食品事業の開始
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1946年(昭和21年)冬、疎開先から大阪へ戻り、泉大津市に住んだ。終戦直後は土地が安く手放されていたため、久原房之助の助言により、大阪の中心街の心斎橋ほか御堂筋や大阪駅前など相当の土地を手に入れた。戦後の食糧難の中で「衣食住というが、食がなければ衣も住もあったものではない」という思いを抱くようになり、食品事業を手掛けることを決意した。百福によるとこの時抱いた想いが原点となって、後に日清食品の企業理念「食足世平(食足りて世は平らか)」が誕生した。自宅近くにあった軍需工場跡地の払い下げも受け、跡地に置かれていた鉄板を用いた製塩業や漁業を営んだ。 1948年(昭和23年)、「中交総社」(後の日清食品)を設立。専門家を集めて国民栄養化学研究所を設立し、牛や豚の骨からたんぱく質エキスを抽出することに成功、パンに塗るペースト状の栄養商品「ビセイクル」として病院にも供給された。栄養食品の開発に取り組んでいた頃、仕事の関係で厚生省に出入りしていたが、当時厚生省は米国の余剰小麦を使って日本人に粉食を奨励しており、同省栄養課長の有本邦太郎(のち国立栄養研究所長)に麺食を進言し、その研究を勧められる。 また、1947年(昭和22年)に名古屋で開校した中華交通学院のオーナー・理事長を務めた(1951年(昭和26年)に閉校して建物の大部分は名城大学となった)。
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