エトムント・フェーゼンマイヤーとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > エトムント・フェーゼンマイヤーの意味・解説 

エトムント・フェーゼンマイヤー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/01 09:34 UTC 版)

エトムント・フェーゼンマイヤー
Edmund Veesenmayer
生年月日 1904年11月12日
出生地 ドイツ帝国
バイエルン王国 バート・キッシンゲンドイツ語版
没年月日 (1977-12-24) 1977年12月24日(73歳没)
死没地 西ドイツ
ヘッセン州 ダルムシュタット
所属政党 国家社会主義ドイツ労働者党

ハンガリー駐在特使
在任期間 1944年 - 1945年
総統 アドルフ・ヒトラー

オーストリア駐在大使
在任期間 1938年 - 1945年
総統 アドルフ・ヒトラー
テンプレートを表示

エトムント・フェーゼンマイヤー(Edmund Veesenmayer、1904年11月12日 - 1977年12月24日)は、ドイツ国政治家親衛隊員親衛隊少将ハンガリークロアチアホロコーストに関与した。フェーゼンマイヤーはエルンスト・カルテンブルンナーヨアヒム・フォン・リッベントロップの部下でアドルフ・アイヒマンの協力者だった[1]

来歴

生い立ち

1904年、オーバーシュタウフェンドイツ語版ケンプテンの学校教師フランツ・クサーヴァー・フェーゼンマイヤーの息子として生まれる。1923年からルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンで政治学を学び、1926年からはアドルフ・ヴェーバー (経済学者)英語版に師事し、1928年に博士号を取得する。博士号取得後はミュンヘン工科大学ベルリンの大学で経済学の講師を務める。

ナチ党入党

1932年、ヴィルヘルム・ケプラーの仲介でアドルフ・ヒトラーと出会い、2月1日にナチ党に入党(党員番号873,780)。1934年4月から経済問題研究委員会英語版(ケプラー委員会)に所属し、6月には親衛隊に入隊した(隊員番号202,122)。フェーゼンマイヤーはケプラー委員会での活動を通して経済界との関係を構築した。

1937年4月、オーストリア問題全権委員に就任したケプラーの代理に任命され、ヒトラーに指導力不足を指摘されていたオーストリア・ナチス指導者のヨーゼフ・レオポルトドイツ語版排除を実行し、ウィーンを拠点にオーストリア企業を監督した[2]。1938年2月にヨアヒム・フォン・リッベントロップによりオーストリア大使に任命され、アンシュルス後も大使職を保持した[3]

東欧での活動

大使就任後、フェーゼンマイヤーはリッベントロップの命令で、1938年11月から1939年3月にかけてブラチスラヴァに数回派遣され情報提供者と接触し、ヨゼフ・ティソを親独政権の首班にするため尽力した。また、1939年8月にはダンツィヒに派遣されポーランドとの開戦機運を高めるための工作に従事した。1940年3月からは、イギリスに対してアイルランドを中立に移動するための計画を委託された[4]

1941年4月、ドイツのザグレブクロアチア)の外交スタッフになり、ウスタシャアンテ・パヴェリッチの擁立を支持した。1941年から1942年にかけてクロアチア独立国セルビア救国政府パルチザンとユダヤ人の迫害・殺害に重要な役割を果たした。1943年の春から秋にかけてハンガリー王国に派遣され、摂政ホルティ・ミクローシュの監視を任された。フェーゼンマイヤーは、「ホルティが枢軸国から離脱しようとしている」として、ハンガリーに軍事介入するようにヒトラーとリッベントロップに報告した。1944年3月19日、ヒトラーはマルガレーテ作戦Iを発動し、フェーゼンマイヤーはドイツに占領されたハンガリーの「大ドイツ国の正式代表者」であるハンガリー駐在特使に任命される[5]

1944年6月13日付けの電報で、フェーゼンマイヤーは外務省に「45の車両と92の列車で合計289,357のユダヤ人をカルパチア山脈とトランシルヴァニア地方から輸送する」と報告している[6]。15日にはリッベントロップに「34万人のユダヤ人が帝国に発送された」と電報で語った。また、ユダヤ人問題の最終決済の後、強制送還されたハンガリー系ユダヤ人の数は90万人に達すると発表した[7]。ハンガリー系ユダヤ人の輸送に関しては国家保安本部エルンスト・カルテンブルンナーに報告を上げていた[8]

晩年

1945年3月にザルツブルクアメリカ軍の捕虜となる。敗戦後に大臣裁判にかけられ、1949年4月11日に犯罪組織のメンバーで人間性、奴隷制に対する犯罪のために禁固20年の判決を受けた。1951年1月31日に駐ドイツ高等弁務官ジョン・J・マクロイの指示により10年に減刑され、12月に釈放された[4]。刑期は、フェーゼンマイヤーの関与したとされる殺害人数1人につき、約6分相当であった。

1953年のイギリス情報機関の報告によると、元国民啓蒙・宣伝省次官ヴェルナー・ナウマンが設立した右翼団体ナウマン・サークルドイツ語版に加入し、自由民主党への潜入を模索していたという[9]。その後はルーベのフランス企業Pennel&Flipoのドイツ・ゼネラルマネージャーを務め、1977年にダルムシュタットで死去した。

参考文献

  • Reitlinger, Gerald, The SS – Alibi of a Nation, Viking (Da Capo reprint), New York 1957 ISBN 0-306-80351-8
  • (German-language biography) Igor-Philip Matic: Edmund Veesenmayer. Agent und Diplomat der nationalsozialistischen Expansionspolitik. Oldenbourg 2002, ISBN 3-486-56677-6.
  • Eckart Conze, Norbert Frei, Peter Hayes, Moshe Zimmermann: Das Amt und die Vergangenheit. Deutsche Diplomaten im Dritten Reich und in der Bundesrepublik. Karl Blessing Verlag, München 2010, ISBN 978-3-89667-430-2.

出典

  1. ^ Reitlinger, SS – Alibi of a Nation, at pages 351–352, 360, 367.
  2. ^ Robert Wistrich: Wer war wer im Dritten Reich. Frankfurt am Main 1993, S. 364.
  3. ^ Helmut Roewer, Stefan Schäfer, Matthias Uhl: Lexikon der Geheimdienste im 20. Jahrhundert. München 2003, S. 476.
  4. ^ a b Hermann Weiß (Hrsg.): Personenlexikon 1933–1945. Wien 2003, S. 468.
  5. ^ Michael Wildt: Generation des Unbedingten. Hamburg 2003, S. 714.
  6. ^ Zitat bei Ernst Klee: Das Personenlexikon zum Dritten Reich. Wer war was vor und nach 1945. Fischer Taschenbuch Verlag, zweite, aktualisierte Auflage, Frankfurt am Main 2005, ISBN 978-3-596-16048-8, S. 638.
  7. ^ Bundesarchiv (Hrsg.): Europa unterm Hakenkreuz. Band 6, Berlin 1992, S. 331.
  8. ^ Robert Wistrich: Wer war wer im Dritten Reich. Frankfurt am Main 1993, S. 365.
  9. ^ Ernst Klee: Das Personenlexikon zum Dritten Reich. Frankfurt am Main 2003, S. 638, Quelle BAK N 1080/273.



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エトムント・フェーゼンマイヤー」の関連用語

エトムント・フェーゼンマイヤーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エトムント・フェーゼンマイヤーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエトムント・フェーゼンマイヤー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS