第一次上海事変とは? わかりやすく解説

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第一次上海事変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 08:12 UTC 版)

第一次上海事変(だいいちじシャンハイじへん)は、1932年昭和7年)1月28日から3月3日にかけて、中華民国上海共同租界周辺で起きた日中両軍の衝突である。中国語では「一・二八」事變と呼称される。この戦いで、日本側は第一次世界大戦青島の戦い(戦死者273名、負傷者972名)を上回る戦死者約770名、負傷者2,300名以上という損害を出し、日露戦争以来の大激戦となった。


注釈

  1. ^ 座談会 上海、混沌の都市 事変前夜、翻弄される共同租界」において、伊藤隆が「田中隆吉はどういう根拠でそんなことを言っているのかわからない。あの人が言っただけでしょう。」と述べると、臼井勝美は「そうです。あれがちょっとよくわからない」と返答し、福州事件について「明らかに陰謀です」、青年同志会の殴り込みについて「当然息はかかっていると思います」とするも、「お坊さんのほうはちょっとよくわからない」と述べている[16]

出典

  1. ^ 影山好一郎『第一次上海事変の研究―軍事的勝利から外交破綻の序曲へ―』錦正社、ISBN 平成三十一年一月十日 発行、ISBN 978-4-7646-0350-9、11頁。
  2. ^ a b c d e f g 枢密院 (1932)
  3. ^ サージェント (1996)、270頁。
  4. ^ NHK取材班 『金融小国ニッポンの悲劇』 角川文庫 1995年 pp.218-220.
  5. ^ 牛蘭事件の審問 第三国際の東洋攪乱 満洲日報 1931年9月18日
  6. ^ a b サージェント (1996)[要ページ番号]
  7. ^ a b NHK (1986)、159~161頁。
  8. ^ a b c d NHK (1986)、161~162頁。
  9. ^ 後藤 (2006)、239頁。
  10. ^ 後藤 (2006)、239~240頁。
  11. ^ NHK (1986)、171~172頁。
  12. ^ 「上海事変」『日本外交文書』満洲事変第二巻第一冊、六五文書
  13. ^ 上海事変 世界大百科事典
  14. ^ 田中隆吉「上海事変はこうして起こされた」『別冊知性 5 秘められた昭和史』河出書房、1956年12月、182~183頁。
  15. ^ a b c d e f g 後藤 (2006)、240頁。
  16. ^ NHK (1986)、213~217頁
  17. ^ NHK (1986)、172頁
  18. ^ a b NHK (1986)、241頁。
  19. ^ a b 日本海軍省「上海事変と帝国海軍の行動」昭和7年2月22日。促音小文字に改める。
  20. ^ a b ショート中尉の墜死は結局犬死 日支両軍の何れに従軍しても国法で処罰される 大阪時事新報 1932.2.27 神戸大学
  21. ^ 海軍軍令部編 田中宏巳、影山好一郎 監修・解説「昭和六・七年事変海軍戦史」緑蔭書房 2001年7月25日
  22. ^ #臼井 (1974)、170頁
  23. ^ #臼井 (1974)、179頁
  24. ^ 秦郁彦 『日本人捕虜 白村江からシベリア抑留まで 上』 原書房、1998年。
  25. ^ #臼井 (1974)、185頁
  26. ^ #臼井 (1974)、187頁
  27. ^ #臼井 (1974)、191ー192頁
  28. ^ #臼井 (1974)、195頁
  29. ^ #臼井 (1974)、194頁
  30. ^ 古屋哲夫 「日中戦争」岩波書店 1985年05月20日 p.70
  31. ^ 丸山昇 「上海物語 国際都市上海と日中文化人」 講談社学術文庫 2004年7月10日 p.187-188
  32. ^ 海軍軍令部編 田中宏巳、影山好一郎 監修・解説「昭和六・七年事変海軍戦史」緑蔭書房 2001年7月25日 p.208-209
  33. ^ 山村睦夫「戦前期上海における日本人居留民社会と排外主義1916~1942(下)『支那在留邦人人名録』の分析を通じて」『和光経済』第47巻第3号、和光大学社会経済研究所、2015年3月、1-28 (pdf:p.12)、ISSN 0286-5866NAID 1200056147462022年3月1日閲覧 
  34. ^ 1932年2月2日付 重光葵公使発芳沢外相宛電報「上海帰任以後の状況について」『日本外交文書 満洲事変』第2巻第1冊、p.42”. 外交史料館 日本外交文書デジタルコレクション. 2022年1月5日閲覧。
  35. ^ #臼井 (1974)、173-174頁
  36. ^ 中山兵曹射殺事件の真相 "蔣政権打倒" 目ざす同義協会の抗日沙汰 首魁は楊文道、犯人は楊海生 背後関係とその動機”. 同盟通信,神戸新聞. 神戸大学 (1936年7月13日). 2011年10月8日閲覧。
  37. ^ 加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』岩波書店岩波新書〉、2007年6月。ISBN 978-4-00-431046-4 



第一次上海事変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 14:27 UTC 版)

石邦藩」の記事における「第一次上海事変」の解説

1932年1月28日、第一次上海事変が勃発すると、石はユンカース K47(英語版)で1個小隊率い南京防衛の任を受ける。2月20日杭州への派遣命じられるが、乗機故障していたため、残りの6機を部下の邢剷非に率いさせ、第4隊、第6隊、そして広東空軍とともに先に杭州に向かわせた。 2月25日、ようやく機体直った石は、銃手の呉とともにの中杭州飛行場中国語版)に到着し黄秉衡航空署長蔣介石書簡届ける。書簡の内容は、公大飛行場から空母へと引き上げた日本軍航空隊による飛行場爆撃危惧するものであった。石と黄は協議結果、筧の全戦力20キロ離れた喬司機場、更に埠へと移動させる事にした。また、整備主任の曾堯には夜明け前起きてエンジン始動し温める事、邢剷非には日の出とともに上空警戒の任をそれぞれ命じた翌日2月26日午前5時、加賀から小田原俊郎大尉率い爆撃隊3個小隊13艦攻9機、援護隊として鳳翔から所茂八郎大尉率いる2個小隊3式艦戦6機が飛び立ち暁闇の空を杭州へと向かった。しかし、邢剷非が上空警戒の任を怠ったため、石の出撃杭州到達直後7時の事であった。 石は第六分隊長趙普操縦・竜栄銃手のV-92Cとともに飛び立ち編隊爆撃妨害続いて13艦攻第3小隊2番機および小隊それぞれ1機を撃墜。しかし弾数残り少なくなったうえ、銃手・沈延世の後部機銃故障。そこに渥美信一大尉率い第5小隊3機の銃撃を受け、7.7ミリ機銃が石の左腕貫通した。石の乗機次々と被弾しエンジンから火が噴出した。沈延世がパラシュート装着していなかったため、石は片手消火装置作動し鎮火させたのち地上不時着し渥美小隊飛び去るまで翼下隠れやりすごしたその際渥美小隊は石機の不時着地点からわずか400m先に喬司機場中国空軍22機(日本側は12機と記録)を発見稼働中の2機に銃撃浴びせ、1機撃破確実を報告した趙普明機は所茂八郎大尉機と巴戦展開し被弾、胸に重傷を負う。また、広東空軍派遣隊分隊長の呉汝鎏(中国語版)もウェイコ・エアクラフト(英語版)製単座戦闘機駆け付けた反撃にあい撃墜され、筧北東1キロ畑中不時着した日本軍機が飛び去った後、石は田相国より止血処置を受け、趙とともに杭州広済医院(現浙江大学医学附属第二医院中国語版))に搬送される。しかし3月4日敗血症で石の容態悪化、弟の石邦正から輸血され上海から医師を呼ぶなどの措置取られたが、結局左腕切断せざるを得なかった。左腕ホルマリン漬け標本となり同医院保管された。一方趙普明は肺の負傷大きくやむなく片肺切除した3月18日死亡した回復後傷跡見た蔣介石はいたく感涙し、教官として空軍留まるよう述べたまた、民衆の間でも石邦藩一躍英雄となり、「邦藩牌」というタバコ上海売られるほどだったという。 なお、この戦闘当時第二隊長であったという文献多くみられるが、国民政府によれば当時副隊長であった。この記録正しければ、腕を失った後も同職留まり同年8月20日第二隊長就任したことになる。 1933年7月飛行士引退し、筧中央航空学校三期入伍生隊隊長2月14日10月)を経て1934年南京大校機場中国語版)站長。1935年6月以降南京総站に指定され首都防空補給拠点を担う。1936年10月30日明故宮機場にてカーチス・ホーク献納式の整理指揮をとる

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第一次上海事変 (1932年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 02:37 UTC 版)

外白渡橋」の記事における「第一次上海事変 (1932年)」の解説

1932年1月28日、第一次上海事変で国民党軍により蘇州河北側当時日本人居留民多く居住していた通称日本租界」がある閘北区砲撃加えられたことにより、60万人もの中国人避難民外白渡橋渡って蘇州河南側共同租界入ろうとした。日本軍は何週間にもわたって通行制限した1932年2月20日、朝になって差し迫った戦火悶える群衆が、租界にいま一度入ろう外白渡橋向かって殺到した多く白系ロシア人女性避難民上海売春婦になった。高級売春婦末路は“ガーデン・ブリッジをうろつくこと”、要する外白渡橋物乞いになることだった。

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