1972年11月
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「ウルグアイ空軍機571便遭難事故」の記事における「1972年11月」の解説
11月1日(水) 嵐は去り、空は晴れた。生存者たちは機内の材料で雪を掻き出す道具を作り、それを使って機内から雪を取り除き、遺体を掘り出した。また、この日はアルフレド・"パンチョ"・デルガドの誕生日でもあった。ロベルト・"ボビー"・フランソイスとコチェ・インシアルテは山を100メートルほど登ったが途中で引き返した。数日後、ヌマ・トゥルカッティとホセ・ペドロ・アルゴルタは機体の翼に登った。 11月5日(日) ナンド・パラードとロベルト・カネッサの他に誰が最終的な救助を求める遠征に同行するかを決めるために、精神的・肉体的なテストをすることとなった。このために、カルロス・パエス、ロイ・アル、アントニオ・"ティンティン"・ビシンティンの3人が山の下側に2日間遠征した。3人は、機体の後部ドアと、アルミニウム容器2個、コーヒーの残り3分の1を発見した。日没までに機体へ戻るのは不可能だった。パエスとアルレーは遠征の苦しみに耐えられず、ビシンティンが同行することになった。 11月15日(水) アルトゥーロ・ノゲイラが足の負傷の炎症が元で死亡した(死亡27人、生存18人)。遠征隊は、機体を出て西へ向かうつもりだったが、気象条件が悪化し、3時間後に引き返した。 11月17日(金) 数回の遠征挑戦のあとに、ナンド・パラード、ロベルト・カネッサとアントニオ・"ティンティン"・ビシンティンを含む最終グループが結成された。ロベルト・カネッサの主張で、3人はまず、尾部を発見するために山脈の東へ向かおうとした。 11月18日(土) 3人の遠征隊は北西へ向かって進み、機体の尾部を発見した。スーツケースが数個あり、中身は煙草と残飯と衣服とボール箱だった。また残飯および、漫画雑誌、衣服、煙草を発見した。アントニオがポールに巻き付けられた断熱材を発見した。これは、後に彼らの脱出の鍵となった。尾部の内部でよく保存された状態のバッテリーを発見した。3人はそこで夜を過ごした。 機体では、ラファエル・エチャバーレンが死亡した(死亡28人、生存17人)。 11月19日(日) バッテリーが非常に重かったので、バッテリーを機体まで運ぶ代わりに機体から無線機を尾部まで持って来ることに決めた。3人は機体に戻り、スーツケースの山から発見したものを仲間に示した。 11月23日(木) ロベルト・"ボビー"・フランソイスの誕生日で、生存者たちは、彼に煙草1箱を誕生日プレゼントとして与えた。ロベルト・カネッサとナンド・パラードは機体から無線機を取りはずした。 11月24日(金) アントニオ・"ティンティン"・ビシンティンおよび、ロベルト・カネッサ、ナンド・パラード、ロイ・アルレーが、長く苦しい距離の中、1時間半かけて無線機を尾部まで運んだ。到着すると、雪解けによって前回より多くのスーツケースが露出していた。ロイ・アルレーは無線機の修理に取りかかった。 11月25日(土) 少年らが遠征から帰還した後、尾部に同行したロイ・アルレーは気が進まないながら修理を手助けしたが、より若いひとりと電気工学の専門家が11月25日から11月29日の間に修理を続けた。 11月26日(日) 持ってきた食料が尽きたので、パラードとビシンティンが機体へ戻った。アルレーとカネッサは、無線機の修理を続けるために尾部に残った。 11月28日(火) パラードとビシンティンがより多くの食料を尾部へ運んで来た。生存者たちはトランジスタラジオによってウルグアイ空軍のC-47が彼らの捜索を再開したことを知った。 11月29日(水) 無線機が修理できないことが判明したので、彼らは機体へ引き返した。そのときはわからなかったが、無線機はバッテリーで駆動していたのではなく、機体のエンジンが発生させる電力で動作していた。 西へ向かうことが唯一の生存の方法だと彼らは考えていたが、厳寒の夜を数日間乗り切らなければならなかった。寝袋を作ることが提案された。
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