ヤング‐あん【ヤング案】
ヤング案
ヤング案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 03:11 UTC 版)
「第一次世界大戦の賠償」の記事における「ヤング案」の解説
詳細は「ヤング案」を参照 1928年頃になるとアメリカ経済が過熱し、ドイツへの資金流入が激減した。ドーズ案では賠償支払額の変更が行えることになっていたが、賠償金総額や支払い年数は定まっていなかった。このためドイツは賠償金総額の確定とその減額を求めていた。1928年9月、オーウェン・D・ヤングを委員長とし、アメリカと日本、そしてドイツ側も参加する新たな委員会設置が決まった。1929年2月11日にはヤング委員会がパリで第一回協議を行った。フランスは年額25億金マルクを主張していたが、ドイツは10億金マルク以内を望んでいた。4月頃には会議決裂も危惧される状況であったが、6月4日にヤング案の大枠が合意され、賠償総額が定まった。 これにより賠償残額は358億1400万ライヒスマルクであると確定し、ドイツは59年賦(最初の37年間は平均19億8800万ライヒスマルクとドーズ公債融資の元本を合わせて20億5000万マルク、残りの22年間は16億から17億ライヒスマルクを支払う)でこれを支払うこととなった。配分はスパ会議での比率が原則となったが、アメリカが約3.3%にあたる6610万マルク、ポーランドが50万マルクの配分を受けている。また、現物賠償についても残り10年で打ち切られることになった。 また賠償金支払いを国家の手から離して非政治化する目的のため、賠償代理機関にかわって国際決済銀行創設が定められた。今後賠償金は国際決済銀行がドイツ政府から徴収し、債権国の中央銀行に分配する形式が取られることとなった。さらに国際決済銀行は、ドイツのライヒスバンクが負担義務をもつ3億ドルの債券(ヤング債)を発行し、売り上げを債権国に支払う形での賠償支払いも行われた。一方でドーズ案で導入されたライヒスバンクやドイツ国有鉄道の連合国による監理措置は終了することになった。 この措置によって賠償金総額はかなり減額され、負担も軽減されたが、ドイツ国内ではヤング案が国民を将来にわたって賠償金支払いに縛り付ける「ドイツ国民奴隷化法案」であるとするキャンペーンが右派を中心に行われ、ヤング案反対の国民投票が行われるに至った(en:German referendum, 1929)。反対派にはヤング案制定に参加したものの、自らがヤングに提案した国際決済銀行構想の矮小化に反発したライヒスバンク総裁ヒャルマル・シャハトも加わっている。結局ヤング案は批准されたが、ドイツにおいて極右派、とくにナチ党の台頭を招くことになる。1929年8月31日にはハーグでヤング案が正式採択され、ラインラントからの連合軍撤退が開始された。その後1930年3月にフランス議会でヤング案は批准され、5月17日に発効した。
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