプロペラの折れたのが打ちつけてあり、小さな札に日本飛行何とかという協会のような名まえが書いてあることであつた。[7]」
- ^ 「もつと必死に絵の勉強をする必要を感じてきたのと、死なれては困る友人が郷里で肺病になつて寝ついてしまつたので見舞がてら一まず郷里へ帰る決心をした。そしてただちにそれを実行した。二十三の年の秋である。[7]」
- ^ 「瓢太郎」は松山最初のおでん屋と言われている[7]
- ^ 『私の活動写真傍観史』では、中川は『下郎』の作者と紹介されている
- ^ 1928年(昭和3年)に稲垣浩監督が『放浪三昧』の題で映画化した
- ^ 1931年(昭和6年)に振津嵐峡監督が『快侠金忠輔』の題で映画化した
- ^ 他の3社は、ピー・シー・エル映画製作所、東宝映画配給、写真化学研究所
- ^ シナリオ原題『昔を今に』
- ^ シナリオ原題『東海道膝栗毛』
出典
- ^ a b c d 伊丹万作、KINENOTE、2015年2月3日閲覧
- ^ a b 伊丹万作、日本大百科全書、コトバンク、2015年2月3日閲覧
- ^ a b c d e f 佐藤2007、p.49
- ^ a b c d e f g 冨士田1985、p.245
- ^ キネマ旬報1976、p.36
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 伊丹万作、伊丹十三記念館、2015年2月3日閲覧
- ^ a b c d e f g h i j k l m 伊丹1936
- ^ 『中村草田男全集11』、みすず書房、1987年、p.160
- ^ 米田1985、p.295
- ^ a b c d e f 古川千家「挿絵画家時代の伊丹万作の仕事」『愛媛大学法文学部論集. 人文学科編』第25巻、愛媛大学法文学部、2008年、23-66頁、CRID 1050860708481592064、ISSN 1341-9617。
- ^ a b c d e 冨士田1985、p.246
- ^ a b 伊丹万作・大江健三郎編『伊丹万作エッセイ集』、ちくま学芸文庫、2010年、p.298
- ^ 記念館便り「昭和2年のお正月」、伊丹十三記念館、2015年2月3日閲覧
- ^ a b c d e f 冨士田1985、p.247
- ^ 米田1985、p.196
- ^ 三省堂1995、p.57
- ^ 冨士田1985、p.248
- ^ 米田1985、p.302
- ^ 時代劇映画、世界大百科事典、コトバンク、2015年2月3日閲覧
- ^ a b 冨士田1985、p.249
- ^ a b 佐藤忠男『映画史研究』
- ^ 冨士田1985、p.250
- ^ 戦国奇譚 気まぐれ冠者、日活作品データベース、2015年2月3日閲覧
- ^ a b 冨士田1985、p.251
- ^ 原節子主演 映画「新しき土」公式HP、2015年2月3日閲覧
- ^ 伊丹1961、p.246
- ^ 映画『無法松の一生』再生(Ⅲ)、2015年2月3日閲覧
- ^ a b c 冨士田1985、p.253
- ^ 『戦後京都のあゆみ』、京都民報社、1988年、p.183
- ^ 伊丹万作、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2015年2月3日閲覧
- ^ 池内キミさん死去 映画監督故伊丹万作氏の妻、共同通信、2013年1月13日閲覧
- ^ a b 伊丹万作、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年2月3日閲覧
- ^ 主な所蔵リスト、マツダ映画社、2015年2月3日閲覧
- ^ 花火、大阪芸術大学、2015年2月3日閲覧
- 1 伊丹万作とは
- 2 伊丹万作の概要
- 3 フィルモグラフィ
- 4 著作
- 5 外部リンク
- Mansaku Itamiのページへのリンク